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    タグ:ロシア

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

    Uzbekistans

    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

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    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア帝国の支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

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    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

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    2017年4月3日午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄
    車内で起きた爆弾テロの主犯格と見られる容疑者が逮捕された。 ロシア通信が
    伝えた声明によると、男は中央アジア出身のアブロル・アジモフ(Abror Azimov)
    容疑者で、モスクワ近郊のオジンツォボで拘束され、容疑者の身柄は、取り調べの
    ため、重大犯罪の捜査を担当する連邦捜査委員会に引き渡された。

    自爆攻撃の実行犯は、アクバルジョン・ジャリロフ(Akbarjon Djalilov)容疑者
    (22)と特定されているが、地下鉄車内で既に自爆しており、中央アジアの
    キルギス生まれで、ロシア国籍を取得していたと見られている。

    連邦捜査委員会によると、アジモフ容疑者は1990年生まれで、「自爆テロリストの
    ジャリロフ容疑者の訓練を行った」としており、首謀者の一人と見なしている。

    14人が死亡、数十人が負傷したこの爆破事件をめぐっては、これまでにモスクワと
    サンクトペテルブルクで8人の身柄が拘束されており、8人全員が中央アジア出身と
    明らかにしている。

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    【キルギス共和国外務省の表明】
    キルギス共和国外務省は、一連のマスメディアを賑わせた2017年4月3日のサンクト
    ペテルブルグ地下鉄テロの容疑者であるジャリロフ・アクバルジョンがキルギス
    共和国民であるとの情報は事実とは異なることを正式に表明する。
     
    キルギス外務省が有する報告によると、A.ジャリロフは、1995年4月1日、キルギス
    南部のオシュ市に生まれ、民族的にはウズベク人であり、中等教育を満了して
    いない。

    A. ジャリロフが、かつてキルギス共和国国籍のパスポートを取得した事実はない
    ことを明言しておかねばならない。 2011年、16歳に達したジャリロフはロシア
    国籍の父の請願と共に申請書を提出し、ロシア国籍のパスポートを取得して以来、
    常にロシア連邦領内に居住していた。

    現在、キルギス共和国当局は、事件の捜査に関しロシア連邦の法執行機関への
    全面的な協力を行なっている。

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    カザフスタンの人口は、約1680万人で、そのうち、この国の名に由来するカザフ人
    (チュルク系の言語を話し、イスラム教スンニ派を信仰)の占める割合は、約40%に
    過ぎない。 また、スラブ系民族に属するロシア人は、人口の38%を占めており、
    カザフスタン人とほぼ同じ割合である。

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    主な少数民族としては、ドイツ人6%、ウクライナ人5%が挙げられるが、その他にも
    タタール人、ウズベク人、ウイグル人、ベラルーシ人、朝鮮人も住んでいる。
    カザフ人と言うのは、トルコ系とモンゴル系の両民族の血を引いている。
    『カザフ』という言葉が使われるようになったのは、16世紀である。 17世紀に
    なると、カザフ民族は、3つの独立した集団に分離し、互いにしばしば対立し、
    また、モンゴル系の部族とも争いを繰り返した。 彼らは、19世紀まで主に
    遊牧民として生活をしていた。

    1822年以来、カザフ人の住む地域は、ロシアに占領されていた。 1873年に併合
    された後、1880年代を中心に、ロシア人の入植が始まった。 1916年には、皇帝
    支配に抵抗して、暴動が起こったが、流血のうちに鎮圧された。 1917年のロシア
    革命後の数年間、カザフスタンは、内乱の舞台となったが、ボリシェビキの勝利に
    終わった。

    1920年、キルギス自治共和国がロシア共和国内の自治共和国として設立された。
    当時、キルギスという言葉は、カザフと混同して使われた。 1926年には、カザフ
    自治共和国と改称し、更に、1936年には、ソ連構成の一共和国に昇格した。

    その中でソビエト化や集団化の政策は暴力をも辞さずに推進された。 1941年には
    数十万人のロシアに住むドイツ人が、強制的にカザフスタンに移住させられた。
    1954年、新しく開拓地を広げる運動が起こったが、結果的には、ますます多くの
    ロシア人入植者をもたらしただけであった。

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    1985年からの、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)の気運の中、1986年に
    反ロシア抵抗運動が初めて起こった。 1990年10月25日にカザフスタンは、主権
    宣言を採択し、翌1991年12月16日に独立宣言を採択した。 同年12月21日は、
    独立国家共同体(CIS)に加盟。 この国家連合は、まだ創立後間もなく、形態が
    定まっていなかったのだが、その加盟国の中でカザフスタンは、際立った存在で
    ある。

