多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:レーニン

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    ロシアの歴史の始まりは、かつて、現在のウクライナ付近に存在していた
    『ルーシ』が元となっており、初期の時代は、ウクライナの歴史と同じなのだが、
    モンゴル・タタールによる支配の後、北にあったモスクワ公国が台頭し、現在の
    ロシアとなった。

    ロシアの本来の意味は、『櫂の国』で、当時のロシア国内では、バイキングに
    よる略奪が横行していたが、本来この『ルーシ』とは、バイキング船の『櫂』を
    表していた。

    モンゴル・タタールによる支配を跳ね返したモスクワ公国は、同じ東方正教の国、
    ウクライナをポーランド支配から解放した際に、ウクライナを併合した。
    モスクワは、この時点で、『ルーシ』の正当な後継国となったことから、その後は
    『ルーシ国』という意味の『ロシア』を名乗ることとなった。

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     ロシアには、大きく分けて、王朝が2つ存在したが、そのうちのひとつである、
    リューリック王朝は、スウェーデンから皇帝を招いたもの。 その後、その血が
    途絶えたため、ロマノフ王朝が新たに誕生した。 ロマノフ王朝最後の皇帝、
    ニコライ2世は、1917年の2月革命後で退位に追い込まれ、家族と共に、首都
    サンクトペテルブルク近郊のアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されたが、
    最後はエカテリンブルグで家族共々処刑された。

    革命以降、レーニンが率いるボリシェビキと共産党による、世界初の社会主義国家
    ソ連が誕生した。 その後、ソ連は、アメリカと並ぶ、世界を二分する超大国と
    まで言われ、冷戦時代には、東ドイツまでの東欧をその支配下に置き、約70年もの
    間存在したが、最終的には、当時のゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカ
    (改革)と情報公開が原因で崩壊した。



    ソ連崩壊後の新生ロシアは、ソ連時代の負の遺産を全て引き継いだため、
    天文学的な財政赤字を抱えていたが、その地獄の底のような状況下で、
    突如、彗星のごとく現れたプーチン大統領の一代だけで、この一生涯無理と
    言われた財政赤字を一気に解消した。

    この奇跡的な赤字の解消は、オイルマネーによるところが大きかったのだが、
    ソ連崩壊後は、何でもありの混沌とした時代が続いたため、危ない橋を渡った
    人たちは、一気に新興財閥にまで上り詰めることが出来た時代でもあった。

    社会主義から自由市場主義へと社会が急転換したため、90年代後半は、経済危機を
    招き、日本企業が全撤退するという自体にまで陥ったが、2000年以降は、比較的
    安定しており、大きな経済発展を遂げた。

    その後、ウクライナでの内戦が勃発し、クリミア半島をウクライナから奪還した
    ため、アメリカを中心とする西側諸国から経済制裁を加えられ、ロシアの通貨
    であるルーブルが急落し、現在は、生活にまで深刻な影響が出て来ている。

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    1953年、スターリンが死ぬと、スターリンの遺体も永久保存され、レーニン廟の
    中に置かれた。 1956年20回党大会で、フルシチョフは、スターリンが誠実な
    党の働き手を不法に逮捕し、処刑したことを暴露し、その個人崇拝のおぞましい
    結果を批判する秘密報告を行った。 強制収容所に囚われていた人々が解放され、
    社会に復帰した。

    その後、1962年にもフルシチョフは第二次スターリン批判を行い、スターリン体制
    からの決別を図った。 1964年、フルシチョフにより、スターリンの遺体は廟から
    出され、火葬の後、廟の背後に埋葬され、そこに小さなスターリン像が置かれた。
    フルシチョフの時代には、ソ連は宇宙開発でアメリカを追い抜き、1956年には、
    初の人工衛星の打ち上げに成功し、更に、1961年、ガガーリンの乗った宇宙船
    ボストーク号の打ち上げにも成功した。

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    地上の生活も改善された。 プライバシーの確保に欠けるコムナールの不便さは
    次第に深刻化して、住宅建設も急がれた。 1960年代には、カリーニン大通り
    (現在のノーヴィ・アルバート通り)に15階を超える巨大なマンション群が出現
    した。 『書物を開いたような』といわれる斬新な形が見る人の目を惹いた。
    その設計者であるコソーヒンや、ムンドヤンツ等は、都市建設分野でグランプリを
    獲得した。

