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    タグ:ローマ

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    ポルトガル帝国が拡大するに連れ、南米ブラジルから中国大陸の沿岸マカオまでに
    広がった植民地との行き来に、船乗そのものをますます多く必要とするように
    なった。 船の難破、疫病、あるいは、ポルトガルの権益そ認めようとしない
    地元民との戦い等で多くのポルトガル人男性が死んで行った。 1500年代末まで
    には、遠隔の領土がポルトガルの財政と国民にとって重荷になって来たのである。

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    加えて、ポルトガルはローマ・カトリックの信仰を広めようとしたため、ポルトガル
    新領土や本国の非キリスト信仰者を動揺させることになった。 キリスト教会は、
    イベリア半島の人々、特に、イスラム人とユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと
    した。 キリスト教会は、更に、異教を禁じてしまおうと考えた。

    ローマ・カトリック教会は、異教、ないし、非キリスト教的信仰の疑いのある者は
    全て罰しようとし、異端審理のための宗教裁判所を作った。 冷酷な措置と厳しい
    裁判のため、一部のポルトガル人キリスト教徒さえも含む多くの非キリスト教徒達が
    異端のそしりを受け、投獄、あるいは、処刑の憂き目にあった。

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    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア
    北東部沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊が
    ポルトガルにやって来た。 これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点を
    つくり、地元の住民を相手に商売をはじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちに
    よって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル
    将軍は、戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を
    舞台に通商権を求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、
    軍を率いて現在のスペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、
    交戦した。 紀元前201年、ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア
    半島をローマ共和国に奪われた。

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    【ローマの支配】
    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りは
    ヨーロッパとの貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、
    ローマによる支配を安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が
    繰りかえされてローマ軍による征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は
    北進してルシタニア人と戦ったが、地元の抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく
    進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の指導者が戦いに敗れると、
    抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や
    基地の町を次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、
    いずれも当時建設された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、
    ローマの法律を適用した。 地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、
    ローマ人の衣服を身に付け、ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の
    神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの
    大半は、そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の
    代表的な都市はアウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。
    4世紀までに、宣教師たちによってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、
    このキリスト信仰は、その後、ローマン・カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に
    発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、オッソノバ(現在のファロ)や
    アウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】
    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島
    攻撃が始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め
    入っては領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、
    ガリシアに侵攻したのはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、
    といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系の
    スエビ人がアランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人
    と呼ばれる別のゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までに
    スエビ王国を西ゴート王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国が
    イベリア半島のローマ人の領土の大半を支配下におさめ、ゲルマン法による
    統治体制を敷いたのである。 選挙によって対抗する派閥勢力も生まれ、6~7
    世紀に掛けて互いに覇を争った。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河に覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気温の温暖化につれて、
    穴居していた先史人類たちは、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。

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    そのうちに、人々はこの地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るように
    なった。 その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心に
    なっていた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易中心が出来、熟練した工人たちが作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパの
    西部や北部に輸出された。

    紀元前450年頃、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士が、東からヨーロッパ東部を
    横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの工人たちは
    鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の管理で、強力で
    安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

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    【ローマ統治下のオーストリア】

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の祖先であるゲルマン人が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、ついには、王国を通過して
    王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。

    ローマ人は、イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海
    沿岸のほとんどを征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人たちは、
    ゲルマン人の攻撃を阻止するためにノルクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人
    たちを征服して、ドナウ川沿いに新しく要塞を築き始めた。 ローマ帝国は、
    この地域に3つの州を創った。 アルプス山地のラエティア、オーストリア中部の
    ノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を占めるパンノニアである。

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    この地域のローマ諸州では、安定した軍政の下で、200年に渡って平和が続き、
    往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が次々に建設された。 商人たちは、
    帝国の他の地域に、岩塩、金属、羊毛、家畜を輸出した。 ローマ人たちは、
    ウィンドボナ(現在のウィーン)とその東のカンヌントゥムに、城壁に囲まれた
    都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることとなった。 ドナウ川
    越の攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に帝国の指導者層が分裂して、国境
    沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は次第に衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、東からは
    スラブ人が、北からはゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃した。 5世紀末
    にはローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、アッティアラ
    という名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や交易ルートを
    めぐる争いもしばしば戦争の原因となった。

    ゲルマン人たちは、ノリクムとラエティアを征服し、スラブ人たちは、パンノニアに
    定着した。 北東からチェコ人たちがドナウ渓谷に侵入し、また西から移動して来た
    アレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯に幾つもの村落を作った。

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    慶長遣欧使節団に同行したソテロの『覚書』が残されているが、それには、
    『日本との通商はイスパニア(現在のスペイン)に利益をもたらすであろう 』
    とか、『通商が成れば、イスパニア系のフランシスコ会派は言うまでもなく、
    キリスト教宣教師を幕府が厚遇するであろう』と書かれていた。

