横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:リトアニア

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    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

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    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

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    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

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    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

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    ベラルーシ(白ロシア)は、旧ソ連西部に位置する。 西はポーランド、北は
    リトアニアとラトビア、南はウクライナそそれぞれ国境を接している。 総面積
    20万7,600平方キロメートルの国土を持つ。 国名の『白』とは、『北』を
    意味する。 キエフ公国から見れば、この国は北にあったからである。

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    ベラルーシは、氷期に形成された低地に広がる国である。 モレーン低地
    (ベラルーシ山地)辺りにのみ激しい起状が見られる。 この国はいわゆる
    東ヨーロッパ混合林地域にあり、国土の約4分の1が森林と雑木林からなっている。
    この地域は、東ヨーロッパの一般的な気候から言うと、極めて降水量が多い。

    この地の自然は、湿地帯に広がる森林と低地の草原、また数多くの湖によって
    特徴付けられる。 この地の土壌は農業には余り適していないため、ここでは
    特に畜産(養豚、乳牛飼育)が盛んである。 主要農産物は、麻、ジャガイモ、
    ライ麦、飼料作物などである。

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    総人口は1000万人を上回り、そのうち、約80%がベラルーシ人で、その他、
    ロシア人12%、ポーランド人4%、ウクライナ人2%、ユダヤ人2%が住んでいる。
    ロシア革命以前は、国民の大半がロシア正教を信じていた。長い間、ポーランドや
    リトアニアとの交流も盛んであったため、カトリック信仰も、特に西部において
    かなり広がりを見せていた。

    ベラルーシは、自然条件から見ると、余り恵まれた国とは言えない。 土壌が
    優れないために、農業も畜産に限られている。 石炭、塩、石油、泥炭も生産
    されるが、国内需要にのみ使用されている。 国民の教育水準は比較的高く、
    機械や鉄鋼などの専門的な工業の育成が奨励されて来た。 首都ミンスクは、
    人口から言っても、また産業の集中度から言っても、他都市を遥かに上回る
    主要都市である。

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    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

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    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

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    ソビエト連邦崩壊を前にした1991年8月、ソビエトからの独立を果たした
    ラトビア、エストニア、リトアニアのバルト海に面する三国は、ドイツの
    ヒトラーとソビエトのスターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約(1939年)に
    よって、ドイツとソビエトに占拠され、後にソビエトに併合された。

    その後、1985年からのミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ(政治
    改革運動)の中では、この占領は、『ソビエトの利益に反するスターリン個人の
    決定だ』として明確に非難されていた。

    2005年5月9日、ロシアのヴラジーミル・プーチン大統領は、対独ソ戦勝記念日に
    当たるこの日、更に踏み込んだ発言をした。 旧ソ連によるバルト三国占拠は、
    悲劇であると認めたのだ。 プーチン氏は、『実際、バルト三国は、壮大な
    世界政治における取引材料に過ぎなかった。 これらの国にとっては正に悲劇
    だった点は、ハッキリさせねばならない』と明言。 占領と言う言葉こそ使わな
    かったが、初めてその間違いを認めたのだ。

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    【それぞれ異なる三国の特徴】
    バルト三国と一口に言っても、ラトビア、エストニア、リトアニアでは、その
    成り立ちも国民の気質も大いに異なる。 バルト海に面する共和制国家である
    ラトビアは、13世紀には、ドイツ騎士団、17世紀には、ポーランド、18世紀には
    ロシア帝国からの支配を受けるなど、受難の歴史を繰り返して来た。 民族的には、
    ヨーロッパ系で、言語は、ギリシャ語、ラテン語、英語、ロシア語などが含まれる
    印欧語族の一派のバルト語派となっている。

    エストニアには、13世紀にはデンマーク、16世紀にはスウェーデン、そして18世紀
    にはロシア帝国に支配される。 民族は、フィンランドと同じアジア系で、言語も
    フィンランド語に近い。

    リトアニアは、14世紀にはポーランド・リトアニア連合王国を形成し、16世紀に
    なってポーランド・リトアニア共和国が成立した。 しかし、18世紀後半に
    ポーランドの分割によって、ロシア帝国に併合され、1918年なってようやく独立
    した。 言語は、ラトビアと同じ印欧語族の一派のバルト語派。

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    【三国に共通するロシア人問題】
    ソビエトの崩壊で、三国はほぼ半世紀ぶりに独立を果たしたが、共通するものは、
    ロシアに対する反感とロシア人の処遇問題となっている。

    ラトビアの場合、ラトビア人が60%を占めるが、ロシア人も28%と三国の中では
    一番多い。 そのせいか、公用語はラトビア語とされてはいても、ロシア語系住民
    (ロシア人、ベラルーシ人など)が多いことから、ロシア語使用の頻度が高い。