    その一方で、1950年代の末以来、無趣味で安価な集合住宅もおびただしく建設
    されていた。 フルシチョフの時代に、ラグチェンコという建築技師が発案して
    設計したと言われるもので、階数はおしなべて5階、薄い壁の半分がレンガ、半分は
    コンクリートで、天井は2.48mという低さだった。 エレベーターはなかった。

    モスクワだけではなく、ソ連の至るところで、この規格のアパートが建設された。
    この手の建物は、市民の間で『フルショーフカ』と呼ばれた。 1970年代には、
    モスクワ市民の10%がフルショーフカに住んでいたと言われている。 それでも、
    コムナールカよりは、ましだったのである。 流石にその後、ロシアの至る
    ところで、フルショーフカの建て直しが始まっている。

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    フルシチョフは1964年、その改革の進め方に不満を持つ政治局員たちによって、
    クーデター的に権力の座から追われた。 年金生活者となったフルシチョフは、
    密かに回顧録を書き、当局の制止を無視して、1970年に西側で出版させた。

    1971年にフルシチョフが死ぬと、遺体は、クレムリンの壁ではなく、ノボデビッチ
    墓地に葬られた。 フルシチョフの娘たちは、フルシチョフが第一書記時代
    『ぶたのしっぽ』と酷評して弾劾した彫刻家ネイズヴェストヌィーに墓碑の
    デザインを依頼し、これが墓地に建てられた。

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    フルシチョフを追い出したブレジネフらの体制は、20年間続いた。 ソ連の社会は、
    ブレジネフ時代に最も安定した時期を迎えた。 私生活の自由が保障され、家庭や
    友人の間では何を言っても良かった。 生活は、豊かではないが、安定していた。
    電話代、電気代、ガス代、水道料金などは、著しく安価であった。

    電話は、市内だけであれば、いくら話でも無料という時代もあった。 医療費や
    居住費もほとんど無料に近かった。 年金生活者や物価も安定していて、老後の
    心配をする必要がなかった。 パンやジャガイモのように必要なものは、必ず
    買えたし、長い行列に並べば、バナナのような珍しい物でさえ手に入れることが
    出来た。

    それに、必要であれば、闇で物を手に入れることが出来た。 禁じられた書物も
    禁じられた歌のテープも個人が読んだり、聴いたりする分には問題がなかった。
    だが、公的な場面では統制が厳しく、人々はそれに従わざるを得なかった。
    この結果、本音と建前の使い分けが拡大し、社会の力が失われることとなった。

    公的な場面でも統制に従わない人は、異論派と呼ばれ、彼らは、タイプ打ちの地下
    文章を配布した。 時に彼らは、赤の広場やプーシキン広場で行動に出ることも
    あり、逮捕され、裁判に掛けられた。 このような抵抗の地下水は、途切れ
    なかった。

    やがてブレジネフの体制も行き詰まりを見せるようになった。 ソ連は、緊張緩和
    政策でアメリカと付き合ううちに、体制の力が弱まり、1979年に始まった
    アフガニスタン戦争の負担にも苦しめられた。

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    ロシア帝国では、農奴制に依存した貴族の大土地所有が続き、農業生産性の
    低さもあって、工業化が遅れていた。 1861年の農奴解放令を切っ掛けに、
    農村の余剰人口は都市への流入を開始し、露仏同盟を基盤としたフランス資本の
    導入(シベリア鉄道の建設等)もあって、19世紀末に工業化が始まったが、20世紀
    初頭の時点においてもその生産力は西欧やアメリカなどの先進工業国に大きく水を
    あけられていた。 ただし、1905年のロシア第一革命で都市労働者と兵士の合同
    評議会であるソビエトが組織され、ロシア社会民主労働党や社会革命党等の社会
    主義勢力の支持基盤となった事は、その後のロシア政治にとって大きな意味を
    持った。