    これだけであれば、通商が目的ということで別に問題はないが、更に驚くべき
    ことが書かれていたのである。 要約すると、『政宗は時期皇帝になるべき最強の
    実力者であり、家康の信頼もあつく、今回の使節派遣は家康の不快とするもの
    ではない』というものである。

    ここで注目されるのは、家康のキリスト教に対する姿勢である。 周知のように、
    家康は慶長17年にキリスト教を禁止している。 ただ、家康は『キリスト教は
    好ましくないが、貿易は推奨したい』と考えていた。 特に、ルソン(現在の
    フィリピン)とノビイスパニア(現在のメキシコ)は、当時、世界有数の産銀国で、
    その技術を導入したいと考えていたようである。

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    そのルソンは、ノビイスパニア副王の支配下にあり、ノビイスパニアは、
    イスパニア国王の下にあった。 だから、ルソンやノビイスパニアとの交渉が
    必要だったのである。 交渉のためには、好意を持っていないキリスト教宣教師
    とも接触を保っていなければならなかった。 家康が慶長18年までバテレン
    追放令を出さなかったのには、そうした背景があったのである。

    家康がはっきりキリスト教禁止を打ち出している状況の下で、政宗は何を考えて
    いたのだろうか。 ここに、政宗が天下を狙うという可能性を垣間見ることが
    出来る。 というのは、使節一行がマドリードからローマに行く時、マドリード
    から一行に従い、渉外係、兼通訳として同行したシピアーネ・アマチが
    『伊達政宗遣使録』というものを遣わしていて、そこにびっくりするようなことが
    書かれていたのである。

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    支倉常長がイスパニア国王フィリップ三世の前で次のように演説したという。

    わが君、奥州王は、陛下の強大なることと、その保護を請う者に対して、寛仁
    なることを聞き、予を派遣し、その位と領土とを陛下に献じ、大国と親交を結ば
    しむ。 今後、いつにても陛下の望みに応じ、喜びて、その全力を用いんとする。

    ここに、『位と領土とを陛下に献じ』とあることに注目したい。 政宗自身を
    『奥州王』と言っていることも興味深いが、これは、仙台領、別な言い方をすれば、
    奥州国を植民地として、イスパニアに献上し、イスパニア無敵艦隊の力を借りて、
    倒幕に立ち上がり、日本全土を自分のものにしてしまおうという意図があった
    ということになる。 ただ、この時の政宗の策略は、不発に終わっている。

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    伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、伊達輝宗の長男として生まれている。
    その12日後、中央では、織田信長が美濃の斉藤龍興を逐って、稲葉山城を奪い、
    岐阜城と改名している。 この時、信長は34歳。 政宗が『遅れて来た戦国武将』と
    言われる所以である。

    しかも、会津の芦名義広を摺上原の戦いで破り、奥州をほぼ制圧した天正17年
    (1589年)には、関白豊臣秀吉からの横槍が入った。 結局、翌年の秀吉による
    小田原攻めに従軍することとなり、政宗は、24歳の若さで秀吉に臣従せざるを得ない
    こととなった。 以後、豊臣大臣のひとりとして、天下を狙うなど夢のまた夢と
    言った感じであった。 秀吉から与えられた所領の支配を着実に進めるしかなかった
    のである。

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    政宗は、秀吉の資質を見抜き、秀吉に取って代わろうなどとは思わなかったものと
    思われるが、その秀吉が慶長3年(1598年)8月18日に亡くなったことで状況が
    少し変わって来る。 秀吉の遺児秀頼を盛り立てようとする石田光成と、秀吉に
    代わって実権を握ろうとする徳川家康との対立が鮮明になって来たからである。

    この三成と家康の対立の時、政宗は迷わず家康陣営に属しており、同5年
    (1600年)の関が原の戦いの時も東軍の一員として、西軍上杉景勝に対峙している。
    実は、関が原の戦いの前年、、堺の茶人今井宗薫が間に立って、政宗の娘の
    五郎八姫と家康の六男忠輝が婚約していたのである。 家康による見方陣営を
    増やす動きの一環であった。 因みに、二人の結婚は、大分後の慶長11年
    (1606年)12月のことである。

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    このように見て来ると、先の秀吉の時と同様、家康の下でも、政宗は忠実な徳川
    大名として生きていたように思える。 家康に代わって天下を狙うなど、あり得ないと
    いうことになる。 ところが、どうもそうではなかったらしい。 それが慶長18年
    (1613年)の慶長遣欧使節である。 この年9月15日、伊達領の牡鹿半島の
    月の浦を出帆したサン・ファン・バウティスタ号で、正使支倉常長の他、ソテロや
    ビスカイノ、更には、政宗の家臣、向井忠勝の手の者等、180人(一説には140人)が
    太平洋を渡った。

