多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:ローマ帝国

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    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

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    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    バルカン半島(南東欧)の小国アルバニア共和国は山がちの国であり、その歴史は
    長く波乱に富んでいる。 数世紀にも渡り、外国勢力の征服を受けて支配された。
    つい最近では、外国との交易や外交関係を一切絶つ鎖国政策を取ったことで知られて
    いる。 鎖国政策のお陰で経済は酷い状態になったが、その反面で、アルバニア人は
    古くからの独自の文化を守ることが出来たとも言える。

    アルバニア人はこの地域の先住民イリリア人の子孫である。 イリリア人は今から
    3000年以上も前に、バルカン半島に進出して住み着いた。 その後、ローマ帝国は
    イリリクムという州を置いて支配したが、イリリア人の多くは独立の精神を捨て去る
    ことはなかった。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、バルカン地域は混乱した。

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    これ以後の1000年の間、イリリア人の名で呼ばれたアルバニア人は、統一した
    政府を持つことは出来なかった。 アルバニアの河川の流域や、岩だらけの
    高地にわずかにある小さな土地を支配したのは、対立し合う有力な部族や強い
    力を持つ領主たちだった。 一方、イタリアのヴェネツィア共和国がアドリア海
    沿岸部の低地に港や貿易のための拠点を築いた。

    15世紀になると、オスマン・トルコが小アジアからバルカン半島に進出して来た。
    オスマン・トルコはアルバニア人領主を隷属させて支配を確立する。 そのため、
    アルバニアの都市や港の交易活動は衰えた。 アルバニアには肥沃な土地が
    ほとんどないため、農業生産は限られていた。 主要な輸出品と言えるのは、
    武器や外国軍隊への傭兵に過ぎなかった。

    アルバニアは1912年に、オスマン・トルコ帝国から独立を宣言した。 しかし、
    ヨーロッパ列強が新国家の国境を定めた後、数百万のアルバニア人が隣国に取り
    残されてしまった。 第一次世界大戦と第二次世界大戦の時期に、アルバニアは
    バルカン半島の支配権を狙う外国勢がぶつかり合う戦場となった。

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    第二次世界大戦期に抵抗運動を指導したエンヴォル・ホジャの下てで、戦後、
    社会主義政権が成立した。 1970年代末になると、ホジャは、真の社会主義国家の
    建設を理由に、社会主義国を含む全ての国との関係を絶った。 同時に、ただ
    ひとつの合法的な政治組織であった共産党が国内の反対勢力を容赦なく排除した。

    アルバニアは、1980年代初めまでに、孤立無援の国となった。 ホジャの鎖国
    政策は国内の産業を衰退させ、生産が落ちるにつれて、食料や日用品の不足が
    目立ち始めた。 ホジャが死去した1985年までに、アルバニアはヨーロッパで
    最も貧しい国になった。

    1990年代初めに社会主義体制が崩壊すると、新たな時代が始まった。 1992年には
    民主的な政権が成立し、経済再建に取り組んだ。 欧米の国々が再びアルバニアへの
    投資を開始し、貿易も再開された。 ここ数十年来初めてのことだが、アルバニア
    でも観光客が歓迎されるようになった。 これに伴い、政府は観光産業の進展に力を
    入れている。

    しかし、依然として貧困と、食料や日用品、職場の不足といった状態が続いている。
    隣接するバルカンの国々の民族紛争も、この国を新たな戦争に引き込む危険性を
    はらんでいる。

    政権が代わり、経済の面で多くの変化が見られたが、アルバニアは国を安定させ、
    繁栄を導くための長い戦いに直面している。

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    バルカン半島の最初の住民は、20万年前の石器時代の狩猟民族だった。
    考古学者たちは、ブルガリア領域内の何ヶ所もの洞窟で先史時代の道具や
    武器を発見している。 バルカン山脈のヴラッツアに近いマゴウラ洞窟では、
    紀元前3000年に描かれた人間や動物の絵が発見された。

    その頃、トラキア人と呼ばれる遊牧民族がマリッツア川渓谷に定住しつつあり、
    この人たちがトラキア王国を建設した。 この国家は間もなくギリシャ人の
    影響下に置かれることになった。 ギリシャ人たちは、都市や海岸の低地、
    それにエーゲ海の島々に住んでいた。 紀元前1000年以降、ギリシャの
    植民者たちは、黒海沿岸にも交易用の港をいくつか建設した。

    トラキアの王たちは、自分たちの領域を強化するため、ギリシャの有力都市
    アナティと同盟した。 しかし、紀元前4世紀になると、トラキアは、ギリシャ
    北部にあったマケドニアの国王フィリポスの攻撃を受けて敗北した。

