多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ロシア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

    exterior719

    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

    2d132a7dc0fc

    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    モルドバは、波乱の多い歴史を歩んで来た。 ベッサラビア北部は、14世紀に
    モルダビア公国の一部となった。 15世紀には、この地域全体がトルコの支配下に
    入る。 ロシア・トルコ戦争後の1812年に第一次世界大戦が終結すると、そこは、
    ルーマニア王国の領土となった。 しかし、その後1939年、ヒットラーと
    スターリンとの間に交わされた秘密議定書では、この地域は、ソ連の勢力圏に
    加えられた。

    fe8a0ecd

    そして1940年、ソ連は、ルーマニアにこの地域の割譲を強いたので
    ある。 ベッサラビア南部は、ウクライナの一部となり、その他の部分は、既に
    1924年に設立されていた『モルダビア・ソビエト自治共和国』(この国は
    ドニエストル川東岸の狭い地域のみを領土としていた)と統合された。 この
    統合により、『モルダビア・ソビエト社会主義共和国』が創設された。 第二次
    世界大戦中、この地域は、一時的にルーマニア領に戻ったが、1947年のパリ講和
    条約において、ルーマニアは、この地域のソ連への併合を承認した。

    ソ連政府は、各共和国で大々的なロシア化政策をとっていたが、モルドバも例外
    ではなかった。 10万人余りものモルドバ人が、ソ連の他地域に強制移住させられ、
    その代わりに、ロシア人やウクライナ人がやって来た。 政治的、経済的に重要な
    ポストの殆んどは、ロシア人によって占められた。 ルーマニアが民族的にも
    言語の上でも緊密な関係を持つ国であるという事実は、公的には否定され、
    ロマンス語族の一種であるルーマニア語を、この国では、ロシア語と同じキリル
    文字で書かなければならなかった。 チュルク語の族のガガウス語の場合も同様で
    あった。

    モルドバ人がルーマニア人と接触することは、事実上不可能であった。 もちろん、
    ルーマニア自体もやがて独自の道を歩むようになって行った。 ルーマニアの
    独裁者チャウセスクは、この占領された自国の領土に関する問題は、最終的には
    まだ解決されていないという主張を匂わす発言を再三行っていた。

    moldova01

    【モルドバ独立への道】
     民族運動がこのモルドバで再燃したのは、ミハイル・ゴルバチョフが改革路線を
    開始してからのことであった。 1989年以来、ルーマニア語を再びラテン文字で
    書くことが許されるようになった。 1990年夏、モルドバは、主権宣言を行い、
    ルーマニア語を公用語として定めた。 1991年夏にゴルバチョフが主催した
    新連邦条約に関する交渉にも、モルドバはもはや参加しなかった。 そして、
    1991年8月、ソ連のクーデター失敗後、モルドバは、独立を宣言した。

    どのような方法であれ、連邦の形態を新しくして存続させることには拒否の姿勢を
    とっていたモルドバも、1991年12月、独立国家共同体(CIS)には加盟した。
    半世紀も続いて来た経済的な関係を、即座に断ち切ることは出来なかったので
    ある。 また、共和国領内には多数の旧ソ連兵が駐屯しており、その撤退に
    関しても、拘束力の伴う協定は未だ存在しない。



    【揺れる民族のアイデンティティー】
    諸民族の問題は、この国に大きな波紋を投げ掛けている。 ロシア人は、
    ドニエストル川沿いに『ドニエストル共和国』という独立国の設立を宣言し、
    南部では、ガガウス人が同様に独立をうたっている。 モルドバ中央政府は
    もちろん、これを承認していない。 そして、更に重大なのは、モルドバは、
    いつの日にかルーマニアと統合すべきか否かという問いである。 この微妙な
    問題に関しては、これまでのところ、双方とも慎重な態度をとっている。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

    maxresdefault

    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    アメリカが突如、シリアに空爆を始めた。 この空爆は、トランプ大統領の
    命令を受けた米軍が行い、巡航ミサイル『トマホーク』59発を、シリア政府軍の
    基地に向けて発射した。 この基地は、民間人を化学兵器で攻撃した戦闘機の
    拠点だったとしている。

    c2bc9516.jpg

    米国防総省のデービス報道官によると、ミサイルは米東部標準時の午後8時40分
    (現地時間の午前4時40分)、基地の活動が最も少ない時刻に発射され、航空機や
    格納庫、ガソリンなどの倉庫、弾薬庫、防空システムなどを標的とした。

