多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ロシア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ピョートル大帝は、湿地の広がるネヴァ川の両岸に、新しいロシアの首都である、
    サンクト・ペテルブルグを建設した。 ロシアには、海への出入口と『西欧への窓』が
    必要と考えたからだった。 数千人の人命を犠牲にしながら、1712年頃には、新しい
    首都の街並みは、おおよそ完成した。

    peter

    宮殿群と尖塔の街並みは、ヨーロッパ古典様式を反映したもので、多数の外国人
    建築家らによって建設された。 第二次世界大戦では、ドイツ軍が3年間に渡って
    この街を封鎖したため、100万人以上が死んだ。



    街の名称も、時代と共に変わり、1914年から1924年までは、ペトログラード、その後、
    1991年までは、レニングラードと呼ばれたが、その後、再びサンクト・ペテルブルグに
    戻された。

    bridge14

    【都市の構造】

    サンクト・ペテルブルグは、ネヴァ川につながる細い川や運河の周りに造られて
    いる。 ネヴァ川の左岸には、中心部と向き合う形でヴァシリエフスキー島や
    ペトロパブロフスク要塞がある。 ネフスキー大通りには、ネヴァ川から南へ放射状に
    伸びる数本の大通りの中でも、最も主要な通りとなっている。

    2022766

    【ペトロパブロフスク要塞】

    ペトロパブロフスク要塞は、1703年に建設され、 サンクト・ペテルブルグで最初の
    建造物で、その中央には、ペトロパブロフスク大聖堂がそびえ立っている。 細く高く
    伸びたその斜塔は、モスクワの聖ワシリー大聖堂と同じく、この街のシンボルに
    なっている。

    py5

    【ペトロドゥヴァレツ】

    フィンランド湾に面したペトロドゥヴァレツは、ピョートル大帝がとでも気に入っていた
    夏の宮殿だった。 フランスのベルサイユ宮殿や庭園をモデルにしたこの宮殿は、
    1714年に造られ、その後、ラストレリによって、更に増築された。 噴水の大滝は、
    その後、多数の彫刻で飾られた。 宮殿と庭園は第二次世界大戦中に荒廃したが、
    その後、美しく修復された。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
    なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
    存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
    (1613年~1917年)が存在していた。

    03332

    11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
    だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
    ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
    ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
    併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
    いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
    道を歩んで来た。

    1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
    滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
    1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの
    戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
    ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。

    その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
    この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
    長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
    妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
    豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
    征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
    等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
    ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。

    【イワン雷帝と息子のイワン】 

    img_0

    イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
    モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
    導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
    共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
    あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
    リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
    継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
    後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。

    【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
    russia01s_ani


    1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
    続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
    1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
    海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
    2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
    呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
    ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
    1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
    よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み
    着いた東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングの
    バリャーク人が、ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアから
    ビザンチウムへの交易ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、
    リューリクがロシア最初の王朝を建て、その後継者であるオレーグが最初の
    キエフ・ルーシを創建した。

    Russia_C2

    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、
    ルーシの多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。
    こうして、ルーシは、少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に
    力を伸ばし、やがて、タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ
    賢公、ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って
    栄え、ヨーロッパで最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の
    半目によって、弱体化していたキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが
    率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼされた。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北は
    オネガ湖まで至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、
    ウラジーミル、その後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。
    モスクワ公国は、白海から、東は、ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る
    土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、
    インド北部(現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、
    優れた騎馬団がルーシ南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を
    荒らし回った。 孫のバツーは、1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・
    ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルとスズダリを占領した。 更に、彼は、
    ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この際に、アジア側から
    ヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、ブルガリア人、
    ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシの歴史】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    さいたま市大宮区大成の鉄道博物館駅から歩いて数分のところに、本格的な
    ロシア家庭料理の店、『ターニャ』がある。 このお店を経営しているのは、
    ロシア人女性のターニャさんで、2011年の原発事故までは、福島県北部の
    国見町に住んでいたが、福島に旦那さんだけを残して、親子でさいたま市へと
    避難をして来た。

    IMG_8005.jpg


    埼玉県内では、恐らく、初めての本格的なロシア料理店であり、日本人が
    経営するなんちゃってなロシア料理が横行している日本では、かなり珍しい、
    本場ロシアの味が味わえる店となっている。 ターニャさんは、長年福島で
    日本語のみで生活をしていたため、日本語も非常に堪能。

