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    タグ:ルシタニア

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    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア
    北東部沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊が
    ポルトガルにやって来た。 これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点を
    つくり、地元の住民を相手に商売をはじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちに
    よって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル
    将軍は、戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を
    舞台に通商権を求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、
    軍を率いて現在のスペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、
    交戦した。 紀元前201年、ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア
    半島をローマ共和国に奪われた。

    hannibal01

    【ローマの支配】
    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りは
    ヨーロッパとの貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、
    ローマによる支配を安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が
    繰りかえされてローマ軍による征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は
    北進してルシタニア人と戦ったが、地元の抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく
    進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の指導者が戦いに敗れると、
    抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や
    基地の町を次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、
    いずれも当時建設された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、
    ローマの法律を適用した。 地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、
    ローマ人の衣服を身に付け、ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の
    神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの
    大半は、そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の
    代表的な都市はアウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。
    4世紀までに、宣教師たちによってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、
    このキリスト信仰は、その後、ローマン・カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に
    発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、オッソノバ(現在のファロ)や
    アウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】
    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島
    攻撃が始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め
    入っては領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、
    ガリシアに侵攻したのはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、
    といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系の
    スエビ人がアランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人
    と呼ばれる別のゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までに
    スエビ王国を西ゴート王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国が
    イベリア半島のローマ人の領土の大半を支配下におさめ、ゲルマン法による
    統治体制を敷いたのである。 選挙によって対抗する派閥勢力も生まれ、6~7
    世紀に掛けて互いに覇を争った。

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。
    かつては1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土に
    それぞれ分かれたところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が
    住んでいたことが分かっている。 ポルトガル西部の古代の塚からは、
    陶器類や武器が発見されている。

    560102

    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、
    北アフリカや地中海東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり
    着くと間もなく、小さな集団ごとに分かれて、ポルトガルの各地方に散って
    行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と呼ばれた遊牧や農業を
    営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別の
    グループが集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから
    自分の村むらを守って戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人
    たちは、北ヨーロッパのケルト人たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。
    ケルト人たちは、金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルに
    もたらした。 ケルト人とルシタニア人は、数百年に渡って結婚により
    血を分け合い、外界とほとんど接触しなかった。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと
    遠く航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化も
    なく、国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模
    ながら、家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、
    コルクを作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との
    輸出入貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思って
    いる人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ
    不安が残っている。

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