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    タグ:ルーシ

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

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    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

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    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパチヤ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人はウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち、自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われている。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人やウクライナ人とは異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血が少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いるのが特徴である。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

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    ロシアの歴史の始まりは、かつて、現在のウクライナ付近に存在していた
    『ルーシ』が元となっており、初期の時代は、ウクライナの歴史と同じなのだが、
    モンゴル・タタールによる支配の後、北にあったモスクワ公国が台頭し、現在の
    ロシアとなった。

    ロシアの本来の意味は、『櫂の国』で、当時のロシア国内では、バイキングに
    よる略奪が横行していたが、本来この『ルーシ』とは、バイキング船の『櫂』を
    表していた。

    モンゴル・タタールによる支配を跳ね返したモスクワ公国は、同じ東方正教の国、
    ウクライナをポーランド支配から解放した際に、ウクライナを併合した。
    モスクワは、この時点で、『ルーシ』の正当な後継国となったことから、その後は
    『ルーシ国』という意味の『ロシア』を名乗ることとなった。

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     ロシアには、大きく分けて、王朝が2つ存在したが、そのうちのひとつである、
    リューリック王朝は、スウェーデンから皇帝を招いたもの。 その後、その血が
    途絶えたため、ロマノフ王朝が新たに誕生した。 ロマノフ王朝最後の皇帝、
    ニコライ2世は、1917年の2月革命後で退位に追い込まれ、家族と共に、首都
    サンクトペテルブルク近郊のアレクサンドロフスキー宮殿に軟禁されたが、
    最後はエカテリンブルグで家族共々処刑された。

    革命以降、レーニンが率いるボリシェビキと共産党による、世界初の社会主義国家
    ソ連が誕生した。 その後、ソ連は、アメリカと並ぶ、世界を二分する超大国と
    まで言われ、冷戦時代には、東ドイツまでの東欧をその支配下に置き、約70年もの
    間存在したが、最終的には、当時のゴルバチョフ大統領が推し進めたペレストロイカ
    (改革)と情報公開が原因で崩壊した。



    ソ連崩壊後の新生ロシアは、ソ連時代の負の遺産を全て引き継いだため、
    天文学的な財政赤字を抱えていたが、その地獄の底のような状況下で、
    突如、彗星のごとく現れたプーチン大統領の一代だけで、この一生涯無理と
    言われた財政赤字を一気に解消した。

    この奇跡的な赤字の解消は、オイルマネーによるところが大きかったのだが、
    ソ連崩壊後は、何でもありの混沌とした時代が続いたため、危ない橋を渡った
    人たちは、一気に新興財閥にまで上り詰めることが出来た時代でもあった。

    社会主義から自由市場主義へと社会が急転換したため、90年代後半は、経済危機を
    招き、日本企業が全撤退するという自体にまで陥ったが、2000年以降は、比較的
    安定しており、大きな経済発展を遂げた。

    その後、ウクライナでの内戦が勃発し、クリミア半島をウクライナから奪還した
    ため、アメリカを中心とする西側諸国から経済制裁を加えられ、ロシアの通貨
    であるルーブルが急落し、現在は、生活にまで深刻な影響が出て来ている。

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    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

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    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

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    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

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    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

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    伝説によれば、キエフには今から1500年前に集落が作られていたという。
    ドニエプル川中流にあたるこの辺りに住んでいたのは、東スラブ人に属する
    ポリャーネ族であったが、北欧からやって来て支配者となったのは、バイキング
    だった。 9世紀には、バルト海と東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを
    結ぶ交易路があって、ドニエプル川を通じて黒海へ出るルートがその重要な
    一環をなしていたのである。

    古事記にあたる古い原初年代記には、こう書かれている。 『スラブ人の間で
    内輪もめと争いが起こったため、彼らは、バイキングの元へ使いを送ってこう
    言わせた。 我々の土地は広くて豊かであるが、秩序がない。 公としてやって
    来て我らを治めてもらいたい。』