    米軍によるシリアのアサド政権に対する軍事攻撃は初めてで、トランプ大統領は、
    アサド政権が化学兵器を使用して攻撃を行ったと断定し、『致死性の神経ガスを
    使って、アサドは無力な男性、女性、子供の息の根を止めた』と強調。 対抗措置
    として化学兵器攻撃の拠点となった飛行場への攻撃を命じたと明らかにした。

    一方、ロシアのプーチン大統領は、この米軍による空爆を『主権国家に対する
    侵略だ』、『作り上げられた口実』と非難しており、ロシアとアメリカは、
    シリア上空で軍用機が飛び交う空域で事故が発生するのを回避するため、両軍を
    直接結ぶホットラインを設置していたが、ロシアはこの合意を停止すると発表した。

    30c6c969.jpg

    米ロ関係が一気に緊張した形だが、アメリカによる過去の空爆事例を見てみると、
    セルビア、イラク、リビア、シリア、ウクライナとアメリカによる一方的な空爆
    ばかりで、『世界の警察』を自称するアメリカが己の『平和』を一方的に主張して
    介入をして来ると、ろくでもない事しか起こらない。 この事は、広島や長崎を
    見ても一目瞭然。

    >>アメリカが一方的に決めつける平和とは?

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルクの地下鉄で起きた爆破テロ事件で、地元
    メディアは実行犯とみられる男がキルギス共和国出身でロシア国籍の男だと報じた。

    実行犯と見られる男は、1995年生まれのキルギス共和国出身、ロシア国籍の
    アクバルジョン・ジャリロフと報じられた。 この爆破テロ事件は、2017年4月3日
    午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄車内で起きた。
    タス通信によると、これまでに14人が死亡、更に49人が現在も入院中であると
    発表した。



    ソ連時代は、民族対立や人種差別が全くと言っていいほどなかったロシアだが、
    最近は、中央アジアや、ウクライナからの移民や難民が増え過ぎた関係で、
    ロシアと中央アジアとの関係が緊迫している。 そういうところに、このような
    中央アジア出身者によるテロ事件が起きると、アジア人やウクライナ人に対する
    差別が目に見えて増えるため、暫くは情勢不安定になると見るのが妥当。

    180を超える超多民族国家のロシアでは、誰が何人とはハッキリと言えない位に、
    色々な民族が入り混じって生活をしているため、一度争いが起きると、歯止めが
    掛からない。 特に、キルギスは、ロシアにとって、カザフスタンと並んで、
    最も仲が良い国なので非常に残念。

    igkgid

    近年、モスクワなどでも、移民が増え過ぎて、ロシア人でも仕事がなかなか
    見つからないという話を時折耳にする。 キルギス人は、本来、皆真面目で
    温厚な人が多いが、どうして、こうなってしまったのか? ここ数年、
    中央アジア人は、かなり差別をされており、なかなか仕事が見つからないため、
    こうなってしまったのか。。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ソ連崩壊から25年。 ロシアは、旧体制から引き継いだ対外債務をようやく完済
    出来る見込みとなった。

    ロシア政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する旧ソ連時代の債務1億2520万ドル
    (約140億円)を近日中に完済する方針を明らかにした。 セルゲイ・ストルチャク
    (Sergei Storchak)副財務相は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支払いで『旧ソ連
    時代の公的対外債務の返済が完了する。これは歴史的な出来事だ』と述べた。
    ロシアは現在、ウクライナ危機をめぐって、日本や欧米諸国から経済制裁を
    科されている。

    1991年末のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行
    責任を負って来た。 債務の大半は『ペレストロイカ(改革)』で民主化が推進
    された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。