    ラトビア人の70%がロシア語を、ロシア人も半数以上がラトビア語を話すことが
    出来る。 また、映画館やテレビ放送では2つの言語での字幕が並んでいたり、
    新聞や雑誌ではラトビア語版とロシア語版があったりするものの、ロシア語版の
    方が種類、量とも豊富である。 独立した今も、かつての占領国のロシア語が
    大いに幅を利かせている事実から、ロシアを脅威と感じるラトビア人は多い。
    1990年に独立した際に、ラトビア政府は、ロシア系住民の国籍取得に対して、
    厳しい条件を付けた。 それは、ソビエト時代にラトビア井に移民して来た
    ロシア人や、ラトビアで生まれた人の子孫には与えなかったことだ。

    仕方なく彼らは、旧ソビエトが発給した旅券をそのまま使用していたが、1997年
    には、ラトビア政府発給のエイリアンパスポート(無国政旅券)への切り替えが
    義務付けられ、無国籍者と定義されるようになった。 ラトビア移民帰化局に
    よると、約230万人のラトビア人口のうち、ラトビア国籍者は、約180万人、
    外国籍が3~4万人、そして、残りの45~50万人は無国籍者となっている。

    エストニアでもロシア人の国籍取得には、エストニア語試験などの条件を付けて
    いるが、リトアニアでは、人口の80%以上がリトアニア人で、ロシア人は6%と
    少数派であるところから、ロシアとの関係は、他の2国に比べると、良好だと
    されている。

    独立後のロシア人処遇問題は、人権に関わるとして、当のロシアやヨーロッパからの
    指摘が絶えない一方、三国に共通する悩みは、ロシア人マフィアの存在だ。 麻薬や
    密輸品の売買、人身売買や売春などに暗躍するマフィアは、地元の下請け組織の
    協力もあって、その犯罪件数は、うなぎ登りとなっている。 ヨーロッパとロシアの
    間に位置するバルト三国は、犯罪の中継地点という、ありがたくない名前をいかに
    して返上するかが、これからの課題となっている。

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

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    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

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    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

    kazakikuban

    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

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    リトアニア大公国によるキエフは、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    ロシア帝国の歴史は、絶え間ない膨張の歴史であり、1600年から1900年までの
    間に、ロシアは、毎日130キロ平方メートルの速度で領土を広げた計算となる。
    東西に自然の障害物がないロシアは、いつの時代にも、繰り返しやって来る侵略に
    対して、全くの無防備の状態であった。 力を持つようになってから、ロシアが
    その国境を広げて行ったのは、ひとつには、攻撃を受けやすい自らの中核地帯を
    守るためであった。

    【ロシア拡大の歴史】
    Rus15001900

    イワン雷帝は、ボルガ河畔のカザンに侵攻して、タタール人を打ち破り、シベリア
    への道を開いた。 1581年には、コサックの指導者エルマークが毛皮の豊富な
    シベリア西部まで進んだ。 彼は、840人の兵士を推して先住部族を征服し、
    ロシアの領土を大きく押し広げた。

    ピョートル大帝は、海軍に関心を持ち、オランダとイギリスで造船の勉強をした後、
    ロシア艦隊を創設した。 スウェーデンとの北方戦争(1700~21年)で、彼は
    領土をバルト海にまで広げ、フィンランド南部のスウェーデン領や、現在
    リトアニアとラトビアになっている地域を獲得した。 これによって得た
    フィンランド南部の湿地帯に、大帝は新しい首都である、サンクト・ペテルブルグを
    建設した。 彼はまた、太平洋のカムチャッカ半島と千島列島も獲得した。

    18世紀終わりまでに、ロシアはシベリア、ウクライナ西部、リトアニア、
    ポーランド、タタール、クリミアを自国に組み込んで行った。 1809年には、
    フィンランドが加えられ、19世紀前半には、コーカサスの小国であった、グルジア、
    アゼルバイジャンや、中央アジアの広大な地域がロシア帝国の一部となった。

    1741年頃からは、ロシア人は、豊富な毛皮を求めて、海峡を超え、アラスカにまで
    進出するようになった。 1789年には、ロシアで軍務に就いていたイギリス人の
    ジョーゼフ・ビリングスが秘密の探検隊を率いて、アラスカ先住民とその沿岸部を
    調査した。

    【ナポレオンの時代のヨーロッパの国境線】
    img0

    1812年6月、ナポレオンは50万人の兵力を擁する軍隊を率いて、ロシアへと侵入し、
    9月にはモスクワに近いボロディノへと達した。 激しい戦闘の結果、ロシア軍隊の
    優秀な将軍、グルジア公ピョートル・バグラチオンをはじめ、多くの兵士が重症を
    負った。