    こうして招かれたのが、リューリックを頭目とするバイキングの一族だった。
    歴代の公の名前から判断して、彼らは、数世代のうちに急速にスラブ化したらしく、
    リューリクの公統は、モスクワのイワン雷帝の子供の代まで続くことになる。 

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    はじめのうち、バイキングもポリャーネ族も多神教を信じて偶像を崇拝していた。
    キエフに君臨していたウラジーミル公が木製の6基の神像を丘の上に建てたという
    記述が原初年代記の980年の頁にある。 主神は、ペルーンと呼ばれる雷神で、
    頭部は銀で作られ、口ひげは金だったという。 その他に、太陽を象徴する神や風を
    司る神等がいた。

    そのウラジーミル公が東ローマ帝国からキリスト教を受け入れるのが988年のこと
    だった。 唯一の神を絶対者とあがめるキリスト教の考え方が、キエフの王座に
    あって全ロシアを統治する支配者にとって必要になったためと考えられている。
    ギリシャ人を通じて受容したから、いわゆる、東方教会に属するギリシャ正教の
    一派である。 ローマに本拠地を置くカトリック教会の信仰ではなかった。
    このことが、キエフがウクライナのみならず、全ロシアのその後の運命に深く
    関わってくる。

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    ウラジーミル公は、自分が洗礼を受ける条件として、東ローマ帝国の皇帝の妹
    アンナを后に求めた。 彼女は、泣く泣く帝都のコンスタンティノープルから
    離れたと原初年代記は伝えている。 彼女がキエフに携えたのは、キリスト教の
    信仰と僧侶達だけではなかった。 当時の世界の中で最も先進的な技術を備えた
    ビザンチン文明というシステムが若々しい信仰国家ロシアにもたらされたのである。

    アンナを出迎えたウラジーミル公がキエフに戻って来ると、ただちに異教の
    偶像を焼き捨て、ペルーンの像だけは馬の尾にゆわえて丘から引き摺り下ろし、
    ドニエプル川へ捨てさせた。 そして、キエフの全ての住民をドニエプル川に呼び
    集めて一斉に洗礼を受けるように命じた。

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    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み
    着いた東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングの
    バリャーク人が、ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアから
    ビザンチウムへの交易ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、
    リューリクがロシア最初の王朝を建て、その後継者であるオレーグが最初の
    キエフ・ルーシを創建した。

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    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、
    ルーシの多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。
    こうして、ルーシは、少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に
    力を伸ばし、やがて、タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ
    賢公、ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って
    栄え、ヨーロッパで最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の
    半目によって、弱体化していたキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが
    率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼされた。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北は
    オネガ湖まで至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、
    ウラジーミル、その後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。
    モスクワ公国は、白海から、東は、ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る
    土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、
    インド北部(現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、
    優れた騎馬団がルーシ南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を
    荒らし回った。 孫のバツーは、1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・
    ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルとスズダリを占領した。 更に、彼は、
    ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この際に、アジア側から
    ヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、ブルガリア人、
    ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシの歴史】


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    1991年12月末に、ソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦内に15あったそれぞれの
    共和国は、独立し、『独立国家共同体(CIS)』という緩やかな国家連合に移行
    する事となった。 その直接の切っ掛けとなったのは、バルト三国での独立
    意識の高まりと、当時のゴルバチョフ氏が押し進めた、『情報公開』により、
    西側の情報が雪崩れ込んだため、それ以上の国家体制が維持出来なくなり、

    最終的に、ロシアが、同じスラブ人国家である、ウクライナとベラルーシを
    引き連れて、独立宣言を行った事にある。 よって、ウクライナ自体は、独自に
    独立活動をした訳ではなく、あくまでも、ロシアが独立する際の『道連れ』的な
    副産物に過ぎなかった。

    【ウクライナにおけるロシア語の使用率】
    language

    ウクライナは、1991 年に独立するまで、一度も自民族による独立国家を持った
    事がなく、その国境線も 20 世紀の後半になって、ようやく最終画定した経緯が
    あり、特に、東部のロシアとの国境は、長年に渡って、かなり曖昧なままであった。
    また、独立後、数年を経た後でも、ロシアとの国境線は、単なる『県境』程度の
    意味しか持たず、ソ連邦崩壊直後には、CIS内のどこの国境線においても、面倒な
    パスポートのチェック等はなかった。