    90年代後半、ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト
    (債務不履行)に陥った。 2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、
    2006年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を
    返済した。

    default

    ソ連時代の負の遺産は、ロシアがその殆どを引き継いだため、ロシア独立時には、
    この天文学的な大赤字は、一生掛かっても返済出来ないと言われたが、独立から
    25年で完済の運びとなった。 尚、ロシア独立当時の平均的な給与は、円に換算
    すると、月3,000〜6,000円しかなかった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1879年、ブルガリアの指導者らは、ヴェリコ・タルノヴォに集まって憲法を採択
    した。 この憲法の規定で一院制の国会が作られ、国会議員は、全ての市民の投票で
    選ばれることが決まった。 こうして出来た国会は、ドイツの公子バッテンベルグの
    アレクサンドルをブルガリア公に選んだ。 アレクサンドルは、ロシア皇帝の義理の
    甥にあたる人物だった。

    046E5ADBDDF95

    しかし、アレクサンドルは政府の閣僚を勝手に入れ替えたりして、不評を買い、
    ついには、憲法を停止した。 何年もの間、このブルガリア公は、ロシア軍将校の
    力を借りて国を支配した。 憲法を支持する自由党と、アレクサンドルを支持する
    保守党の間で激しい論争が続いた。 この危機を乗り切るために、アレクサンドルは
    1883年に憲法を復活した。

    2年後、東ルメリアの人々は、トルコに反乱起こし、その地域をブルガリアに統合
    した。 ブルガリア勢力の拡大を経過したロシアは、アレクサンドルを誘拐して
    新政権を樹立する陰謀を支持した。 この陰謀は、国会議員ステファン・
    スタンボロフによって阻止されたが、アレクサンドルは1886年に退位した。

    国会は別のドイツ公子フェルディナントをブルガリア公に選んだ。
    フェルディナントは有能で精力的な指導者で、ブルガリアの各党派の融合を
    果たした。 1908年、フェルディナントは、トルコの衰退に乗じて、東ルメリアを
    含む、全てのブルガリア国土の独立を宣言した。

    フェルディナントの指導の下、ブルガリアは工業と農業の近代化に取り組んだ。
    教育は広がり、識字率は大いに高まった。 しかし、工場での労働条件は過酷で、
    労働者の利益を守るために、社会民主党が結成された。 農民の利益を代表する
    農民連合も結成された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ロシアの歴史の始まりは、かつて、現在のウクライナ付近に存在していた
    『ルーシ』が元となっており、初期の時代は、ウクライナの歴史と同じなのだが、
    モンゴル・タタールによる支配の後、北にあったモスクワ公国が台頭し、現在の
    ロシアとなった。

    ロシアの本来の意味は、『櫂の国』で、当時のロシア国内では、バイキングに
    よる略奪が横行していたが、本来この『ルーシ』とは、バイキング船の『櫂』を
    表していた。

    モンゴル・タタールによる支配を跳ね返したモスクワ公国は、同じ東方正教の国、
    ウクライナをポーランド支配から解放した際に、ウクライナを併合した。
    モスクワは、この時点で、『ルーシ』の正当な後継国となったことから、その後は
    『ルーシ国』という意味の『ロシア』を名乗ることとなった。

    Russian_countries

     ロシアには、大きく分けて、王朝が2つ存在したが、そのうちのひとつである、
    リューリック王朝は、スウェーデンから皇帝を招いたもの。 その後、その血が
    途絶えたため、ロマノフ王朝が新たに誕生した。 ロマノフ王朝最後の皇帝、
    ニコライ2世は、1917年の2月革命後で退位に追い込まれ、家族と共に、首都
    サンクトペテルブルク近郊のアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されたが、
    最後はエカテリンブルグで家族共々処刑された。

    革命以降、レーニンが率いるボリシェビキと共産党による、世界初の社会主義国家
    ソ連が誕生した。 その後、ソ連は、アメリカと並ぶ、世界を二分する超大国と
    まで言われ、冷戦時代には、東ドイツまでの東欧をその支配下に置き、約70年もの
    間存在したが、最終的には、当時のゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカ
    (改革)と情報公開が原因で崩壊した。



    ソ連崩壊後の新生ロシアは、ソ連時代の負の遺産を全て引き継いだため、
    天文学的な財政赤字を抱えていたが、その地獄の底のような状況下で、
    突如、彗星のごとく現れたプーチン大統領の一代だけで、この一生涯無理と
    言われた財政赤字を一気に解消した。

