モルドバは、波乱の多い歴史を歩んで来た。 ベッサラビア北部は、14世紀に
モルダビア公国の一部となった。 15世紀には、この地域全体がトルコの支配下に
入る。 ロシア・トルコ戦争後の1812年に第一次世界大戦が終結すると、そこは、
ルーマニア王国の領土となった。 しかし、その後1939年、ヒットラーと
スターリンとの間に交わされた秘密議定書では、この地域は、ソ連の勢力圏に
加えられた。
そして1940年、ソ連は、ルーマニアにこの地域の割譲を強いたので
ある。 ベッサラビア南部は、ウクライナの一部となり、その他の部分は、既に
1924年に設立されていた『モルダビア・ソビエト自治共和国』(この国は
ドニエストル川東岸の狭い地域のみを領土としていた)と統合された。 この
統合により、『モルダビア・ソビエト社会主義共和国』が創設された。 第二次
世界大戦中、この地域は、一時的にルーマニア領に戻ったが、1947年のパリ講和
条約において、ルーマニアは、この地域のソ連への併合を承認した。
ソ連政府は、各共和国で大々的なロシア化政策をとっていたが、モルドバも例外
ではなかった。 10万人余りものモルドバ人が、ソ連の他地域に強制移住させられ、
その代わりに、ロシア人やウクライナ人がやって来た。 政治的、経済的に重要な
ポストの殆んどは、ロシア人によって占められた。 ルーマニアが民族的にも
言語の上でも緊密な関係を持つ国であるという事実は、公的には否定され、
ロマンス語族の一種であるルーマニア語を、この国では、ロシア語と同じキリル
文字で書かなければならなかった。 チュルク語の族のガガウス語の場合も同様で
あった。
モルドバ人がルーマニア人と接触することは、事実上不可能であった。 もちろん、
ルーマニア自体もやがて独自の道を歩むようになって行った。 ルーマニアの
独裁者チャウセスクは、この占領された自国の領土に関する問題は、最終的には
まだ解決されていないという主張を匂わす発言を再三行っていた。
【モルドバ独立への道】
民族運動がこのモルドバで再燃したのは、ミハイル・ゴルバチョフが改革路線を
開始してからのことであった。 1989年以来、ルーマニア語を再びラテン文字で
書くことが許されるようになった。 1990年夏、モルドバは、主権宣言を行い、
ルーマニア語を公用語として定めた。 1991年夏にゴルバチョフが主催した
新連邦条約に関する交渉にも、モルドバはもはや参加しなかった。 そして、
1991年8月、ソ連のクーデター失敗後、モルドバは、独立を宣言した。
どのような方法であれ、連邦の形態を新しくして存続させることには拒否の姿勢を
とっていたモルドバも、1991年12月、独立国家共同体(CIS)には加盟した。
半世紀も続いて来た経済的な関係を、即座に断ち切ることは出来なかったので
ある。 また、共和国領内には多数の旧ソ連兵が駐屯しており、その撤退に
関しても、拘束力の伴う協定は未だ存在しない。
【揺れる民族のアイデンティティー】
諸民族の問題は、この国に大きな波紋を投げ掛けている。 ロシア人は、
ドニエストル川沿いに『ドニエストル共和国』という独立国の設立を宣言し、
南部では、ガガウス人が同様に独立をうたっている。 モルドバ中央政府は
もちろん、これを承認していない。 そして、更に重大なのは、モルドバは、
いつの日にかルーマニアと統合すべきか否かという問いである。 この微妙な
問題に関しては、これまでのところ、双方とも慎重な態度をとっている。
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