    ウクライナは、元々は、ルーシ人の国家である、『キエフ・ルーシ』の中心地
    であり、その名の通り、キエフが首都であったが、モンゴルから遥々遠征して来た、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされ、街が徹底的に破壊された後、数百年間に
    渡り、復活する事が出来なかった。 その間、台頭して来たのが、北にある
    モスクワで、当時は、『モスクワ公国』と呼ばれていたのだが、ウクライナは、
    数百年間にも及ぶ、ポーランド支配を脱したかったため、同じ東方正教国家である、
    隣国のモスクワに助けを求めたが、そのまま、モスクワへと吸収され、それ以降、
    モスクワは、『ルーシの正当な後継者』という意味で、『ルーシ国』という意味の
    『ロシア』という国になった。
     
    AS2015021200

    ウクライナは、大きく分けると、西部が、ポーランド、リトアニアとの繋がりが
    強く、ガリツィア地方は、元々ポーランド領であったため、ロシアとの繋がりは
    希薄であった。 逆に東部は、ロシアとの国境線がなかなか定まらず、曖昧な
    ままにされたため、ロシア化が進んだ。西部地域は、ハプスブルグ家の支配を
    受けていた影響もあり、宗教的には、カトリックの影響が強い。 東部は、完全に
    東方正教の影響が強く、ウクライナは、東西格差が非常に大きい地域であった。

    ウクライナでは、独立後の1990 年代は、『中欧』概念の復活に乗じて、
    ハプスブルグの流れを汲む『ヨーロッパの一員』へのアイデンティティーに注目が
    集まり、EU、NATOの東方拡大や、2004年末の『オレンジ革命』を経た後は、
    EU加盟により、『ヨーロッパの一員』を希求するウクライナ・アイデンティティと
    『ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる』アイデンティティとして議論される機会が
    増えた。 

    『ヨーロッパの一員』を強く熱望する余り、ウクライナ全域で使用されている、
    ロシア語への批判的な処置が行われ、国内で放送されていたロシア語番組には、
    全てウクライナ語の字幕を入る事が義務付けられ、ロシア語は、基本的に『外国語』
    扱いとされ、ウクライナ語以外は、公の場での使用を基本的に禁止された。

    【オレンジ革命の末路 ダイオキシンを盛られたユーシェンコ元大統領】
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    2014年に始まった『ユーロ・マイダン』以降は、ロシア寄りの政治家達を全て
    排除し、アメリカの誘導の元、EU寄りへと強引に舵を切ったが、そのEU自体が
    ウクライナ援助に関しては、全く乗り気ではなく、むしろ、ウクライナ排除の
    方向へと向かっている事実をウクライナ国民は全く知らさせてはいない。
    オリガルヒ(新興財閥)らによる情報操作も甚だしく、ウクライナでは、ウソが
    平然とまかり通っている。

    今後、ウクライナがEUの一員になる事を本気で望むのであれば、正しい情報の
    公開と、オリガルヒによる世界でも指折りの腐敗し切った政治を何とかしない限り、
    ロシアからもEU諸国からも愛想を尽かされる事となる。 本来、ウクライナが
    目指すべき道は、地政学的な事を鑑みても、『東西の架け橋』になる事であり、
    自分達の都合の良い主義主張ばかりをゴリ押ししているウクライナが、EU諸国の
    一員になれる日は、未来永劫ないのではないか?