    この奇跡的な赤字の解消は、オイルマネーによるところが大きかったのだが、
    ソ連崩壊後は、何でもありの混沌とした時代が続いたため、危ない橋を渡った
    人たちは、一気に新興財閥にまで上り詰めることが出来た時代でもあった。

    社会主義から自由市場主義へと社会が急転換したため、90年代後半は、経済危機を
    招き、日本企業が全撤退するという自体にまで陥ったが、2000年以降は、比較的
    安定しており、大きな経済発展を遂げた。

    その後、ウクライナでの内戦が勃発し、クリミア半島をウクライナから奪還した
    ため、アメリカを中心とする西側諸国から経済制裁を加えられ、ロシアの通貨
    であるルーブルが急落し、現在は、生活にまで深刻な影響が出て来ている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

    ntries

    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

    imagemainjhg

    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    モスクワ経由のアエロフロート・ロシア国際航空で、ロンドンへ海外出張に行って
    来た。 成田空港から、モスクワまでは、約11時間の空の旅。 ソ連時代からある
    アエロフロートは、最新鋭のエアバスを使用しているため、モニター、USB
    コネクター、WiFi、美人キャビンアテンダント付きとなっております☆

    動物愛護の国であるため、アエロフロートの機内には、大型犬も機内持ち込み
    可能。 実際に、猫を機内に持ち込んだことがあるのだが、キャビン
    アテンダント達も非常に親切で、水を持って来て貰ったことがある。 猫を
    ひざの上に乗せていても周囲からも全く文句は言われない。

    IMG_5534
    IMG_5535
    IMG_5538
    IMG_5541 (1)
    IMG_5552
    IMG_5554
    IMG_5557
    IMG_5561
    IMG_5574
    IMG_5565
    IMG_5580
    IMG_5588

    アエロフロートは、かつては、エコノミークラスの更に下のY2クラスに分類
    されていたのだが、今ではサービスにおいても、JALやANAを抜き去り、
    ヨーロッパへの最短ルートとなっている。

    途中、機内食は2回出るのだが、キャビンアテンダントに言えば、飲み物は
    何度でも無料で貰える。 WiFi使用料は30ドル。 英語とロシア語のみで
    その情報が記載されているため、何れかの言語を読めない限り、使えない。
    機内では、ロシア語と英語でもアナウンスしていたが、日本語でのWiFiの案内は
    なかった。 アエロフロートの機内食は、大体、肉か魚を選べる。



    ソ連の時代のアエロフロートは、キャビンアテンダントが国外に勝手に逃げては
    困るという理由により、熊のような体格の女性ばかりがキャビンアテンダントを
    務めていたが、時代は代わり、美人ばかりを取り揃えてサービスを行っている。
    尚、ソ連時代のアエロフロートは、機内はもちろんの事、シベリア上空を通過する
    際にも写真撮影禁止だった。 機内で撮影しているところを見つかると、フィルムを
    取り上げられた時代だった。 機内なのに、雨漏りがするとかも普通で、キャビン
    アテンダントが、ガムテープで応急処置をするという凄まじい時代でもあった。

    成田空港からものの2時間でロシア領内に入り、そこから9時間ロシア国内を飛ぶ
    こととなる。 中国領内を迂回して、ハバロフスク上空からロシア領に入るのだが、
    比較的北側を飛ぶため、上空から見える景色は、かなり寒々しいものとなっている。

    IMG_5599
    IMG_5603
    IMG_5604
    IMG_5605
    IMG_5607
    IMG_5608
    IMG_5616
    IMG_5618
    IMG_5619
    IMG_5623
    IMG_5625
    IMG_5626

    約11時間の空の旅の後、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港ターミナルDに到着。
    ソ連時代は、このターミナルDはシェメーチェボ第二空港という名前だった。
    但し、建物はその時代とまったく同じ。 トランジットと言えども、空港内から
    外に出る際には、ビザが必須であるため、今回は空港の外には出ずに、ロンドン
    行きの飛行機を待つことにした。

