第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
使用を強制された。

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ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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