横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:ヨーロッパ

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    近代化に伴ってヨーロッパでは、領土や貿易をめぐる対立が激化していた。
    この対立が戦争になりかねないことを見て取ったヴェルヘルム2世は、1888年、
    権力の座に就くと、強力、かつ、近代的な海軍の組織作りを命じた。 既に、
    ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでおり、戦争になれば協力する
    ことで合意していた。 また、ドイツの戦力を恐れたロシア、フランス、イギリスは
    後に三国協商を結成、この2つの対立するブロックは、それぞれ軍隊を整備し、
    全ヨーロッパを巻き込む戦争に備えた。

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    1914年6月、オーストリア皇太子が、ヨーロッパ南東のセルビアで暗殺されるという
    事件が起きる。 これに対してオーストリアは、セルビアに宣戦布告をした。
    一方、セルビアはロシアの同盟国であったので、三国協商の国々はセルビア救済の
    ために軍隊を終結した。 ドイツもオーストリアとの同盟の下、戦時体制を敷き、
    8月、ヴィルヘルム2世はフランスへの進軍を命じた。 こうしてヨーロッパの
    国々の対立は、第一次世界大戦(1914~1918年)へと広がって行った。

    ドイツは東部戦線でロシアを破るなど、初めは優勢であった。 ところが、
    1917年にはアメリカがイギリスなど連合国側に参加する。 また、北フランスでも
    ドイツはイギリス、フランス、アメリカとにらみ合っていたが、海上封鎖を受け、
    ヴィルヘルム2世下の軍隊にとって、次第に形勢は不利になって行った。 こうして
    1918年11月、ドイツは遂に降伏した。

    これに対し政府の政策や上官の命令に不満を抱いていたドイツの労働者や軍人達は、
    国中で暴動を引き起こした。 このためヴィルヘルム2世は退位を迫られ、
    社会民主党は新しい民主的な政府の設立を宣言することになる。 ヴェルサイユ条約
    (第一次世界大戦後の講和条約)の下、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに
    返還、プロイセンの大部分をポーランドに割譲することを余儀なくされた。 また、
    連合国はドイツに多額の賠償金を要求し、ラインラントとザール地方を占領し、
    産業を摂取した。

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    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

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    当時、ヨーロッパ人は贅沢な品物や豊かな市場のあるアジアへの近道を
    探していた。 1467年、イングランド王ヘンリー7世に雇われたイタリアの
    探検家ジョバンニ・カボートが北回りの海路でアジアへ向かった。 しかし、
    彼が上陸したのは、カナダの東海岸で、ニューファウンドランドとノバスコシアの
    中間のどこかだった。

    彼はそこをイギリスの領土と宣言した。 カボートが発見した土地は、沿岸の海が
    魚の宝庫だった。 ヨーロッパでは魚の需要が増えつつあったため、イギリス、
    ポルトガル、フランスの猟師たちが大挙してニューファウンドランド沖に出漁して
    来た。

    やがて、ヨーロッパ人はその地が未知の世界であることを知った。 ヨーロッパ
    各国の王室は、貴金属が埋蔵されている可能性のある新世界に注目した。

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    1534年、フランスの探検家ジャック・カルティエは、フランス王国フランソワ
    1世に資金を出してもらい、大西洋の探検航海に乗り出した。 1534年、
    カルティエはセントローレンス川の河口を発見し、35年には、セントローレンス川
    を遡って、2つのインディアンの村落に相次いでたどり着いた。 これが現在の
    ケベックとモントリオールである。

    カルティエは、この地域一体をフランス領と宣言した。 しかし、フランソワ1世は
    打ち続く戦乱のために、カルティエの探検にもうこれ以上の資金援助をする余裕が
    なかった。 カルティエは太平洋岸まで探検出来ず、フランスは新世界の植民地化を
    ほとんど進めることが出来なかったのである。

    【交易の発展とイギリスの進出】

    カナダにはまだヨーロッパ人の居住地はなかったが、ヨーロッパの漁師たちは、
    引き続き大西洋岸一体の豊かな漁場を利用していた。 捕った魚を日に干すために
    上陸した漁師たちは、付近のインディアンと出会うようになった。
    インディアンは、ヨーロッパ人の漁具に目を付け、毛皮と交換してもらいた
    がった。

    やがて、主にフランスの漁師とインディアンとの間で、毛皮交易が活発に行われる
    ようになった。 フランスの若者たちは、インディアンの村落の近くに住み始め、
    インディアンに集めさせたビーバーなどの毛皮を本国に送った。 インディアンの
    部族、特に、ヒューロン族とイロコイ族が、毛皮交易のインディアン側の主導権を
    めぐって張り合うこともあった。