    レーニンは、ソビエト政権を防衛するための内戦を戦うため、1918年、全ての
    企業の国有化、反革命と見なした貴族・資本家・地主の資産没収、農村における
    穀物の強制徴発などを含む「戦時共産主義」とよばれる政策を実施した。 これは
    ソビエト政権の勝利に大きく貢献した一方、特にウクライナなどの農村部で数百
    万人とも言われる餓死者を出した。 また、有能な経営者の粛清や亡命もあって
    工業生産力も極端に低下した。

    その後のソビエト体制下での工業化の発展に伴い、農村部から大量の工業労働者が
    流入したが、彼らは概ね、党や行政の住宅委員会の裁量で、かつで貴族や
    ブルジョワの住まいであった大きな邸宅を小さく仕切って、そこに住み着いた。
    そのような建物は、『コムナルカ』と呼ばれた。 共同住宅という意味である。
    コムナルカでは、寝室は各世帯が別々で、食事を作る台所や手洗いは共同で使用
    するものだった。 とりわけ、市の都心部には、コムナルカが多かった。 元々
    住んでいた富裕層の家族も多くの場合、そうして仕切られた部屋の一つに格下げ
    されて住んだ。

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    不便な暮らしは、地域暖房が一般化するにつれて、解消した感があった。 地域暖房
    というのは、1つの市域全体に暖房のネットワークを及ぼすというものである。
    かつてロシアの家庭では、一戸づつに大きなペチカ(かまど)があって、暖房を
    行っていた。 レーニンの共産党は、政権を取ると、『共産主義はソビエト権力
    プラス電化である』というスローガンを掲げた。 モスクワでは、クレムリンに
    近いモスクワ川の対岸に巨大な火力発電所を建設した。 そして、タービンを
    冷やす時に生じる熱水を普通の水道水と並行的に各家庭に供給した。

    モスクワ市内のどの家庭の台所にも、冷水と温水の2つの蛇口が付いているが、
    これは、ホテルでも同じである。 こうすることによって、冬の最中でも、
    モスクワの屋内の居間では、Tシャツ一枚で過すことが出来るようになった。

    旧ロシア時代には『レニングラード』と呼ばれたサンクトペテルブルクでは、
    1980年代までこうした共同住宅が利用されていた。 当時はアパートの40%近くが
    コムナルカだったという。 ソ連時代に市中心部が大々的に改修されたモスクワでは
    当時からもっとコムナルカが少なく、今ではほとんど残っていないのと対照的と
    なっている。

    サンクトペテルブルク市当局も2008年、コムナルカの住人全員を退去させる政策を
    打ち出した。 その後7年間で、市内のコムナルカの数は11万6,000戸から8万3,000
    戸に減少したという。

    コムナルカでの生活には、一長一短あるという。 一人ぼっちにはならない代わりに
    10人前後で台所や手洗いを共同で使用するため、隣人との関係が難しいという
    問題を抱えている。 独居老人や一人が嫌いな人には打って付けの住居だが、
    プライベートの空間が少ないめ、サンクトペテルブルグでも様々な問題が持ち
    上がっている。 

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    1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
    ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
    会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
    レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
    メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
    レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
    あった。

    ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
    言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
    中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
    ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
    掲げられている建物である。

    ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
    赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
    兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
    十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
    ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
    政府の公式行事、パレードの場となった。

    広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
    功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
    始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
    アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

    革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
    モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
    外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
    された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
    極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
    のである。

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    革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
    出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
    ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
    実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
    建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
    この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
    からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
    この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

    『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
    KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

    ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
    ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
    1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
    この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
    この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

    1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
    運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
    1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
    スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
    された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
    人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
    トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

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    日露戦争のおける敗北で、ロシアの専制権力の時代錯誤と無能ぶりが明らかになり、
    1905年、革命が起こった。 ニコライ2世は、10月詔書を出して、政治的自由を
    認め、国会の開設を約束した。 1906年に憲法が発布され、立憲専制体制とでも
    言うべき体制が始まった。 しかし、この体制は、うまく機能せず、ロシア帝国は
    生まれ変わることが出来なかった。

