多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:ロシア

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    ドナルド・トランプ米大統領の側近で、娘婿のジャレッド・クシュナー
    上級顧問は、2017年7月24日、ロシア政府が昨年の米大統領選挙に介入したと
    される疑惑について、上院情報特別委員会で非公開の聴取を受けた後に会見し、
    自身がロシアと共謀関係にあったことはないと強く否定した。



    珍しく公の場で発言したクシュナー氏は『私が自主的に提出した記録と文書に
    よって、私の行動がすべて適切だったことや、類を見ない選挙運動の中での
    正常な出来事の範囲内で行われたことが示されるだろう』と述べた。

    同氏はまた、『はっきりさせておきたい。 私はロシアと共謀したこともないし、
    (トランプ)陣営で共謀を働いた人物も知らない。 私が不適切な接触を持った
    こともない』と主張。

    その上で『ドナルド・トランプ氏の方がよりよいメッセージを発し、より賢い
    選挙運動を行った。 それこそが、私たちが勝った理由だ。 そうでないと
    言うのは、彼に投票した人々に対する愚弄だ』と語気を強めた。

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    教育水準の極端に低い国の苦悩はまだまだ続きそうだ。

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    ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は、2017年5月16日、ロシアへの
    報復の拡大として、ロシアのソーシャルネットワーク『VKontakte』
    『Odnolkasniki』『Yandex』『Mail.Ru』へのウクライナ国内でのアクセスを
    ブロックする法令を発表した。 モスクワでは、この報道に対して、
    『ウクライナ政府による検閲』とまで揶揄されており、大きな驚きを持って
    伝えられている。 

    ウクライナを含む旧ソ連・ロシア語圏では、『Facebook』よりも『VKontakte』
    の方が利用者数が圧倒的に多く、当然、その他のSNSも、ウクライナ人の殆んどが
    ほぼ毎日利用している大人気ソーシャルメディアとなっている。



    ウクライナでも非常に人気のあるSNSリソースのほとんどが完全にブロックの
    対象となるため、ウクライナ政府による独裁体制の強化とも言われているのだが、
    最も困るのは、ユーザーで、この法令によって、ロシアとウクライナの情報の
    分断が更に加速することとなる。 特に、これらのSNSをビジネスで活用している
    ユーザの場合は、死活問題となるであろう。

    ウクライナ政府はこれまでにも、急にロシア語を禁止にしてみたり、キエフ⇔
    モスクワ間の空路を廃止してみたり、ヨーロッパ最大の音楽の祭典、
    『ユーロビジョン』においても、既に決定していたロシア代表をクリミアで
    コンサートを開いたためと称して、一方的に入国させなかったりと、これまでの
    ウクライナ政府の数々の横暴な対応は、正気の沙汰とは思えない。 ウクライナ
    では、旧態よりも更に酷い独裁体制が続いているため、ソ連時代の方がまだまし
    だったと見るのが妥当かも知れない。

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    ウクライナは、旧ソ連からの独立時、さほど大きな問題もなく独立を果たしたの
    だが、その反動として、常にロシアとの間で『アイデンティティー』の問題に
    苦しんで来た。 自らの国の存在意義をロシアへの恨みと妄想にしか頼ることが
    出来ない原始的な退化した国に、EUへの加入は決して認められない。
    ヨーロッパの秩序を完全に無視し続けるウクライナは、ヨーロッパにも決して
    入れない、ロシアにも戻れないというジレンマを抱えている。

    これまでも、ロシア軍が侵攻しているとして、自国民を大量に空爆しているのも
    実は、ウクライナ政府で、ウクライナは、アメリカによる情報操作の最先端に
    置かれている。

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    ヨーロッパ最大の音楽祭『ユーロビジョン』の決勝が2017年5月13日、ウクライナの
    首都キエフで行われ、ポルトガル代表のサルバドル・ソブラルさん(27)が優勝
    した。 ポルトガルの優勝は1957年の音楽祭開始以来、初めてとなる。 次回
    大会は、恐らく首都のリスボンで開催されるものと思われる。



    ウクライナでの開催は2005年に続いて2回目となるが、前回のスウェーデン大会
    では、ロシアが一方的に編入したとするクリミア半島の先住民族タタール系の
    女性歌手ジャマラさん(33)がウクライナ代表で出場し、優勝したためキエフでの
    開催が決定したもの。