    この時期、ローマに使節を派遣した狙いは何だったのだろうか。 一般的には、
    ヨーロッパの国々との通商を目的としたとされている。 確かに、支倉常長が
    ノビイスパニア(現在のメキシコ)に着いた時、そこの副王とノビイスパニアの
    フランスシスコ会総長直属の管区等に宛てた家康の親書では、商船の往来を
    求めているため、それが狙いだったことは確かである。

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    410年にローマ人がイギリスから撤退すると、イングランドとウェールズは、
    地方の支配者が統治する幾つもの小さな王国に分裂した。 ピクトランドと
    アイルランドは、一度もローマに征服されることはなかった。 ピクトランド
    には、ピクト人が住んでおり、アイルランドには、スコットランド人が住んで
    いた。 スコットランド人は、ピクトランドを侵略し、自分達の民族の名前を
    とって、スコットランドという名前を付けた。

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    6世紀には、アングル人、サクソン人、ジュート人、と呼ばれるゲルマン人が
    大挙して北ヨーロッパからイギリスへやって来るようになった。 彼らは、
    その後の100年の間に、イングランドのほとんどの地域とスコットランドの
    低地に定住した。 アングル人は、その名を取って、イングランドとし、この時
    から、イングランドに住む人々は、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
    元々、イングランドに住んでいたケルト人は、西方のコーンウォールと
    ウェールズへ追いやられた。 6世紀から7世紀には、ヨーロッパから
    宣教師がやって来て、アングロ・サクソン人をキリスト教徒にした。

    アイルランドには、既に432年、聖パトリックがキリスト教をもたらしていた。
    その後の500年代に、聖コルンバがスコットランドとイングランド北部に
    キリスト教を広めた。 一方、イングランド南部には、カトリックの総本山の
    ローマからの聖アウグスティヌスが派遣され、人々をキリスト教に改宗させた。

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    900年代には、バイキングがイギリスの海岸を襲った。 1016年以降は、
    カヌートというデンマークのバイキングがイングランドを治めた。 伝説に
    よると、カヌート王の家来は、王には神のような力があると信じていた。
    そのような力は、持っていないことを示すため、カヌート王は、陸へ打ち
    寄せる波に止まるように命じたという。 もちろん、波は止まらず、水位は
    上昇し続けた。 デンマークによる支配が終わって間もなく、イングランドは、
    別のバイキングに征服された。 1066年、北フランスのノルマン人が侵略した
    のである。

    ノルマンの王たちは、国中に城を築いて権力を示し続けた。 支配者である
    ノルマン人は、フランス語を話し、それが次第にアングロ・サクソン語と
    混じって行き、現在の英語の元となった。

    イングランドを支配下に置いたノルマンの王たちは、1171年にアイルランドを、
    1289年には、ウェールズを征服した。 しかし、かつての支配者だったローマ人
    同様、スコットランドには撃退された。

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    アップ・ヘリー・アーという火祭りは、イギリスの変化に富んだ過去を
    まざまざと思い起こさせるもののひとつだ。 毎年1月にシェトランド諸島の
    ラーウィックで催される。
     
    祭りの最後を飾るのは、炎に包まれる実物大のバイキング船となっており、
    バイキングは、シェトランド諸島の東250キロにあるスカンジナビア半島から
    やって来た海賊である。 彼らは、8世紀からイギリスの沿岸部や島々を襲う
    ようになり、大勢がそのまま定住した。

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    初期のイギリスを作り上げたのは、あいつぐ侵略者達であり、バイキングも
    正にそうした一団だった。 その後、イングランドの支配者達が、ウェールズ、
    スコットランド、アイルランドをまとめ、強大なひとつの国イギリスを作り上げた。
    今、世界で最も広く使われている言語が英語であるという事実は、どれほど
    イギリスの勢力が大きかったかを示している。

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    【ローマン・ブリテン】
    初期のイギリス人は、およそ1万年前にやって来たピクト人だった。 紀元前
    8世紀にヨーロッパ大陸からケルト人がやって来て、ピクト人を北方の
    スコットランドへと追いやった。

    西暦43年、ローマ人がイギリスを侵略した。 4年後には、イングランドが
    ローマの領土となり、78年には、ウェールズもローマの手中に落ちた。
    スコットランドのピクト人だけがローマに征服されることなく国を守った。

    ローマ人は、イギリスの沢山の民族を支配した。 彼らは、都市や砦、道路網を
    築いた。 この時に作られた道路には、現在のイギリスの道路網の一部となって
    いるものもある。 ローマの支配下で、イギリスは豊かになって行った。
    そして、ローマ人の持ち込んだ進歩した生活様式を楽しむようになった。
    街には、公衆浴場や下水設備が造られ、田園地帯には、大きな邸宅が建てられた。

    400年になると、ローマ帝国は衰退し始めた。 ローマ人は、イギリスから
    撤退したが、彼らの影響は、様々なところに残された。

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