    1914年に始まった第一次世界大戦は、体制の解体を進め、ついに1917年3月、二月
    革命が起こって帝政は打倒された。 この革命は、ペテルブルグの労働者と兵士の
    革命であったが、別の面から見れば、モスクワのブルジョワジーがペテルブルグの
    皇帝権力を倒した革命であるとも言える。 革命で生まれた臨時政府のバック
    ボーンは、モスクワのブルジョワジーであった。 最初の臨時政府の商工相は、
    モスクワの綿企業主コノヴァーロフであり、彼は最初のケレンスキー内閣でも、
    副首相を務めた。

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    ロシアの民衆は、戦争に反対していたが、臨時政府は戦争を続けなければなら
    なかった。 対立の強まるところ、11月には、レーニン、トローツキーらのボ
    リシェビキが臨時政府を打倒し、ソヴィエト権力を誕生させた。 ペテルブルグで
    この革命が起こると、モスクワがその革命に反対の立場を取ったのは当然であった。
    十月革命反対派の牙城は、赤の広場から目と鼻の先のモスクワ市会だった。

    モスクワ軍管区司令官がクレムリンの十月革命派にクレムリンの明け渡しを求め、
    武力衝突の末、十月革命反対派の部隊と士官学校生がクレムリンを占領した。
    クレムリン、ホテル・メトロポーリ、モスクワ市会、軍管区司令部、ニキーツキエ
    門等を拠点として、十月革命反対の軍が中心部を制圧した。 11月の第一週が
    過ぎる頃、ペテルブルグから革命派の応援部隊が到着し、攻撃を加えた。 市会や
    ホテル・メトロポーリが砲撃された。

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    革命派が今度は最終通達を突き付け、クレムリンを明け渡さないと砲撃すると
    通告した。 クレムリン砲撃の噂は、首都でも問題となり、教育人民委員会
    ルナチャルスキーは、このような文化の破壊に耐えられないとして、人民委員会を
    辞任した。 実際には、ホテル・メトロポーリは損害が大きかったが、クレムリンは
    門の辺りに着弾し、聖堂に数発弾丸が当たった程度であった。

    革命反対派がクレムリンでの戦闘を回避して、11月15日中にクレムリンから立ち
    去ったのである。 これによって、十月革命はモスクワでも認知されるように
    なった。 ただちに赤の広場のクレムリンの壁の際にモスクワの武力衝突で死んだ
    革命派の遺体240体が埋葬された。

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    1918年に、ボリシェビキらによって、モスクワは、首都に返り咲いた。 1924年に
    レーニンが死ぬと、共産党の主導権をめぐる闘争が始まった。 最も有能なトロツキーは、
    戦略家のヨシフ・スターリンに敗れた。 スターリンは、他の2人の指導者と協力して、
    トロツキーの力を奪うと、次に別の人間と手を組んで、この2人をも追い出した。
    トロツキーは、1929年に、国外に追放された。

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    更に、スターリンは、急速な工業化と農業の集団化を進めて、権力を強化して行った。
    1934年、ボリシェビキの最高幹部のひとりだったセルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに、
    大粛清が始まった。 秘密警察NKVD(後のKGB)が全権を握り、悪名高いモスクワの
    本部が大量逮捕の指揮を取った。 そして、ボリシェビキの有名な古参達が皆、裁判に
    掛けられたり、銃殺されたりした。

    ロシア正教は、1917年までは、ロシアの国教とされていた。 ソ連時代には、多くの
    教会が破壊され、司祭たちは、銃殺されたり、投獄されたりした。 教会は、閉鎖された
    ばかりではなく、1920年代の後半には、破壊が始まった。

    スターリンの粛清によって、何百万という無実の人々が処刑され、あるいは、辺境の
    労働収容所に送られた。 この恐怖政治の後に、今度は、第二次世界大戦の悪夢が
    やって来た。 ソ連は侵略され、モスクワはドイツ軍によって陥落寸前まで行き、
    レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)は、長期に渡たる攻囲に苦しんだ。

    第二次世界大戦が終わると、西側同盟国との友好関係が崩れて冷戦が始まった。
    1953年にスターリンが死ぬと、関係は改善され始めたかに見えた。 しかし、フルシチョフ
    による1962年のキューバ・ミサイル危機は、西側との関係を再度悪化させた。

    この関係が大きく改善されるようになるのは、1985年にゴルバチョフが等の指導者と
    なり、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)の政策を取り入れてからのこと
    だった。