    紀元前336年にフィリポスが暗殺されると、その息子のアレクサンドロス大王は、
    マケドニア軍を率いてトラキアと小アジアを通過し、中東と中央アジアにまたがる
    大帝国を建設した。

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    【ローマ人の統治】

    アレクサンドロスが紀元前323年に死んで彼の大帝国が崩壊すると、トラキアは
    独立を回復した。 しかし、領域内に金鉱があったため、イタリア半島を根拠地に
    領域を拡大中だったローマ人に目を付けられた。 ローマ人は紀元前2世紀に
    マケドニアを敗北させると、北進してドナウ川に到達した。 ローマはこの地域に
    2つの州を建設した。 ドナウ川とバルカン山脈の間にはモエシア、その南には
    トラキアである。

    ローマの兵士や農民たちは、2つの州内に定住して新しい道路や要塞や都市を
    建設した。 この地域の渓谷や平原で収穫された穀物はローマ軍に編入されたが、
    それでもモエシアとトラキアには平和が続いた。

    紀元前3世紀になると、ローマの力は衰え、遊牧民のゴート人が、北ヨーロッパから
    バルカン半島の都市や農地を攻撃した。 やがてアジアから来たフン族がモエシアに
    侵入した。 330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、首府をギリシャの港湾都市
    ビザンティウムに移して、ここをコンスタンティノープルと改称した。 その結果、
    ローマ帝国は東西に分裂した。

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    北方からの侵入に耐えかね、東ローマ帝国は395年にトラキアとモエシアから
    軍隊を撤退させた。 5世紀になると、侵入はますます激しくなり、西ローマ帝国は
    滅亡した。 東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、バルカン半島の
    各州は、帝国内に含まれることとなった。 やがて、ビザンティン帝国の
    支配者たちは、キリスト教を信じるようになった。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと遠く
    航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化もなく、
    国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模ながら、
    家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、コルクを
    作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との輸出入
    貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思っている
    人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ不安が
    残っている。

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い定住者が
    確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、前史時代に
    わずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の洞窟にも人間が
    居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り住んで
    来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に要塞の町を
    築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地でドナウ川を
    横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。 ボイイは、
    スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の大規模な侵略に悩ま
    された。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森からやって来た。
    チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを破り、スロバキアにあった
    ケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や他のチュートン人が、ドナウ川
    流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いたフランク人は、南ヨーロッパを支配
    していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】

    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、チュートン
    人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、川に沿っていくつ
    かの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南にある首都ローマから統治
    するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ帝国は、ローマを首都とする西と、
    コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の
    宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ平野から
    追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系のアヴァール人が
    スロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、何千というスラブ人が
    やって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通ってスロバキアの平野になだれ
    込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェという小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住していた
    チェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。 スラブ人の
    リーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。 アヴァール人を
    破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、637年の
    ヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、支配
    することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。 その後
    2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。 各地で
    衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な中央政府が
    ないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大のために戦った。

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    830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアとモラヴィア、
    更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる大モラヴィア帝国を建設した。
    東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して建設されたスラブ人の国だと言われている。

    大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン教会を
    取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教がぶつかる舞台と
    なった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、後継者のラチスラフ一派は、
    大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。

    863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、キリスト教の
    祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作ったグラゴール文字を使った。



    同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の甥である
    スヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会のカトリックへと
    改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に留まり、チェコ人は、ローマ・
    カトリック教徒になった。

    984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに侵入して
    来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。 ヨーロッパ
    南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在のスロヴァキアを占領し、
    その後、約1000年間に渡って支配した。

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    【プシェミスル家とボヘミアの統一】 

    大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、有力な
    豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人をまとめて、
    ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を滅亡させた東の
    マジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、ヴァーツラフはドイツ国王
    ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害
    した。

    しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、ヴァーツラフを
    聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。