    一方、イギリスは再び探検に関心を持ち始めた。 1583年にハンフリー・
    ギルバート卿がニューファウンドランドに上陸し、そこをイギリスの領土と
    宣言した。 その後、西へ向かって数々の探検が行われ、1610年にはイギリスの
    探検家ヘンリー・ハドソンが今日ハドソン湾と呼ばれる広大な内湾にたどり着いた。

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    ヨーロッパ最大の音楽祭『ユーロビジョン』の決勝が2017年5月13日、ウクライナの
    首都キエフで行われ、ポルトガル代表のサルバドル・ソブラルさん(27)が優勝
    した。 ポルトガルの優勝は1957年の音楽祭開始以来、初めてとなる。 次回
    大会は、恐らく首都のリスボンで開催されるものと思われる。



    ウクライナでの開催は2005年に続いて2回目となるが、前回のスウェーデン大会
    では、ロシアが一方的に編入したとするクリミア半島の先住民族タタール系の
    女性歌手ジャマラさん(33)がウクライナ代表で出場し、優勝したためキエフでの
    開催が決定したもの。



    ウクライナ当局は、ロシアがウクライナに軍事介入したと主張し、ロシアの代表
    として既に決定していたユリア・サモイロヴァさん(28)を入国禁止にし、両国の
    緊張が続く中での開催となった。 サモイロヴァさんは車椅子で歌う歌手としても
    有名で、ウクライナ当局は、ロシア編入後のクリミアで演奏したことを非難。

    本人は『問題と思わない』『ユーロビジョンは子供の頃からの夢』として出場を
    強く望んだが、ウクライナへの入国は禁止となり、その報復として、ロシアの
    テレビ局はユーロビジョンのロシアでの放送をボイコットした。

    ロシア系住民の多いウクライナ東部のドネツク州では決勝当日、親ロシア派の
    仕業と見られる砲撃により、住民4人が死亡した。 事態を重く見たポロシェンコ
    大統領は、音楽祭出席を急きょキャンセルした。


     
    ユーロビジョン・ソングコンテストは、ABBAやジンギスカンなども輩出した
    ヨーロッパ最大の音楽祭であり、過去にヨーロッパ内で戦争があった際には、
    このような騒動はなかったため、ウクライナは、ヨーロッパの一員として、確固たる
    態度を取って欲しかったところだが、何もかもをウソで塗り固めているウクライナ
    政府は、そのような事は意に介さずに、一方的にロシア代表を入国禁止にしたため、
    国際的な非難は避けられない。

    ウクライナ政府は、一方的にEUに入りたがっているのだが、このような差別的な
    行為は、EUが最も嫌う行為であるため、EUとヨーロッパの溝が更に深まったと
    見るのが妥当。 ウクライナ政府が本気でまともな先進国の仲間入りを果たしたい
    のであれば、このような無様な対応は避けるべきであった。

    クリミア在住のロシア系住民たちは、全員ロシアへの『返還』を喜んでおり、未だ
    一度たりとも、ウクライナへの帰属を主張している人は居ない。 それどころか、
    クリミアを含む東部ウクライナは、元々、ロシア帝国の領土であった場所で、本来の
    ウクライナの領土は、現在の国土の3分の1程度しかなかったところに、ポーランド
    やら、ハンガリーやら、スロバキアやらから分捕って来た領土を次々と付け足した
    結果、このような意味不明な国家が出来上がったというのがウクライナの真実。

    元々、東部ウクライナに住んでいるロシア人は、ソ連の時代には、特権階級であった
    ために、ウクライナ独立後のウクライナ人中心の不当な扱いには、かなり不満を
    抱いていた。 ソ連独立時にも、特に独立を強く主張した訳でもないウクライナは、
    アイデンティティーの面でも各国からの切り張りの国土を維持するのが難しく、
    ロシア語から聞くと、田舎臭いウクライナ語を政府が強要して来るため、ロシア語
    話者からの反発が激しい。 ウクライナは、ウクライナ人が住んでいる本来の領土に
    戻すのが、一番平和裏に問題を解決する方法。 

    ウクライナ語はロシア語とは非常に似ているため、今後、更に、ウクライナ語化
    政策が取られたとしても、ロシア語話者の権利だけは守るべき。 ウクライナは、
    EUへの加入を熱望しているが、政治が腐敗し切っているため、ドイツやフランス
    からの反発は避けられない。