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    ロシアでの革命には、多くの要因があった。 1905年には、民衆の間で不満が吹き出し、
    ストライキ、暴動、反乱が起こった。 食糧不足、皇帝ニコライ二世の指導力の弱さ、
    第一次世界大戦でのロシア軍の惨憺たる戦いぶりなどが更に不安を強め、戦争を
    終結させられなかったことなどが、兵士や農民の怒りを招いた。

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    【怪僧ラスプーチン】

    ニコライ二世と皇后アレクサンドラに多大な影響力を持っていたのが、怪僧グリゴリー・
    ラスプーチン。 彼がそれほど信頼されたのは、皇太子アレクセイの血友病を治療した
    ためだった。 第一次世界大戦中、皇帝が前線に出ている間は、ラスプーチンがロシアを
    支配した。 1916年、評判の悪かったラスプーチンは、皇帝の親族によって殺された。

    1905年1月9日、若い僧であるガポンは、皇帝に請願するため、労働者と共に冬の宮殿に
    向かって行進していた。 そこへ兵士が発泡し、女性や子供をも含むデモ参加者が
    何百人も殺された。 この虐殺が、皇帝に対する国民の忠誠心を揺るがすこととなった。

    1914年、ロシアは、フランスやイギリスと共に、第一次世界大戦に参戦した。 ロシア軍は、
    最初のうちは、オーストリアとドイツに対して、勝利を収めたが、補強が十分ではなく、
    やがて負け戦となって、多くの損害や脱走兵を出した。 そのあたりから、国民の熱狂は、
    幻滅と厭戦気分に変わったのである。 

    そして、1917年2月、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)で暴動が起こった(2月革命)。
    これを切っ掛けに、ニコライ二世は退位し、臨時政府が後を引き継いだ。 1917年10月
    には、ウラジミール・レーニンが指導するボリシェビキ(共産)党が権力を握った(10月革命)。
    レーニンは、臨時政府を解体し、ウクライナを含む広大な領土を譲って、ドイツと講和を
    結んだ。

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    1917年の革命は、ペトログラードがほぼ無血のクーデターだったのに対し、モスクワでは
    暴力的なものとなった。 戦闘的な労働者は、臨時政府に忠誠を尽くす強力な士官学校と
    激しく戦った。 ボリシェビキが、このロシア第二の首都で勝利を収めたのは、クレムリン
    周辺での激戦が10日間続いた後のことだった。

    1917年3月、巡洋艦オーロラ号の水兵達が反乱を起こし、ボリシェビキに加わった。
    10月25日、ペトログラードの中心部のネヴァ川に怒りを降ろしたオーロラ号が1発の
    空砲を発射した。 これが、殆ど無防備の冬の宮殿で会議を開いていた臨時政府の
    メンバーを襲撃する合図だった。

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    【ウラジミール・レーニン】

    ウラジミール・レーニンは、学生時代からの革命家で、1897年にシベリアに流刑になった。
    『労働者は既成権力に対して立ち上がり、公正な社会を作らなければならない』と信じる
    レーニンは、1900年に外国で逃亡者のロシア社会民主労働党の支配権を獲得した。
    党は、ボリシェビキ(多数派)のレーニンのグループと、それに対立するメンシェビキ
    (少数派)に分裂した。 ボリシェビキは、革命を指導した。

    【レオン・トロツキー】
    レオン・トロツキーは、精力的な革命家で、1905年の革命で投獄されて流刑となったが、
    国外に逃亡して、1917年にボリシェビキに参加した。 トロツキーは、レーニンと共に、
    10月革命の中心的な役割を担った。 外務人民委員や国防人事委員を努め、内戦の
    時は、赤軍を組織して、これを指揮した。

    ボリシェビキ革命後は、帝政ロシアの数々のシンボルが破壊された。 1918年には、
    ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の巨大な像が倒された。 破壊を命じた
    レーニンは、彼の兄がアレクサンドル暗殺を計画して処刑されたことを決して忘れては
    いなかった。