    962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活させようと
    したのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・東ヨーロッパの多数の都市、
    領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今のEUのような国家共同体である。
    11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わってボヘミア王に迎えられたポーランド王
    ヴラチスラフは、ボヘミア公国を神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の
    義務を負うことになった。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていたハプスブルグ家の
    狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス越えの重要ルートを管理
    する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し
    (モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの各州が、
    スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州(カントン)同盟』)。
    軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いてハプスブルグ軍を打ち破る。
    同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に領土をめぐって何度か戦いを交わし、
    そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の東方と
    南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、それに
    対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、同盟軍は、
    1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。 オーストリアとフランスの
    援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、スイス側に付いたフリブールと
    ゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の支配権を
    握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ神聖ローマ帝国に
    属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、同盟軍は、
    反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国からの独立を
    獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、イタリア
    北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、フランス軍に
    敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練していたので、
    他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大する必要性が
    あったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第にスイス
    地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な領地を統治する
    ようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、ヨーロッパの多くの地域との間に
    重要な交易が始まった。 村人達は、街の市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの
    農村から運ばれて来た穀物と交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。 なかでも、
    ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。 その頃、
    小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、自由の身になる者が
    大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部のシュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの
    3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていたこの
    3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。 3州は、
    ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いのタ対立を
    解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、1年に
    一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わったのは、
    主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に対抗する
    3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    山間部や川の流域の洞窟に人が住み始めた先史時代に、今のチェコにあたる地域、
    ボヘミアとモラヴィアにも人類が住んでいた。 紀元前500年頃、ヨーロッパの北と
    東から遊牧民ケルト人がやって来た。

    ボイイと呼ばれるケルト人がボヘミアに定住し、その地域とボイイと名付け、それが
    ボヘミアの由来と言われている。 ケルト人の集落や最大の都市ボイオヘムームは、
    交易で栄えた。

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    しかし、ボイイ人は、西の地域に定住していたチュートン人(ドイツ系)と敵対関係に
    あった。 紀元前12年には、マルコマーニと呼ばれたチュートン人がボイイを征服した。
    ボヘミアとモラヴィアは、その後数世紀に渡って争いが続き、不穏な情勢にあった。
    侵入する遊牧民と、土地や交易をめぐって衝突が絶えなかったからだ。

    別のチュートン人一族がマルコマーニ人を征服して、南の盆地に定住したところ、
    アヴァール人とスラヴ人が東から移動して来た。 ローマ帝国軍の兵士達も、
    ヴァルタヴァ川の流域に前線基地を造るために、ボヘミアの森を通って前進して来た。

    ローマ人は、3世紀までにイタリア半島を基地に広大な帝国を築いていた。 しかし、
    外部からの侵入と政治的な内乱はローマ帝国を弱体化させ、ローマ帝国は、
    4世紀には東と西に分裂した。

    東西分裂の後、コンスタンティノープル(イスタンブール)は、東ローマ帝国の首都と
    なった。 しかし、ローマは、依然として西ローマ帝国の首都であった。 ふたつの
    首都共、ローマ帝国が公認したキリスト教の拠点としての地位を持った。

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    4世紀に入ると、チュートン人が南ヨーロッパとイタリアに侵入し、西ローマ帝国は
    滅亡した。 その後、スラヴ人の大集団が移動し始めた。 スラヴ人は東、南、西の
    グループに分かれていた。 東スラヴ人はロシアに、南スラヴ人は南東ヨーロッパの
    バルカン半島に、西スラヴ人は中央ヨーロッパ北部の川の流域と平野に集落を
    作った。

    なかでも、現在のポーランド、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアにあたる地域に
    定住した西スラヴ人は、最も大きな民族集団であった。 この民族大移動の時期に、
    ボヘミアとモラヴィアに到達したスラヴ人集団のひとつが、チェコ人の先祖である。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。 この
    新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国(公爵の領地)などの
    領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の中で、7人が選挙候と呼ばれる
    地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組みであった。 976年、オットー1世の後継者
    であるオットー2世は、バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的
    地位の低い君主)に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに入植して、
    村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと東のマジャール人の
    土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が新たに整備されて近隣諸国
    との交易が拡大された。 オーストリアは、神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、
    実質的には、独立国の要素が大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、バーベンベルク家は
    皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世
    ヤソミルゴットの地位を公爵に引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、
    初めてウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で繁栄を
    続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の戦士達は、
    イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かうことが多かったため、
    オーストリアの経済的重要性が大きくなった。 リンツやクレムスなど川沿いの都市が
    この時期に誕生した。 1192年、隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま
    死ぬと、バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の財宝を求めて
    東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を攻撃し、やがて
    ヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・シーザー指揮の下、
    ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を広げて行く。 紀元前15年には、
    ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、ローマ
    帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や果物を栽培し、
    ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、小さな市場を持つ
    街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、ヘルベチア族の
    定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、ヘルベチアの領土を
    取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を取り戻すため、ローマの役人は
    ヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】

    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に改修し、ローマ
    カトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家のカール王(後のカール大帝)が
    現在のスイス、フランス、オランダ、オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの
    地域を含む広大なキリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇も
    カール王の力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の侵入に備えて
    兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、王には服従した。 王位は、
    世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来上がっていた。
    小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く代わりに、食料を与えられ、保護を
    受けた。 その身分は、法的に領地に属し、領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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