    IMG_8007.jpg


    国道沿いに面しており、大宮駅と鉄道博物館駅との中間地点にあるため、
    徒歩ではなかなか行きづらいのだが、大宮に行った際には、是非とも立ち寄って
    欲しいお店。 店内には、ロシアのグッズが多数取り揃えてあり、ちょっとした
    ロシアへの旅行気分も味わうことが出来る。 琥珀やロシアお土産や本等も
    扱っており、料理だけではなく、ロシア土産も調達出来るため、非常に便利♪

    IMG_8013.jpg


    日本のロシア料理店は、戦中に見よう見まねで作り始めたものが殆どとなっており、
    実際に本場の味がする店は実はないため、『創作ロシア風料理』とするのが正しい
    日本語なのだが、これからは、本格的な味を楽しめるため、ロシア料理を食べる
    機会が増えそう?

    IMG_8008.jpg


    お店の住所はこちら: 埼玉県 さいたま市大宮区 大成町 2-180-5 サンエイハイツ 1F




    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る

    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1991年12月末に、ソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦内に15あったそれぞれの
    共和国は、独立し、『独立国家共同体(CIS)』という緩やかな国家連合に移行
    する事となった。 その直接の切っ掛けとなったのは、バルト三国での独立
    意識の高まりと、当時のゴルバチョフ氏が押し進めた、『情報公開』により、
    西側の情報が雪崩れ込んだため、それ以上の国家体制が維持出来なくなり、

    最終的に、ロシアが、同じスラブ人国家である、ウクライナとベラルーシを
    引き連れて、独立宣言を行った事にある。 よって、ウクライナ自体は、独自に
    独立活動をした訳ではなく、あくまでも、ロシアが独立する際の『道連れ』的な
    副産物に過ぎなかった。

    【ウクライナにおけるロシア語の使用率】
    language

    ウクライナは、1991 年に独立するまで、一度も自民族による独立国家を持った
    事がなく、その国境線も 20 世紀の後半になって、ようやく最終画定した経緯が
    あり、特に、東部のロシアとの国境は、長年に渡って、かなり曖昧なままであった。
    また、独立後、数年を経た後でも、ロシアとの国境線は、単なる『県境』程度の
    意味しか持たず、ソ連邦崩壊直後には、CIS内のどこの国境線においても、面倒な
    パスポートのチェック等はなかった。

    ウクライナは、元々は、ルーシ人の国家である、『キエフ・ルーシ』の中心地
    であり、その名の通り、キエフが首都であったが、モンゴルから遥々遠征して来た、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされ、街が徹底的に破壊された後、数百年間に
    渡り、復活する事が出来なかった。 その間、台頭して来たのが、北にある
    モスクワで、当時は、『モスクワ公国』と呼ばれていたのだが、ウクライナは、
    数百年間にも及ぶ、ポーランド支配を脱したかったため、同じ東方正教国家である、
    隣国のモスクワに助けを求めたが、そのまま、モスクワへと吸収され、それ以降、
    モスクワは、『ルーシの正当な後継者』という意味で、『ルーシ国』という意味の
    『ロシア』という国になった。
     
    AS2015021200

    ウクライナは、大きく分けると、西部が、ポーランド、リトアニアとの繋がりが
    強く、ガリツィア地方は、元々ポーランド領であったため、ロシアとの繋がりは
    希薄であった。 逆に東部は、ロシアとの国境線がなかなか定まらず、曖昧な
    ままにされたため、ロシア化が進んだ。西部地域は、ハプスブルグ家の支配を
    受けていた影響もあり、宗教的には、カトリックの影響が強い。 東部は、完全に
    東方正教の影響が強く、ウクライナは、東西格差が非常に大きい地域であった。

    ウクライナでは、独立後の1990 年代は、『中欧』概念の復活に乗じて、
    ハプスブルグの流れを汲む『ヨーロッパの一員』へのアイデンティティーに注目が
    集まり、EU、NATOの東方拡大や、2004年末の『オレンジ革命』を経た後は、
    EU加盟により、『ヨーロッパの一員』を希求するウクライナ・アイデンティティと
    『ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる』アイデンティティとして議論される機会が
    増えた。 

    『ヨーロッパの一員』を強く熱望する余り、ウクライナ全域で使用されている、
    ロシア語への批判的な処置が行われ、国内で放送されていたロシア語番組には、
    全てウクライナ語の字幕を入る事が義務付けられ、ロシア語は、基本的に『外国語』
    扱いとされ、ウクライナ語以外は、公の場での使用を基本的に禁止された。