    ウクライナ当局は、ロシアがウクライナに軍事介入したと主張し、ロシアの代表
    として既に決定していたユリア・サモイロヴァさん(28)を入国禁止にし、両国の
    緊張が続く中での開催となった。 サモイロヴァさんは車椅子で歌う歌手としても
    有名で、ウクライナ当局は、ロシア編入後のクリミアで演奏したことを非難。

    本人は『問題と思わない』『ユーロビジョンは子供の頃からの夢』として出場を
    強く望んだが、ウクライナへの入国は禁止となり、その報復として、ロシアの
    テレビ局はユーロビジョンのロシアでの放送をボイコットした。

    ロシア系住民の多いウクライナ東部のドネツク州では決勝当日、親ロシア派の
    仕業と見られる砲撃により、住民4人が死亡した。 事態を重く見たポロシェンコ
    大統領は、音楽祭出席を急きょキャンセルした。


     
    ユーロビジョン・ソングコンテストは、ABBAやジンギスカンなども輩出した
    ヨーロッパ最大の音楽祭であり、過去にヨーロッパ内で戦争があった際には、
    このような騒動はなかったため、ウクライナは、ヨーロッパの一員として、確固たる
    態度を取って欲しかったところだが、何もかもをウソで塗り固めているウクライナ
    政府は、そのような事は意に介さずに、一方的にロシア代表を入国禁止にしたため、
    国際的な非難は避けられない。

    ウクライナ政府は、一方的にEUに入りたがっているのだが、このような差別的な
    行為は、EUが最も嫌う行為であるため、EUとヨーロッパの溝が更に深まったと
    見るのが妥当。 ウクライナ政府が本気でまともな先進国の仲間入りを果たしたい
    のであれば、このような無様な対応は避けるべきであった。

    クリミア在住のロシア系住民たちは、全員ロシアへの『返還』を喜んでおり、未だ
    一度たりとも、ウクライナへの帰属を主張している人は居ない。 それどころか、
    クリミアを含む東部ウクライナは、元々、ロシア帝国の領土であった場所で、本来の
    ウクライナの領土は、現在の国土の3分の1程度しかなかったところに、ポーランド
    やら、ハンガリーやら、スロバキアやらから分捕って来た領土を次々と付け足した
    結果、このような意味不明な国家が出来上がったというのがウクライナの真実。

    元々、東部ウクライナに住んでいるロシア人は、ソ連の時代には、特権階級であった
    ために、ウクライナ独立後のウクライナ人中心の不当な扱いには、かなり不満を
    抱いていた。 ソ連独立時にも、特に独立を強く主張した訳でもないウクライナは、
    アイデンティティーの面でも各国からの切り張りの国土を維持するのが難しく、
    ロシア語から聞くと、田舎臭いウクライナ語を政府が強要して来るため、ロシア語
    話者からの反発が激しい。 ウクライナは、ウクライナ人が住んでいる本来の領土に
    戻すのが、一番平和裏に問題を解決する方法。 

    ウクライナ語はロシア語とは非常に似ているため、今後、更に、ウクライナ語化
    政策が取られたとしても、ロシア語話者の権利だけは守るべき。 ウクライナは、
    EUへの加入を熱望しているが、政治が腐敗し切っているため、ドイツやフランス
    からの反発は避けられない。

    現在のEUが抱える数々の問題点を露呈した今年のユーロビジョン・ソング
    コンテストは、オリンピックと並ぶヨーロッパにおける平和の祭典であっただけに、
    ウクライナの対応が残念でならない。

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    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

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    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

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    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

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    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

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    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

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    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

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    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

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    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

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    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

    Uzbekistans

    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    人口360万人のうち、トルクメン人の占める割合は72%で、トルコ系民族に属して
    いる。 彼らの宗教は、イスラム教のスンニ派で、定住生活を行うようになった
    のは、比較的最近のことである。 その他、国を構成する主要な民族は、ロシア人
    9.5%、ウズベク人9%で、更に、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、
    アルメニア人、ベラルーシ人など、多くの小さな民族が住んでいる。