    現在のEUが抱える数々の問題点を露呈した今年のユーロビジョン・ソング
    コンテストは、オリンピックと並ぶヨーロッパにおける平和の祭典であっただけに、
    ウクライナの対応が残念でならない。

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    オランダ議会下院の総選挙が2017年3月15日に行われ、台風の目となっていた
    極右政党、自由党のウィルダース党首は、反イスラムや移民の排斥を再三
    訴えたが、得票は伸び悩み、最終的に24議席となり、これまでよりも5議席
    増やしたが、第2党に留まった。 ウィルダース氏は敗北を認めた。

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    ヨーロッパ政治全体の行方を占うとして注目されていた、オランダの総選挙だが、
    与党が第一党を確保し、ヨーロッパ各国は『オランダのトランプ』と呼ばれる
    ウィルダース党首率いる極右政党の伸び悩みを歓迎した。

    4月に大統領選挙を控えるフランスでは、ルペン氏率いる極右政党の台頭が注目
    されているが、オランド大統領は『過激主義に大きな勝利を収めたことを祝福する』
    との声明を出した。

    また、9月に総選挙が行われるドイツのメルケル首相は、ルッテ首相に『EUの一員
    として今後も協力しあうことを楽しみにしている』と電話で祝意を伝えた。

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。
    かつては1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土に
    それぞれ分かれたところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が
    住んでいたことが分かっている。 ポルトガル西部の古代の塚からは、
    陶器類や武器が発見されている。

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    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、
    北アフリカや地中海東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり
    着くと間もなく、小さな集団ごとに分かれて、ポルトガルの各地方に散って
    行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と呼ばれた遊牧や農業を
    営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別の
    グループが集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから
    自分の村むらを守って戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人
    たちは、北ヨーロッパのケルト人たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。
    ケルト人たちは、金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルに
    もたらした。 ケルト人とルシタニア人は、数百年に渡って結婚により
    血を分け合い、外界とほとんど接触しなかった。

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    9世紀の始めにスラブ人の領主モイミールは、西スロバキアからモラビア
    (現在のチェコの東部)に掛けて新しい国、大モラビア帝国を樹立したが、
    ボヘミア(現在のチェコの西部) 、ポーランド、ハンガリーの一部も
    支配下に治めた。 ブラチスラバとニトラは、帝国の政治、経済の中心と
    なった。 833年にニトラの貴族プリビナは、西スラブ人定住地域に、初めて
    キリスト教の教会を建てた。

    大モラビア帝国の支配者は、その規模と実力に自信を持っていたが、それでも、
    西に位置する更に強大なドイツ諸国の侵略を恐れていた。 ドイツ諸侯は、
    ローマからの伝道者によって洗礼された後、キリスト教徒となっていた。
    ドイツ諸国は、ローマ・カトリックの首長であるローマ教皇と同盟を結んでいた。

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    モラビア帝国支配者であったラチスラフ公は、ドイツの影響に対して、人々を
    改宗するために、東のキリスト正教会の中心地コンスタンティノープルから
    伝道者を招いた。

    863年にキリルとメトディウス兄弟が、東方正教会の布教にやって来た。
    キリルとメトディウスは、スラブ語で布教し、アルファベットから新たに
    グラゴール文字を作り出し、キリスト教の教義をスラブ語に書き換えた。
    スラブ語を使った布教活動で、ボヘミア、モラビア、スロバキアのキリスト教
    伝道が進んだ。

    しかし、ラチスラフの甥であるスヴァトプクは叔父を裏切り、ドイツの諸侯と
    手を結ぶため、ラチスラフを幽閉し、大モラビア帝国を西ローマ教会に帰属
    させた。 ローマ教皇は、ニトラにドイツ人の司教を送り込み、ニトラは、
    帝国の文化と宗教の中心となった。 他のヨーロッパ諸国でもキリスト教が
    受け入れられていたので、間もなく西ローマ教会は、ヨーロッパ大陸の財力と
    権力を誇る組織となった。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化
    して行った。 フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の
    民族と同一だとみなしていた。 この間に、スウェーデン語を話すフィンランド
    生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で権力を持つようになった。