    【オレンジ革命の末路 ダイオキシンを盛られたユーシェンコ元大統領】
    5205109a0a

    2014年に始まった『ユーロ・マイダン』以降は、ロシア寄りの政治家達を全て
    排除し、アメリカの誘導の元、EU寄りへと強引に舵を切ったが、そのEU自体が
    ウクライナ援助に関しては、全く乗り気ではなく、むしろ、ウクライナ排除の
    方向へと向かっている事実をウクライナ国民は全く知らさせてはいない。
    オリガルヒ(新興財閥)らによる情報操作も甚だしく、ウクライナでは、ウソが
    平然とまかり通っている。

    今後、ウクライナがEUの一員になる事を本気で望むのであれば、正しい情報の
    公開と、オリガルヒによる世界でも指折りの腐敗し切った政治を何とかしない限り、
    ロシアからもEU諸国からも愛想を尽かされる事となる。 本来、ウクライナが
    目指すべき道は、地政学的な事を鑑みても、『東西の架け橋』になる事であり、
    自分達の都合の良い主義主張ばかりをゴリ押ししているウクライナが、EU諸国の
    一員になれる日は、未来永劫ないのではないか?

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    ワールドミュージック に参加中!

    ロシアで毎年新年早々行われている歌謡祭『Песня года』 。 前年を代表するヒット曲を
    紹介する歌謡祭となっているが、ロシアの歌謡界は、非常にレベルが高く、美男美女
    ばかりが次から次へと出演するため、単に歌が上手いだけでは、ロシアではやって
    行けないことが、この動画を見ると良く分かる。

    放送時間も非常に長く、合計すると、約5時間ほど続くという、非常に見応えのある歌謡
    番組となっている。 尚、ロシアでは、音楽学校を卒業していない者は、基本的に、歌手には
    なれないため、このようなレベルの高い音楽を維持出来ている模様。

    【第一部】


    【第二部】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ウクライナは、10年ぐらい前の時とは、全く別の国に成り果てた。 元々旧ポーランド領、
    旧ハンガリー領、旧ルーマニア領、旧ロシア領とバラバラの広大な領土を抱えている国で
    あるため、本来、良いものであるはずの『愛国心』が『ファシズム』と化し、それらの地域を
    束ねる唯一の方法として利用されてしまったため、こうなったものだが、元々は、
    オーストリア領であった、ウクライナ西部地域に対する、オーストリア人の対応は、かなり
    ひややかなものがある。 ドイツ人の対応も似たり寄ったりで、フランス人に至っては、
    興味すらないと思われる。

    米国は間違っていた ウクライナ政府は「バラバラ」だ
     
    2014年末にウクライナのユーロ・マイダンで蜂起が起きた際には、日本の某新聞社も、
    『マイダンで戦って死んでいった英雄たちは、アメリカ側から日給にして30ドル程度を受け
    取ってテロ活動を行っている』と報じたのだが、その後、一切何も言わなくなった。
    ウクライナ内部から始まったとされているこのマイダンも、そもそもが、アメリカが後ろで
    糸を引いていたため、何もかもが、アメリカ寄りの報道しかなされなかった。 よって、
    ロシア側から、ウクライナに対して、人道支援が行われた際にも、国境付近で1週間も
    待たされたり、ウクライナに住んでいるロシア系住民が空爆で何千人も殺されようが、
    西側では一切報道されず、逆に、ロシアがウクライナに侵攻しているとされた。

    >>ウクライナとロシアの自己決定

    d6729f24.jpg


    クリミアのロシア返還に関しても同様で、元々、住民達がウクライナ支配を嫌い、
    住民投票を開き、正式にウクライナから独立した後に、クリミア住民達の意思に
    従い、ロシアへと正式に返還されたものなのにも関わらず、日本では、『ロシアが
    不法に占拠しているクリミア』の枕詞が消えることは最後までなかった。

    今回のウクライナ危機は、『情報戦争』とも呼ばれており、各国が、自分達に都合の
    良いように報道を広めたが、その証拠となるようなものは、一切提示されない
    ばかりか、後に、アメリカのバラク・オバマ大統領ですら、アメリカのウクライナへの
    関与を認めている。

    >>オバマ大統領、ウクライナへの政治的関与を認める

    3a1a339a.jpg


    日本では、外国語教育としては、英語のみしか選択出来ないため、一斉にアメリカ寄りの
    報道がなされたが、ヨーロッパの報道は、これとは全く異なる。 ヨーロッパで、アメリカが
    好きな人は、むしろ稀で、アメリカが嫌いと答える人がその大部分を占める。 物事は、
    一点ばかりから見ると、判断を完全に誤るという、典型的な事件が、今回のウクライナの
    内戦から得た日本の教訓なのでは? 早急に英語以外の外国語を小学校から学べるように
    すべし。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    ヨーロッパの旅 に参加中!