    非スラブ系の共和国の中で、核兵器を所有するのは、カザフスタンのみで、国内
    では、カザフ民族とカザフ以外の多民族の間の緊張が高まっている。 また、
    ロシアとの国境問題もある。

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    古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
    8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
    モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
    18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
    次第に征服して行った。

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    1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
    併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
    地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
    かった。

    ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
    となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
    独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
    あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
    求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
    社会主義共和国』の設立が宣言された。

    1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
    共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
    それぞれソ連邦構成共和国となった。

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    【アルメニアとの宿命的対立】
    1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
    アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
    宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
    カラバフ自治州で始まった。

    約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
    よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
    統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
    返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
    アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
    会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
    アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
    凶行が繰り広げられた。

    ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
    直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
    アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

    数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
    同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
    ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
    この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

    新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
    独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

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    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

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    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    モルドバは、波乱の多い歴史を歩んで来た。 ベッサラビア北部は、14世紀に
    モルダビア公国の一部となった。 15世紀には、この地域全体がトルコの支配下に
    入る。 ロシア・トルコ戦争後の1812年に第一次世界大戦が終結すると、そこは、
    ルーマニア王国の領土となった。 しかし、その後1939年、ヒットラーと
    スターリンとの間に交わされた秘密議定書では、この地域は、ソ連の勢力圏に
    加えられた。

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    そして1940年、ソ連は、ルーマニアにこの地域の割譲を強いたので
    ある。 ベッサラビア南部は、ウクライナの一部となり、その他の部分は、既に
    1924年に設立されていた『モルダビア・ソビエト自治共和国』(この国は
    ドニエストル川東岸の狭い地域のみを領土としていた)と統合された。 この
    統合により、『モルダビア・ソビエト社会主義共和国』が創設された。 第二次
    世界大戦中、この地域は、一時的にルーマニア領に戻ったが、1947年のパリ講和
    条約において、ルーマニアは、この地域のソ連への併合を承認した。

    ソ連政府は、各共和国で大々的なロシア化政策をとっていたが、モルドバも例外
    ではなかった。 10万人余りものモルドバ人が、ソ連の他地域に強制移住させられ、
    その代わりに、ロシア人やウクライナ人がやって来た。 政治的、経済的に重要な
    ポストの殆んどは、ロシア人によって占められた。 ルーマニアが民族的にも
    言語の上でも緊密な関係を持つ国であるという事実は、公的には否定され、
    ロマンス語族の一種であるルーマニア語を、この国では、ロシア語と同じキリル
    文字で書かなければならなかった。 チュルク語の族のガガウス語の場合も同様で
    あった。

    モルドバ人がルーマニア人と接触することは、事実上不可能であった。 もちろん、
    ルーマニア自体もやがて独自の道を歩むようになって行った。 ルーマニアの
    独裁者チャウセスクは、この占領された自国の領土に関する問題は、最終的には
    まだ解決されていないという主張を匂わす発言を再三行っていた。

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    【モルドバ独立への道】
     民族運動がこのモルドバで再燃したのは、ミハイル・ゴルバチョフが改革路線を
    開始してからのことであった。 1989年以来、ルーマニア語を再びラテン文字で
    書くことが許されるようになった。 1990年夏、モルドバは、主権宣言を行い、
    ルーマニア語を公用語として定めた。 1991年夏にゴルバチョフが主催した
    新連邦条約に関する交渉にも、モルドバはもはや参加しなかった。 そして、
    1991年8月、ソ連のクーデター失敗後、モルドバは、独立を宣言した。

    どのような方法であれ、連邦の形態を新しくして存続させることには拒否の姿勢を
    とっていたモルドバも、1991年12月、独立国家共同体(CIS)には加盟した。
    半世紀も続いて来た経済的な関係を、即座に断ち切ることは出来なかったので
    ある。 また、共和国領内には多数の旧ソ連兵が駐屯しており、その撤退に
    関しても、拘束力の伴う協定は未だ存在しない。



    【揺れる民族のアイデンティティー】
    諸民族の問題は、この国に大きな波紋を投げ掛けている。 ロシア人は、
    ドニエストル川沿いに『ドニエストル共和国』という独立国の設立を宣言し、
    南部では、ガガウス人が同様に独立をうたっている。 モルドバ中央政府は
    もちろん、これを承認していない。 そして、更に重大なのは、モルドバは、
    いつの日にかルーマニアと統合すべきか否かという問いである。 この微妙な
    問題に関しては、これまでのところ、双方とも慎重な態度をとっている。

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    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

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    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

