乱世の権力闘争を制して、モスクワが覇権を握ったのには2つの要因が
あったとされている。 まず、地理的条件。 モスクワは、ロシア平原の
ほぼ中央にあって、周囲を森で囲まれていた。 タタール勢の襲撃を
受けにくい比較的安全な場所だった。 また、モスクワ川によって
ロシア各地と結ばれていた。 中世では、河川は重要な交通手段だった。
交易の中継をすることでモスクワは莫大な経済的な利益を得た。

open-uri20131211-27453-10pvp38

次に挙げられるのが、歴代の君主の巧妙な外交手段である。 その点で
とりわけ目立ったのは、ダニールの息子でカリター(銭袋)とあだ名された
イワン1世であった。 イワンはタタールに取り入って、ロシアから
キプチャク・ハン国に納入すべき貢税の徴収権を手に入れた。 そして、
豊富な資金に物を言わせて、モスクワ公国に隣接する諸侯から土地を
買い入れて領土を拡大して行った。 ロシア全土のキリスト教会を
統轄するキエフ府主教は、タタールの襲来以来、以後ウラジーミルに
居を移していたが、それが招かれてモスクワに腰を落ち着けたことも、
新参のモスクワの権威を高めるのに役立った。

Ivan_Kalita

それにつれて、クレムリンの内部も次第に拡張されて行く。 考古学的な
発掘で確められるところでは、イワン1世の代には既にアルハンゲリスキー、
ブロゴベーシェンスキー、ウスペンスキー等の大聖堂が揃って立ち、
ハン国の客人を宿泊させるためのタタール館やチュードフ修道院が
クレムリンの内側に建てられていた。 クレムリンの中に住むのは、
公の家族と貴族や僧侶で、商業が行われるのは、初めのうちモスクワ川と
クレムリンの城塞の間の空き地だった。 それが、ポサードと呼ばれた。
イワン1世の治世になって、市の立つ場所をクレムリンの東側に移した。
赤の広場の原型が姿を現したのである。

イワン1世の孫にあたるドミトリー大公の代にモスクワの興隆は一段と
進み、ドミトリーは、ロシア諸侯の連合軍を率いて、タタール軍を
南ロシアのドン川の彼方、クリコヴォで打ち破った。 ドミトリー大公は
この勝利によって、ドンスコイ(ドンの英雄)と呼ばれるようになった。

ドミトリーの功績のひとつは、クレムリンをほぼ現在の規模にまで
広げて、1367年の火災で焼け落ちた木の柵の代わりに石炭岩でクレムリンを
囲ったことである。 「白亜の石のモスクワ」という美称がここから
生まれた。

また、14世紀の後半には、モスクワの周りにアンドロニコフ、
シーモノフ、ロジェストヴェンスキー、スレーチェンスキー等のような
修道院が次々と開かれた。修道院と言っても、有事の際には、出城の
役割を果たすように広い敷地を持ち、賢固に築かれていた。 これらの
修道院は現存していて、あるものは修行の場に、あるものは博物館に
なっている。 もっとも、現存の建物は、いずれも後代のものである。

ドミトリー・ドンスコイ大公が没する頃のモスクワの人口は、3万
ないし4万人に達していたものと推測されている。

【お勧めの一冊】



>>トップページに戻る



クリックをお願いします☆
にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村