    ロシアのクリスマスは、日本やヨーロッパよりも約2週間遅れでやって来る。
    これはロシア正教の暦によるもので、西洋諸国ではグレゴリオ暦を使っている
    ため、12月25日にクリスマスを祝うが、ロシア正教では、ユリウス暦という
    古い暦を使っているため、1月7日がクリスマスとなっている。

    12月25日は、あくまでもカトリックのクリスマスであるため、ロシアでは、
    この日は特に特別な食事や特別なパーティは開かれないことが多い。 そもそも、
    ロシアでは、一般的にクリスマスを盛大に祝うという風習がない。 熱心な
    信者は教会へ行き、ミサに参加する。 そして、大多数の一般人は、ほとんど何も
    しない。 世界中がお祭りムードで盛り上がる12月25日のクリスマスもロシア正教
    とは関係がないため、一般のロシア人は、実は、ほとんど何もしない。
     
    e8d340c0b237

    しかし、大晦日から元旦に掛けての年明けの瞬間は、ロシア中がお祝いムードに
    一色に包まれます。 そこで登場するのがёлка(ヨールカ)と呼ばれるクリスマス
    ツリーとДед Мороз(ジェット・マロース)と呼ばれるサンタクロースのような
    マロース爺さんとその孫娘のスネグーラチカ(雪娘)です。

    1700年頃、ピョートル大帝がロシアのヨーロッパ化を推し進めると同時に、この
    ヨールカの原型であるクリスマスツリーがドイツからロシアに入って来ました。
    ドイツでは、キリスト教以前からモミの木を飾る風習がありましたが、当時の
    ロシアでは、モミの木は「死の象徴」とされていたため、人々は家の中にモミの
    木を持ち込もうとしませんでした。 それから100年以上経った1852年に、モミの
    木は初めて、サンクト・ペテルブルグのエカテリーナ駅(現モスクワ駅)構内で
    飾られる事となりましたが、これがヨールカの始まりとなりました。
     
    dedmoroz0007

    ジェット・マロースは、 Дед(ジェット)がお爺さん、 Мороз(マロース)は
    極寒という意味。 元々は冬の神様、冬の精のような存在だったものが、19世紀
    後半になって、ロシアでもサンタクロースのような存在を導入する動きが高まり、
    サンタクロースとジェット・マロースが結び付けられました。 しかし、
    ソビエト時代に入り、宗教弾圧によって、ジェット・マロースも一旦姿を
    消します。
     
    45101551f88d

    1935年、ソビエト政府は、子供達のために新年を祝う計画を発表をし、
    1937年には、ソビエト政府の公認により、ジェット・マロースが孫娘の
    スニェグーラチカを連れて登場しました。 スニェグーラチカは、ロシア
    民話に登場する雪で作られた女の子で、19世紀末から20世紀初頭に掛けて、
    子供たちが新年に演じる芝居の中で度々登場するようになり、ヨールカに
    人形が飾られるようになりました。 それ以来、ジェット・マロースと
    スニェグーラチカは、ロシアの新年のシンボルとなりました。

       【ジェット・マロースが登場する物語の一例】
    継母に虐げられる娘がいた。 継母は連れ子を溺愛するあまり娘を家から
    冬の野に追い出してしまった。 悲嘆する娘の前にジェド・マロースが現れ
    冷たい風を吹き付ける。 ジェド・マロースは娘に「暖かいか」と問い、娘は
    「暖かい」と答える。 問答を何度か続けた後ジェド・マロースは毛布や
    食料を与えた上で娘を生かす。

    生還した娘を見て継母は連れ子にも同じ幸運を受けさせるべく連れ子を外に
    放つ。 先と同様ジェド・マロースが現れるが、性格の悪い連れ子は「寒い」
    と一点張り。 連れ子は凍死する。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    旅に出よう! に参加中!