    ロシアでは、2回用の入国ビザを所持していたため、降りようと思えば降りられた
    のだが、シェレメーチェヴォ空港は、中心部にあるベラルーシ駅まで特急で40分
    掛かるため、帰りにモスクワで降りようと考えていたところ、肝心の帰りの
    飛行機が3時間以上も遅れたため、結局、この後、モスクワでは降りられない
    こととなった。 尚、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港では、英語での表記は
    かろうじてあるものの、係員は誰も英語を喋れない。

    シェレメーチェヴォ空港では、トランジットとは言え、パスポートと荷物の
    チェックがあるため、黄色い看板に従って進み、全てのチェックをうけなければ
    ならない。 一応英語表記もあるのだが、昔はロシア語のみの表記であった。
    相当適当な成田空港のパスポートチェックとは異なり、ロシアのチェックは
    かなり厳しいため、変な物を持ち込むと、ここで全て没収されることとなる。



    一昔前までは、手荷物を預けると、出て来ないのが当たり前であったため、空港には
    サランラップのお化けのようなものがあったのだが、今では、普通に荷物が出て
    来るようになった。 そもそも、アエロフロートの職員自体が泥棒という、
    やった者勝ちの航空会社だった。 郵便局も同様で、荷物をEMSで送っても
    届かないのが当たり前だった。

    パスポートコントロールを抜けて、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港の
    トランジットラウンジに到着。 お土産が色々と販売されているのだが、実は、
    この価格は、通常の市場の10倍ぐらいのぼったくり値段。 この3週間後に、
    ロシア連邦にあるウドムルト共和国とタタルスタン共和国に行ったのだが、
    シェレメーチェヴォ空港は、完全に0が一個多かった。

    ロシア人の間でも、シェレメーチェヴォ空港は、両替のレートがあり得ない
    ぐらい高いともっぱらの噂になっているので、空港での換金は、必要最低限に
    しおき、ベラルーシ駅に着いてから両替した方が賢い。

    ロシアでは、プーチン氏の人気が非常に高いということで、様々な大統領グッズが
    販売されていた。 ロシア土産の2大名物と言えば、マトリョーシカと
    シカトゥールカ。 マトリョーシカは、こけしのような木工細工で、
    シカトゥールカは、木で作った小箱に装飾を施したもの。 ロシア軍の
    ちょっとした軍服のようなものも人気。 また、ロシアでは、チェスも非常に
    人気がある。 日本ではチェスはゲームだが、ロシアではスポーツという
    括りになっているため、ロシア人の誰に訊ねても、チェスはスポーツだと
    答えるであろう。 

    IMG_5642
    IMG_5638
    IMG_5637
    IMG_5639
    IMG_5633
    IMG_5631
    IMG_5648
    IMG_5652
    IMG_5653
    IMG_5657
    IMG_5658
    IMG_5662

    モスクワで乗り換え時間約3時間の後、再度、アエロフロートでロンドン・
    ヒースロー空港へと飛び立った。 ヒースロー空港の地下には地下鉄が通っており、
    ロンドンの中心地まで一本で行くことが出来るのだが、この地下鉄が建設から
    既に100年以上経過しているため、あちこちで工事中。 この日は、ロンドン
    時間の夜の10時過ぎに到着したが、ピカデリーラインの途中駅で全員が地下鉄から
    降ろされ、バスでセントラルラインの終点駅、イーリング・ブロードウェイ駅まで
    強制的に連れて行かれた。 尚、ロンドンの地下鉄は、1駅4.9ポンド、約800円
    もする。

    ノッティングヒルは、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』の
    舞台だった場所で、今でも昼間は、かなりの観光客で込み合っている。 この日の
    目的地は、パディントンベアで有名なパディントン。 ホテルがパディントンに
    あるため、地下鉄で移動したのだが、後で調べたところ、パディントンへは、
    地下鉄よりも国鉄の方が遥かに便利であった。

    IMG_5878
    IMG_5663
    IMG_5974
    IMG_5980
    IMG_5981
    IMG_5998
    IMG_6003
    IMG_6017
    IMG_6062
    IMG_5987
    IMG_6065
    IMG_6137

    【お勧めの一冊】




    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

    009327

    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