東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ローマ帝国

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国
    (公爵の領地)などの領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の
    中で、7人が選挙候と呼ばれる地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組み
    であった。 976年、オットー1世の後継者であるオットー2世は、
    バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的地位の低い君主)
    に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと
    東のマジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が
    新たに整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、
    神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が
    大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルク家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤソミルゴットの地位を公爵に
    引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めて
    ウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で
    繁栄を続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったため、オーストリアの経済的重要性が大きくなった。
    リンツやクレムスなど川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年、
    隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、
    バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の
    財宝を求めて東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を
    攻撃し、やがてヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・
    シーザー指揮の下、ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を
    広げて行く。 紀元前15年には、ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、
    ローマ帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や
    果物を栽培し、ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、
    小さな市場を持つ街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、
    ヘルベチア族の定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、
    ヘルベチアの領土を取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を
    取り戻すため、ローマの役人はヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で
    働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】
    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に
    改修し、ローマカトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家の
    カール王(後のカール大帝)が現在のスイス、フランス、オランダ、
    オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの地域を含む広大な
    キリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇もカール王の
    力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の
    侵入に備えて兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、
    王には服従した。 王位は、世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も
    代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来
    上がっていた。 小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く
    代わりに、食料を与えられ、保護を受けた。 その身分は、法的に領地に属し、
    領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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    キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、
    キリスト教は、帝国領土内の人々の間に着実に広まり、4世紀には、帝国の
    国教として公認された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。

    この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は
    両地域の境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の
    大司教管区と定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を
    征服し、ここを『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。
    東からフランク帝国を攻撃して来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の
    意味を持つ名称となっている。 この名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』
    と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。
    817年オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配する
    バイエルン王国の一部となった。 834年にヴァルダン条約が締結されて
    相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東フランク王国を創設した。 これは、
    現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む広大な領域である。

    876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人と
    アヴァール人は東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

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    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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    イギリス諸島は、元からヨーロッパ大陸とは離れていたと思われていたが、
    4万年前は、地続きであった。 紀元前5000年に最後の氷河期が終わり、氷が
    溶けて水位が上がったため、大ブリテン島とヨーロッパ大陸の間に狭い海峡が
    生まれ、イギリスは島国となった。

    当初、大ブリテン島に住んでいたのは、大陸からやって来た人々であった。
    彼らは、石や骨格製の道具を使って巨大な森林を開き、農耕を営んだ。

    紀元前3000年頃にヨーロッパから新たな人々が移住し始め、紀元前2000年前後
    には、今日のドイツから大集団がやって来た。 彼らは、青銅器を使い、石や
    木でヘンジと呼ばれる円形の祭場を作った。 ストーンヘンジはそのひとつで、
    南イングランド中央部のソールズベリーに現存する。

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    約1500年後には、また新たな人々が移住して来た。 ケルト人と呼ばれる
    好戦的な彼らは、北ヨーロッパ出身で、鉄製武器を使い、やがて大ブリテン島を
    征服した。 ケルト人は、クランと呼ばれる氏族に分かれ、氏族間で権力を争った。
    落ち着くと、農耕を営み、紀元前500~100年には、イングランドは農業国
    となった。 言葉はクランで共通のケルト語を使った。

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    【ローマ時代】
    イングランドは、ヨーロッパ本土とは海で隔てられていたため、イタリアに中心
    勢力を持つローマ帝国の支配力は及んでいなかった。 しかし、紀元前55年には、
    ローマ軍指令官ジュリアス・シーザーがイギリス海峡を渡り、短期間だけだが
    イングランド南東部を襲撃、翌年更に大きな軍隊を率いて来た。

    ケルト人は、必死に抵抗したが、ローマ軍に敗北した。 シーザーは、和平条件を
    示したが、ケルト人はフランスの地で反逆活動を行い抵抗した。 シーザーは、
    イングランド支配を諦め引き上げた。

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    紀元前43年、ローマ皇帝クラウディウスは、軍隊をイングランド南東部に出動
    させた。 ケルト人は、ボアディケア女王を中心に、激しく抵抗したが、奮戦
    むなしく、1世紀末には、島を征服された。 ローマ人は新しい領土をケルトの
    1クラン、ブリトンにちなんで、ブリタニアと名付けた。

    征服者となったローマ人は、イングランドに道路を敷き、砦や都市を築いた。
    紀元後120年代には、ローマ皇帝ハドリアヌスの指揮の下、ローマ人は制圧
    出来なかった大ブリテン島最北の民族がイングランドへ侵入するのを防ぐために、
    『ハドリアヌスの長城』と呼ばれる城壁を築いた。

    ローマ支配が進むにつれて、ラテン語がケルト語に入り込んだ。 3世紀には、
    ローマ人宣教師がキリスト教布教のために来島した。

    文化的には強い影響力を持っていたのだが、ローマ帝国は、4世紀には崩壊し
    始めた。 ローマ軍司司令官や貴族達が権力争いをし、ローマの領地に及ぶ
    支配力が弱まった。 イングランド駐屯のローマ部隊は、帝国の他の地域を
    防衛するためにブリタニアを去った。

    4世紀後半、大陸ではゲルマン人達が反抗していたが、ローマ人は強いて鎮圧し
    ようとはしなかった。 5世紀半ばには、ローマはブリタニア支配を放棄していた。

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

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    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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    スウェーデンの地に最初に人がやって来たのは、およそ1万年前、最後の氷期の
    終わり頃だった。 彼らは、トナカイを狩り、果物や木の実を採ってあちこちに
    移動していた。 氷が溶けて来ると、人々は小舟に乗って、湖や川を通り、更に
    北へと移動した。 考古学者たちは、彼らの使った火打ち石、弓矢、魚を捕る
    ための槍などを発掘している。

    紀元前約4,000年頃から、スウェーデン南部では、人々が定住し、農耕を始める
    ようになった。 彼らは、穀物を栽培し、牛を飼った。 死者を埋葬する塚を作り、
    岩に彫刻や絵を施した。 紀元前約1,500年には、南部の人達は、小舟でバルト海を
    渡り、更にドナウ川に沿ってヨーロッパ本土まで入ったりして、交易をするように
    なった。 こうして船による旅の中で、商人達は、青銅の作り方を身に付けた。
    一方、北部では、その間も変わらず、人々は狩猟と採集の暮らしをしていた。

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    西暦1世紀に、スウェーデン人は、ローマ帝国との交易を行っていた。 ローマの
    作家タキトゥスは、西暦98年に表した著書『ゲルマニア』の中で、スウェーデン人
    について記し、彼らを『スイオーネス』と呼んでいる。 タキトゥスによれば、
    彼らは、たくましい男達で、船団を組み、強力な武器を持っていた。 これが
    スウェーデン人について書かれた最古の文献である。

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    西暦500年頃、好戦的なスベア人がスウェーデン南東部で勢力を持つように
    なった。 スベア人は、彼らの王が死ぬと、その遺体を現在のストックホルムの
    北にあるウプサラに埋葬した。 ウプサラには王宮があり、スベア人が信仰する
    オーディン、フレイ、トールという神々を祀る神殿もあった。 スウェーデンの
    人々は、自分達の国をスベリエと呼ぶ。 これは、『スベアの地』という意味。

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