    ウラジオストク自由港内への8日間のビザなし渡航が、2016年1月1日からいよいよ
    許可される。 ウラジオストク自由港に関する連邦法は、2015年10月12日に施行
    された。 自由港体制は、ウラジオストク、ナホトカ、ウスリースクなどを含む沿海
    地方の15の行政区で稼働する。 フリーゾーンの面積はおよそ3万平方キロメートル、
    人口は140万人となっている。

    kkkfffff

    ウラジオストックは、1935年にそれまであった小規模な艦隊を拡張する形で、
    ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。 ソビエト
    連邦時代の1938年には沿海州を改組した沿海地方の州都となると共に軍港として
    重視され、1958年からソ連の崩壊する1991年まで、極一部を除いて外国人の居住と、
    ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市であった。 その間、
    東のナホトカが外国貿易港の機能を代行していた。 このため、90年代初頭までは、
    地図すらなかった。

    96657f04

    90年初めのロシアのビザには、滞在都市全てを事前に記載しなければならず、
    それ以外の都市に行く事は完全に禁止されていた。 その後、ビザ記載都市以外
    からの出国禁止まで緩和され、その後、更に、写真が2枚必要だったものが、1枚に
    変更され、その後、更に、事前申請でビザが無料となり、ついには、8日間だけだが、
    ウラジオストックを訪れる際には、ビザが不要となった。 主な観光地は、金角湾、
    ルースキー島等。

    0llll1

    ウラジオストックは、成田空港からは、2時間で到着できる、ヨーロッパでもアジア
    でもない、日本から最寄りのロシアとなっている。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    国際連合が2015年度版の世界人口推計を公表した。 前回発表された2012年版
    では、主要国の中で
    人口減少に転じている国として、特に日本、ロシア、ドイツが
    指摘された。



    afbe224c.jpg

    afbe224c.jpg


    2000年を100とした指数を以下の図で見ると、2012年に予想されていた2070年度の
    日本の人口は、
    77の23%減と見込まれていたが、2015年度版では、76の24%減と
    下方修正された。

    平均寿命の短いロシアは、2012年度版の予想では、2070年時点の
    人口が75と予想されていた
    ものの、2015年度版では、82と大幅に改善された。

    一方、ドイツは、2012年度版では、78と予想されており、日本とほぼ同様のペースで
    減少する見込みとなっている。

    一人っ子政策の影響により、中国の人口も2070年頃からは、減少に転じるとされている。
    今回の2015年度版で見ると、2070年時点で人口減少となる主要国は、日本、ロシア、
    ドイツ、
    中国の上記4カ国に加えて、韓国、イタリアの2カ国が加わっている。

    2100年の時点で、世界全体の人口は183となっており、全体では人口増加が続いて
    いるものの、
    スペイン、インド、インドネシア、メキシコ、ブラジルといった国々でも、既に
    人口減少が始まって
    いることが確認出来る。

    この先も順調に人口が増加し続ける国は、イギリス、フランス、アメリカ
    ぐらいである。
    日本をはじめとする、人口減少が進む国々の状況を見てみると、2012年度から見た
    2070年度の
    推計では、ロシアが75となっていたものの、2015年度の推計は82と大幅に
    改善されており、
    人口減少のペースが鈍化しているのが分かる。 また、ドイツも、
    2012年度の推計では78だった
    ものが、84となっており、ロシアと同様に鈍化が確認
    出来る。

    2100年の予想を見ると、ロシアは80となっており、2012年度に予想されていた落ち
    込みを回避し、
    また、ドイツも77と減少ペースが減少している。

    一方、日本の2070年度の予想を見ると、2012年度に予想された数値は77だったのに
    対し、2015年度においても76と改善は見られず、2100年には、66という大幅な下落が
    見込まれている。

    中国は2015年度の予想を見ると、2100年時点で79と急速に悪化するが、統計外
    人口の存在が確実視されており、統計の真正性にも疑念が残っている。 日本の2100年
    時点の人口は、8,300万人台と見込まれており、この66という指数は、2000年当時の
    人口と比較すると、約3分の2程度の人口しか維持出来ないという状況となっている。

    日本の65歳以上の高齢者が生産年齢人口に対する比率は、2000年には36%であった
    ものが、2100年には69.2%と大幅に上昇する見通しとなっている。

    日本以上に人口減少する見込みの国は、台湾、アルメニア、ジョージア、ブルガリア、
    ポーランド、
    モルドバ、ルーマニア、ウクライナ、エストニア、ラトビア、リトアニア、
    アルバニア、クロアチア、
    セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、プエルトリコ、米領
    バージン諸島、バミューダ、北マリアナ諸島
    だけとなっている。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    今話題のニュース に参加中!

    ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は、2015年9月16日、ロシアの航空会社による
    ウクライナへの乗り入れ、並びに、ウクライナ上空の飛行を10月25日から1年間禁止する
    ことを定めた、『ウクライナ国家安全保障・国防会議(RNBOU)決定』を承認する大統領令に
    署名したが、ロシアは、9月29日、対抗措置として、ウクライナの航空会社によるロシア
    領空の使用を10月25日から禁止することを発表した。

    ウクライナのヤツェニュク首相は大きな航空会社、つまりアエロフロートとトランスアエロの
    飛行禁止を特に強調した。 『ロシアの三色旗をつけたロシアの航空機は、ウクライナの
    空港では、何もすることはできない』とヤツェニュク首相は述べた。

    一方、ロシア航空局は、ロシア連邦運輸省の委任により、ウクライナの航空会社に対して、
    10月25日より、ロシア上空を通過することを止めるよう、通告を行った。
     
    apjapan_1000

    現在、ロシアとウクライナの両国間の直行便は飛んでおらず、航空券の販売も行われては
    いない。 ロシアからウクライナまで飛行機で行くには、第三国での乗り換えが必要となる。
    その最有力候補となるのが、ベラルーシの国営航空会社『ベルアヴィア』、ラトビアの
    国営航空会社『エア・バルティック』、トルコの『ターキッシュ・エアラインズ』、または、
    『LOTポーランド航空』となっているのだが、どの航空会社も、一旦、ウクライナ付近を
    通過してから、再度逆方向へ戻る形となるため、使い勝手が非常に悪い。

    その他、フランクフルト、ミュンヘン経由のドイツの『ルフトハンザ』や、ウィーン経由の
    『オーストリア航空』も考えられるのだが、これらの航空会社の運賃は高い上、所要時間も
    長くなるため、余りお勧めは出来ない。

    3c559b63c

    鉄道での両国間の往来は、今のところ、可能となっており、第三国での飛行機の
    乗り換え時間を考えると、モスクワ⇔キエフ間の所要時間は、航空機とさほど大差が
    ないと思われる。

    ウクライナ東部での戦闘では、これまでに約8,000人の死者が出ている。 ウクライナ軍と
    親ロシア派と呼ばれているロシア系住民との間では、停戦協定が発効しており、散発的な
    違反行為は起きているものの、協定は大枠で順守されているとされる。

    ロシア国内には、約350万人ものウクライナ人が住んでいるため、モスクワ⇔キエフの
    定期便の乗客は、概ね、ウクライナ人となるが、ウクライナ政府は、このような自国民をも
    苦しめる政策ばかりを打ち出しており、現在、ウクライナから分離独立を果たした、クリミア
    半島では、ウクライナの過激派による送電線の破壊により、大規模停電が続いている。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ロシア連邦の首都であるモスクワは、ロシアのみならず、ヨーロッパ最大の都市
    でもある。 人口は、約1,000万人となっており、東京、ニューヨーク他と並ぶ、巨大
    メガロポリスと
    なっている。

    世界で最も美しいと言われているモスクワの地下鉄は、アメリカから核ミサイルが
    飛んで来た際には、
    核シェルターにもなる非常施設であるため、全て地中の深い
    場所を通っている。 モスクワの
    地名の由来は、モスクワ川の河岸にあるため、
    都市の名前もモスクワとなった。



    現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシは、元々は同じひとつの国で、ルーシ時代の首都
    である
    キエフが、モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされたため、その中心地は、北方に
    あるモスクワ公国へと
    移った。 キエフがあるウクライナは、その後、数百年間にも及ぶ
    ポーランド支配から脱した際に、
    同じ正教の国であるモスクワが吸収したため、国の
    名前は、『ルーシ国』という意味のロシアに
    なったもの。



    dc42e709.jpg


    『ルーシ』とは、古代バイキングの言葉であるノルマン語で『櫂』という意味。
    ヨーロッパでは、
    形容詞+ ia で終わる国名が多いのだが、その理由は、この『ia』が、
    ラテン語では『国』という
    意味であるため。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