    【お勧めの一冊】



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    ロシア連邦の首都であるモスクワは、ロシアのみならず、ヨーロッパ最大の都市
    でもある。 人口は、約1,000万人となっており、東京、ニューヨーク他と並ぶ、巨大
    メガロポリスと
    なっている。

    世界で最も美しいと言われているモスクワの地下鉄は、アメリカから核ミサイルが
    飛んで来た際には、
    核シェルターにもなる非常施設であるため、全て地中の深い
    場所を通っている。 モスクワの
    地名の由来は、モスクワ川の河岸にあるため、
    都市の名前もモスクワとなった。



    現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシは、元々は同じひとつの国で、ルーシ時代の首都
    である
    キエフが、モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされたため、その中心地は、北方に
    あるモスクワ公国へと
    移った。 キエフがあるウクライナは、その後、数百年間にも及ぶ
    ポーランド支配から脱した際に、
    同じ正教の国であるモスクワが吸収したため、国の
    名前は、『ルーシ国』という意味のロシアに
    なったもの。



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    『ルーシ』とは、古代バイキングの言葉であるノルマン語で『櫂』という意味。
    ヨーロッパでは、
    形容詞+ ia で終わる国名が多いのだが、その理由は、この『ia』が、
    ラテン語では『国』という
    意味であるため。

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    西ヨーロッパ以外許さないという、独裁主義的なキエフ政府は、何とかならないものか。
    キエフ政府は、ロシアは何もかもダメで、ヨーロッパだけが善としているが、そもそも、
    ロシア人とウクライナ人は、ほぼ同じルーシ人という民族で、単に支配者がモンゴルと
    ポーランドに分かれたため、国も分かれただけ。 元々は、キエフ・ルーシという統一
    国家であった。

    キエフ政府は、、ドイツ人もフランス人も、東欧の人間がそもそも嫌いな事を知らないのか。
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    ウクライナ危機の原因は、欧米諸国が、ウクライナをNATO側へ引き寄せようとした
    事だが、そもそも、ウクライナは、ロシアにとって、地政学的に非常に重要な国で
    ある事を忘れてはならない。 ロシアとウクライナの関係は、日本で言うところの、
    東京と京都のようなもの。 日本は、カミカゼが吹いて蒙古襲来を避ける事が出来
    たが、ロシアやウクライナは、この蒙古軍に攻め滅ぼされたため、その後、独立を
    回復するまでに、約240年もの間、モンゴル・タタールの軛が続いた。

    ロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ3国は、蒙古軍に攻め滅ぼされる前までは、
    ひとつの統一国家であり、同じルーシ人とされていた。 その後、約300年間モンゴルに
    支配されていた方が、大ロシア人である、現在のロシア人であり、小ロシア人が現在の
    ウクライナ人である。 ロシア人とウクライナ人は、長い間、モンゴルとポーランド
    という風に、長年に渡って支配者が異なったため、その後は異なる道を歩む事となる
    のだが、モスクワ公国が、同じ正教徒であるウクライナを手に入れた際に、ルーシの
    正当な後継者であるとして、『ルーシ国』という意味のロシアを名乗りだした際に、
    まず問題が起きた。

    ukraineethnic

    ウクライナは、元々、キエフ・ルーシの中心地であったため、本来、ロシアを名乗る
    べきなのは、ウクライナなのだが、国どころか、国名をもロシアに取られてしまったため、
    その恨みたるや、尋常ではないレベル。 よって、ソ連から独立後は、反ロシアに
    転じたため、事あるごとに、ロシアを批判していたのだが、近年では、批判を通り越して、
    単なる悪口のレベルにまで落ちぶれ果てていた。 そこをアメリカに付け込まれて、
    利用されてしまったというのが、最も冷静な見方。

    ウクライナは、単に欧米に利用されただけ、そして、ロシアは、それに応戦しただけ。
    ウクライナ内戦の直接の原因となったのは、クリミア半島だが、クリミアは、元々
    ロシアの領土であるため、ロシア系住民が非常に多く、以前は、支配される側であった
    ウクライナ人に支配される事を好まなかったため、住民投票を開いて、正式に
    ウクライナから独立したものであるが、アメリカは、欧州をも巻き込んで、その事実を
    ロシアのせいにし、今でもロシアに対して、経済制裁を続けている。

    ウクライナ危機の原因は、欧米のリベラルな妄想だ

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