イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
(現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
攻め取ることは失敗に終わった。

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【アッパーカナダとローワーカナダ】

アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
ニューブラウンズウィックが設立された。

イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
イギリスだった。

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【植民地の拡張】
独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
統治し、通商の権限を握った。

19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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