    【お勧めの一冊】


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    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』は、社会主義時代のソビエト連邦のスローガン。
    ソ連の国章のリボンの部分は、旧ソ連加盟の15ヶ国語でこの言葉が記されていました。
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    ロシア語では、『Пролетарии всех стран, соединяйтесь!』
    原文のドイツ語では、『Proletarier aller Länder vereinigt Euch!』

    初出は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの1848年の『共産党宣言』であり、
    ロンドン・ハイゲイト墓地にあるマルクスの墓石には、この文言の変種『Workers of all lands,
    unite』が刻まれている。

    今では、この言葉をそっくりそのまま、資本主義諸国に言ってやりたいぐらい。 社会主義は、
    やり方がかなり間違っていたものの、その思想自体は、間違ってはおらず。 万人が平等に
    暮らせるのが、そもそもの社会主義の理念。
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    画像は、モスクワの劇場通りにあるカール・マルクス像。 昔の通りの名前は、マルクス通り。

    ソ連崩壊前後においても、ロシアでは助け合いだけは、なくならなかったのに、今の日本は、
    助け合いすら殆どない。 暴利をむさぼり、己だけが儲かれば、それで良しとする資本主義の
    崩壊も間もなくなのだろうか。

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    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』は、社会主義時代のソビエト連邦の
    スローガン。 ソ連の国章のリボンの部分は、旧ソ連加盟の15ヶ国語でこの言葉が
    記されていました。

    SovietUnion
    ロシア語では、『Пролетарии всех стран, соединяйтесь!』
    原文のドイツ語では、『Proletarier aller Länder vereinigt Euch!』

    初出は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの1848年の『共産党宣言』
    であり、ロンドン・ハイゲイト墓地にあるマルクスの墓石には、この文言の変種
    『Workers of all lands, unite』が刻まれている。

    今では、この言葉をそっくりそのまま、資本主義諸国に言ってやりたいぐらい。
    社会主義は、やり方がかなり間違っていたものの、その思想自体は、間違っては
    おらず。 万人が平等に暮らせるのが、そもそもの社会主義の理念。

    marks
    画像は、モスクワの劇場通りにあるカール・マルクス像。 昔の通りの名前は、
    マルクス通り。

    ソ連崩壊前後においても、ロシアでは助け合いだけは、なくならなかったのに、今の
    日本は、助け合いすら殆どない。 暴利をむさぼり、己だけが儲かれば、それで
    良しとする資本主義の崩壊も間もなくなのだろうか。

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    社会主義は、その考え方自体は、間違っていなかったと思うが、その実践方法が間違っていた。
    働いても、働かなくても、給料は同じ。 社会福祉が行き届き過ぎて、極論を言ってしまうと、
    働かなくても、絶対に死なない社会であった。 何もかも『自己責任』とされてしまう資本主義
    よりも、優しい社会であったが、競争性を排除した社会であったため、『停滞』が原因で、ソ連は
    崩壊した。 何も前進しない社会に未来はないということなのであろう。

    この先、日本が、このまま、商業主義的な資本主義を貫く気なのであれば、既に社会全体が
    限界に達している事をハッキリと自覚し、適度な進路変更を施すべき。 金儲け最優先主義は、
    世の習いなれど、歴史は繰り返すので、隣国ソ連の崩壊を人事とはせずに、次は、自分たちの
    番である事を常に意識すべき。
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    ソ連の標章にもなっていた、鎌とハンマーは、農業と工業の融合を表しており、これらを組み
    合わせてることで、農業労働者と工業労働者の団結を表したものとなっている。 

    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』は、ソ連の紋章にも書かれていた、マルクス・
    レーニン主義の象徴。 今では、その労働者階級も、既に社蓄と化しているこの日本では、
    変革を望む方が無理な話なのか。 『ソビエト社会主義連邦』、それを省略して『ソ連』と呼ばれて
    いたが、『ロシア』の当時の正式名称は、『ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国』。

    25年ほど前までは、『ソ連の言葉は、ソ連語ですか?』と度々言われたものが、日本から最も
    近い隣国は、ロシアなのにも関わらず、この程度の相互理解とは、何ともお粗末な限り。
    北海道からも肉眼でもハッキリと見えるのは、ロシアだけであり、韓国は、日本からは、肉眼
    では見る事は出来ない。

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