アレクセイの息子で、大胆にロシアの近代化を推し進めたのは、ピョートル1世
である。 再婚した妻から生まれたので、父が亡くなった時は、4歳の幼児に
過ぎなかった。 異母兄弟であるフョードルが跡を継いだが、その兄の治世は、
6年しか続かなかった。 10歳のフョードルは、やはり異母兄弟のイワン5世と
共に、共同統治者として帝位に就くが、政治の実権を握ったのは、摂政の地位に
就いた1番上の姉であるソフィアだった。 ソフィアは、男勝りの野心家だった。

ピョートルは、母と共にモスクワの東北の郊外にあるプレオブラジェンスコエ村
に住み、外交上の葬式の時だけ、クレムリンに顔を出していた。 ピョートルが
夢中になっていたのは、戦争ごっこである。 隣にセミョーノフスコエ村があり、
ピョートルは、両村の少年達を誘って、『遊戯軍隊』を組織し、実戦さながらの
訓練に明け暮れた。 プレオブラジェンスキー連隊とセミョーノフスキー連隊は、
後に近衛隊として、ロシア帝国常備軍の中核となる。
1689年にソフィアがクーデターを計画しているという急報を受けて、ピョートル
親子は、モスクワから70キロ離れたトロツェ・セルギエフ修道院に避難した。
その知らせは、誤報と判明すると、それを機会に、ソフィアは摂政の位を失い、
ノボデビッチ女子修道院に幽閉された。
プレオブラジェンスコエ村から市内に出る途中にドイツ村と呼ばれる外国人
居留地があったが、ピョートルは、足繁くここを訪れ、ヨーロッパの進んだ
技術に親しみ、側近の貴族達をドイツ村に住まわせた。 特に、スイス人
レフォールトを重く用いて、旅行や遠征に伴い、1697年からの西欧諸国への
大使節団の団長に任命した程である。
300人の使節団の中には、ピョートル自身が加わっていた。 自分の目で先進国の
文物に接すると共に、軍艦建造の技術等を習得したのである。 彼の外国滞在中に、
モスクワでは、保守派のソフィアにそそのかれて、銃兵隊の反乱が発生した。
ピョートルは、直ちに帰国し、1,000人を越す反乱参加者を処刑した。 赤の広場で
首を切られたり絞首刑に処せられたした死骸が、5ヶ月も放置されたため、
モスクワ中に悪臭が立ち込めた。 蜂起の首謀者は、特に、ノボデビッチ女子
修道院の中のソフィアが閉じ込められた部屋の窓際に吊るされた。

それと同時に、ピョートルは、あらゆる面での改革に着手する。 ビザンチン
様式だった暦をユリウス暦に改め、貴族には、ヒゲを切り落とさせ、西欧風の
衣服を身に纏わさせた。 歴法を切り替えたばかりの1700年にスウェーデンと
戦争を始めたのは、バルト海への出口を確保するためだった。 この戦争の過程で、
ネバ川の河口にサンクト・ペテルブルグを建設した。 そこに遷都するのは、
1712年~13年に掛けてである。
もっとも、モスクワは、首都の資格を失った訳ではなく、ロシア帝国には、
2つの首都があるとされた。 例えば、歴代の皇帝の戴冠式は、クレムリンの
ウスペンスキー大聖堂で行われる習慣があった。 しかし、新都の出現によって、
モスクワの性格が大きく変化した事は否めない。
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