    1812年9月にナポレオンは、一旦モスクワの占領に成功したが、自ら火を放つ作戦に
    より、モスクワを守る作戦に出たロシア軍により、冬の補給物資までもを猛火に
    よって焼き尽くされたため、10月には、冬将軍に押されて、撤退を余儀なくされた。
    ナポレオン軍は、寒さと飢えに苦しめられ、90%以上の兵士が逃亡の途中で倒れて
    行った。2年後、アレクサンドル1世率いるロシア軍は、誇らしげにパリに入城し、
    以降、ロシアは、ヨーロッパで大きな役割を果たすこととなる。

    クリミア戦争(1853~56年)では、ロシアは、イギリス、フランス、トルコと
    戦った。 指揮がまずく、補給も十分ではなかったロシア軍は、黒海沿岸の
    セバストーポリまでは1年にも渡る攻防の末に敗れたが、海軍はトルコ軍に勝利を
    収めた。 平和条約によって、クリミアは維持したが、黒海でのロシアの勢力は
    低下した。

    ロシア南部やウクライナでは、逃亡した農奴達がコサックになり、辺境地に入植地を
    作った。 最初のうちは、コサック達は、ロシアの権威に抵抗したが、19世紀には、
    彼らの入植地は、豊かな農村となり、コサック達は、皇帝に忠誠心を示した。

    コサックは、毛皮の長い帽子と羊の皮の外套という独特の制服を着て、刀と長い
    やりを持って戦った。 コサックの男達は皆、騎馬兵部隊で軍務に就くことが
    義務付けられ、忠誠心、勇敢さ、乗馬の巧みさで知られた。

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    杉原千畝(ちうね)は、第二次世界大戦中、当時リトアニアの首都であった
    カウナス日本領事館に赴任していた元領事代理で、ナチス・ドイツの迫害
    によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、
    約6,000人のユダヤ人に日本の通過ビザを発給し続けた外交官。
    『日本のシンドラー』と呼ばれることもある。

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    1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、多くのユダヤ人たちは隣国
    リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア併合が確実となり、彼らには
    日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法しか残されていなかった。

    1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民達が領事館へと押し寄せたため、
    杉原は本国へビザ発給を打診するが、その回答は『行先国の入国許可手続を
    完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ』
    との発給条件厳守の指示が繰り返し回電されて来ただけだった。 元々、
    カウナスに日本領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の
    特定にあったため、緊急のビザ発給は、想定外であったのである。

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    杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 但し、
    本国からの命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、
    外務省をも追われる事となる。

    独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民達も、全てがシベリア
    鉄道で極東までたどり着けた訳ではなかった。 当時ソ連は外貨不足に悩んで
    おり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社『インツーリスト』
    に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。 乗車券は
    当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着の
    ままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。

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    リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人達は、シベリア鉄道に乗り、
    ウラジオストクに到着した。 次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に
    困惑した本省は、ウラジオストクの総領事館に対して、行先国に入る手続きが
    終わっていることを証明する書類を提出させてから乗船させるよう厳命した。

    しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であった
    ウラジオストク総領事代理の根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年
    (昭和16年)3月30日の本省宛電信において、官僚の形式主義を逆手にとって、
    一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

    本省とのやり取りは5回にも及び、難民達から『ミスター・ネイ』の名で記憶
    されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を
    発給して難民の救済にあたった。 一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた
    難民たちの命は、2人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。

    こうした根井三郎の人道的配慮により乗船出来るようになった難民達は、日本海
    汽船が運航する『天草丸』に乗って敦賀港へ続々上陸し、敦賀では、全米
    ユダヤ人協会からの依頼を受けた日本交通公社(現在のJTB)の社員が、ユダヤ
    難民救済協会から送金された現金を手渡した他、敦賀駅までのバス輸送や神戸、
    横浜までの鉄道輸送手配を行った。



    その内のユダヤ系難民達は、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ
    教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である
    『神戸猶太協會』(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
    難民の内、1,000人程がアメリカやパレスチナへと向かい、残りは後に上海に
    送還されるまで日本に留まった。

    日本滞在後、難民達が向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の
    大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人達は、そこで日本が降伏する
    1945年(昭和20年)まで過ごす事になった。
     
    難民達が脱出したリトアニアは、その後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)
    にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。 以後、1944年(昭和19年)の夏に
    再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。 この間の
    リトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人
    から19万6,000人に上り、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。 また、ソ連
    領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。

    杉原が救ったとされる難民の子孫達は、現在世界中に約4万人も居るとされ、
    1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を
    救出した功績で日本人では初で唯一の『諸国民の中の正義の人』として
    『ヤド・バシェム賞』を受賞。 千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛と
    共に、政府の訓命に反したことに関して、『国賊だ、許さない』など中傷の
    手紙も送られるようになった。 同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と
    顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、
    千畝に代わって四男・伸生が出席した。 1986年(昭和61年)7月31日、86歳で
    その生涯を閉じた。

    日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月
    10日になっての事だった。

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