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    アメリカが突如、シリアに空爆を始めた。 この空爆は、トランプ大統領の
    命令を受けた米軍が行い、巡航ミサイル『トマホーク』59発を、シリア政府軍の
    基地に向けて発射した。 この基地は、民間人を化学兵器で攻撃した戦闘機の
    拠点だったとしている。

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    米国防総省のデービス報道官によると、ミサイルは米東部標準時の午後8時40分
    (現地時間の午前4時40分)、基地の活動が最も少ない時刻に発射され、航空機や
    格納庫、ガソリンなどの倉庫、弾薬庫、防空システムなどを標的とした。

    米軍によるシリアのアサド政権に対する軍事攻撃は初めてで、トランプ大統領は、
    アサド政権が化学兵器を使用して攻撃を行ったと断定し、『致死性の神経ガスを
    使って、アサドは無力な男性、女性、子供の息の根を止めた』と強調。 対抗措置
    として化学兵器攻撃の拠点となった飛行場への攻撃を命じたと明らかにした。

    一方、ロシアのプーチン大統領は、この米軍による空爆を『主権国家に対する
    侵略だ』、『作り上げられた口実』と非難しており、ロシアとアメリカは、
    シリア上空で軍用機が飛び交う空域で事故が発生するのを回避するため、両軍を
    直接結ぶホットラインを設置していたが、ロシアはこの合意を停止すると発表した。

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    米ロ関係が一気に緊張した形だが、アメリカによる過去の空爆事例を見てみると、
    セルビア、イラク、リビア、シリア、ウクライナとアメリカによる一方的な空爆
    ばかりで、『世界の警察』を自称するアメリカが己の『平和』を一方的に主張して
    介入をして来ると、ろくでもない事しか起こらない。 この事は、広島や長崎を
    見ても一目瞭然。

    >>アメリカが一方的に決めつける平和とは?

    【お勧めの一冊】


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    ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルクの地下鉄で起きた爆破テロ事件で、地元
    メディアは実行犯とみられる男がキルギス共和国出身でロシア国籍の男だと報じた。

    実行犯と見られる男は、1995年生まれのキルギス共和国出身、ロシア国籍の
    アクバルジョン・ジャリロフと報じられた。 この爆破テロ事件は、2017年4月3日
    午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄車内で起きた。
    タス通信によると、これまでに14人が死亡、更に49人が現在も入院中であると
    発表した。



    ソ連時代は、民族対立や人種差別が全くと言っていいほどなかったロシアだが、
    最近は、中央アジアや、ウクライナからの移民や難民が増え過ぎた関係で、
    ロシアと中央アジアとの関係が緊迫している。 そういうところに、このような
    中央アジア出身者によるテロ事件が起きると、アジア人やウクライナ人に対する
    差別が目に見えて増えるため、暫くは情勢不安定になると見るのが妥当。

    180を超える超多民族国家のロシアでは、誰が何人とはハッキリと言えない位に、
    色々な民族が入り混じって生活をしているため、一度争いが起きると、歯止めが
    掛からない。 特に、キルギスは、ロシアにとって、カザフスタンと並んで、
    最も仲が良い国なので非常に残念。

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    近年、モスクワなどでも、移民が増え過ぎて、ロシア人でも仕事がなかなか
    見つからないという話を時折耳にする。 キルギス人は、本来、皆真面目で
    温厚な人が多いが、どうして、こうなってしまったのか? ここ数年、
    中央アジア人は、かなり差別をされており、なかなか仕事が見つからないため、
    こうなってしまったのか。。

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    ソ連崩壊から25年。 ロシアは、旧体制から引き継いだ対外債務をようやく完済
    出来る見込みとなった。

    ロシア政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナに対する旧ソ連時代の債務1億2520万ドル
    (約140億円)を近日中に完済する方針を明らかにした。 セルゲイ・ストルチャク
    (Sergei Storchak)副財務相は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支払いで『旧ソ連
    時代の公的対外債務の返済が完了する。これは歴史的な出来事だ』と述べた。
    ロシアは現在、ウクライナ危機をめぐって、日本や欧米諸国から経済制裁を
    科されている。

    1991年末のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行
    責任を負って来た。 債務の大半は『ペレストロイカ(改革)』で民主化が推進
    された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。

    90年代後半、ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト
    (債務不履行)に陥った。 2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、
    2006年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を
    返済した。

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    ソ連時代の負の遺産は、ロシアがその殆どを引き継いだため、ロシア独立時には、
    この天文学的な大赤字は、一生掛かっても返済出来ないと言われたが、独立から
    25年で完済の運びとなった。 尚、ロシア独立当時の平均的な給与は、円に換算
    すると、月3,000〜6,000円しかなかった。

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