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    トルクメン人は、数百人の間、数多くの部族に分かれて生活し、戦争の時だけ結集
    した。 そのため、トルクメン人について実際に論じることが出来るのは、ようやく
    今世紀に入ってからのことである。 トルクメン人は、1869年から1885年の間に
    ロシア鄭この支配下に入った。 1916年に中央アジアで起きた、ロシアに対する
    大蜂起にはトルクメン人も加わたが、それは逆に、ロシア皇帝政権が中央アジアの
    人たちをロシア軍に徴兵する切っ掛けとなった。

    ソ連邦の設立後、一部のトルクメン人たちは、『トルキスタン・自治ソビエト
    社会主義共和国』に属することになり、他の人たちは、その後、すぐに滅びた
    ブハラ共和国とヒバ共和国に属すことになった。 1924年に『トルクメン・
    ソビエト社会主義共和国』が設立された。 その後は、他のソビエトの全ての
    共和国と同様の歩みをたどった。 すなわち、農業の集団化、工業化、伝統的な
    社会秩序の排除、宗教の弾圧や残忍な粛清などが行われた。

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    プラス面としては、文字教育の推進と、近代学校制度の確立が挙げられる。
    1980年代のペレストロイカ(改革)の時代には、トルクメニスタンでも民族自決
    運動が起こった。 1990年8月22日、トルクメニスタンは主権宣言を採択し、
    翌年10月27日に独立宣言をした。 そして同年12月21日には、独立国家共同体
    (CIS)に加盟したが、1992年5月18日、最高会議が大統領権限を強めた新憲法を
    採択。 1992年5月にロシア・CIS諸国との集団安全保障条約の署名を拒否。
    1995年12月、国連総会において『永世中立国』として承認された(ロシアの
    影響力を排除する目的と言われる)。

    今のところ、さまざまな民族グループの間に大きな緊張はない。 しかしながら、
    これまで数千人のロシア人がトルクメニスタンを離れている。 また、隣接する
    各共和国との間に、国境問題や水源の問題で対立が起こる可能性もある。

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    2017年4月3日午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄
    車内で起きた爆弾テロの主犯格と見られる容疑者が逮捕された。 ロシア通信が
    伝えた声明によると、男は中央アジア出身のアブロル・アジモフ(Abror Azimov)
    容疑者で、モスクワ近郊のオジンツォボで拘束され、容疑者の身柄は、取り調べの
    ため、重大犯罪の捜査を担当する連邦捜査委員会に引き渡された。

    自爆攻撃の実行犯は、アクバルジョン・ジャリロフ(Akbarjon Djalilov)容疑者
    (22)と特定されているが、地下鉄車内で既に自爆しており、中央アジアの
    キルギス生まれで、ロシア国籍を取得していたと見られている。

    連邦捜査委員会によると、アジモフ容疑者は1990年生まれで、「自爆テロリストの
    ジャリロフ容疑者の訓練を行った」としており、首謀者の一人と見なしている。

    14人が死亡、数十人が負傷したこの爆破事件をめぐっては、これまでにモスクワと
    サンクトペテルブルクで8人の身柄が拘束されており、8人全員が中央アジア出身と
    明らかにしている。

    magw170412

    【キルギス共和国外務省の表明】
    キルギス共和国外務省は、一連のマスメディアを賑わせた2017年4月3日のサンクト
    ペテルブルグ地下鉄テロの容疑者であるジャリロフ・アクバルジョンがキルギス
    共和国民であるとの情報は事実とは異なることを正式に表明する。
     
    キルギス外務省が有する報告によると、A.ジャリロフは、1995年4月1日、キルギス
    南部のオシュ市に生まれ、民族的にはウズベク人であり、中等教育を満了して
    いない。

    A. ジャリロフが、かつてキルギス共和国国籍のパスポートを取得した事実はない
    ことを明言しておかねばならない。 2011年、16歳に達したジャリロフはロシア
    国籍の父の請願と共に申請書を提出し、ロシア国籍のパスポートを取得して以来、
    常にロシア連邦領内に居住していた。

    現在、キルギス共和国当局は、事件の捜査に関しロシア連邦の法執行機関への
    全面的な協力を行なっている。

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