    地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、フィンランド領内の城を
    管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に最高官吏
    として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢の
    フィンランド人がスウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を
    布教し、多神教のフィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。
    まだ大学がなかった16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の
    教育、宗教の中心地に留学させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・
    アグリコラ(1510年~1557年) は、ドイツのウィッテンベルグの大学で
    学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人に
    マルティン・ルターの革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この
    運動は、ローマカトリック教会の権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ
    各地で、プロテスタントのルター派が広まった。

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    デンマークが経済回復の努力を続けている間に、ヨーロッパ諸国は再度の
    大戦への道を歩み続けた。 ドイツの指導者アドルフ・ヒットラーは、ドイツの
    軍備を再建し、デンマークに対する脅威となった。 デンマーク政府は、紛争を
    避けるため、1939年、ドイツと協定を結び、互いに攻撃しないことを約束した。

    1939年、第二次世界大戦が勃発して、ドイツはイギリスと戦端を開いた。
    デンマークは中立を宣言したが、ドイツには先の協定を尊重する意志はなかった。
    1940年4月、ドイツ軍はユトランド半島を占領した。 デンマークがイギリスから
    攻撃されるのを保護するという名目だった。 デンマーク人が協力するならば、
    内政には干渉しないとドイツ政府は約束した。

    gdamsvej

    戦争が長引くにつれて、デンマーク国民はドイツ占領への反感を募らせた。
    一部の人々はデモを行い、また一部の人々は、ドイツ系の企業でサボタージュを
    始めた。1943年8月、デンマーク政府は、ドイツに対してこれ以上協力するのを
    拒否し、ドイツ側は国土を摂取した。 1945年5月、ドイツは敗北し、
    ドイツ軍によるデンマーク占領は終わった。

    デンマークは、戦争によって国土を破壊されることはなかったが、経済は
    弱体化し、アメリカ合衆国は産業復興のために資金を提供した。 デンマークは、
    この資金で国際貿易を再開した。

    1953年、新しい憲法が制定されて議会は一院制となり、女性の王族が王位に就く
    ことが出来るようになった。 デンマークは、国際連合に加盟し、また、NATO
    (北大西洋条約機構)にも加盟した。 NATOは防衛的な性格とは言え、軍事
    機構であり、これに加盟したことは、この国の伝統的な中立政策の転換を
    意味した。

    1952年、デンマークは、ノルディック評議会の創立に参加した。 これは、
    スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランドも加わっている。
    経済と社会と文化に関する協力機関である。 1960年、デンマークはEFTA
    (欧州自由貿易連合)に加盟した。 これはEC(欧州共同体)に参加して
    いない国々で構成した貿易気候である。

    1970年までにデンマークは、世界最高の生活水準を達成した。 福祉制度に
    よって高齢者、障害者、失業者を含む全てのデンマーク国民は、生活を維持する
    だけの所得を保証されている。 全ての段階で、教育を無料で受ける制度も
    定められた。 また、全てのデンマーク人が、無料で医療を受けられる制度も
    確立した。

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    スイスは、ヨーロッパ大陸の中心に位置するため、大陸内の各地を結ぶ
    交差点になっている。 その結果、これまで多くの民族がこの国を訪れたり、
    定住地にしたり、征服して来た。 この地域で35万年前の遺跡が発見
    されていることから、その時期に既に人が住んでいたことが証明される。

    それから何千年か経つと、この辺りは巨大な氷河に覆われ、植物が全滅する。
    時折氷河が部分的に後退することがあり、ジュラ山脈とミッテルランドの
    地帯を狩猟民族が移り住んでいた。

    countries

    紀元前13世紀には、氷河はほとんど解け、人が定住し始めた。 チューリヒ湖や
    その他の湖の岸辺に人々は小さな村をつくって住んだ。 家族で畑を耕し、
    家畜を育て、野性の動物を狩り、川や湖で魚を採って生活をしていた。
    やがて、石の斧などの武器や、銅や錫を細工した装身具も作るようになる。

    紀元前500年頃には、この地域にケルト文明が定着する。 その中心は、
    ヌーシャテル湖周辺のラ・テーヌという土地であった。 ヘルベチア族と
    呼ばれたケルト系の定住者たちは、かなり発達した形態の宗教を持ち、
    複雑な習慣に従い、手の込んだ金属の工芸品を作っていた。 この宗教は、
    ヘルベチア教と呼ばれるようになり、それを通じて、ケルト文明は
    ヨーロッパの多くの土地に広がって行く。

    ケルト民族がスイス地域の西部と中央部を支配するようになると、東部
    山地にラエチア族が定住する。 戦いを好む強力なこの部族は、他の文明
    とは接触しなかった。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河に覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気温の温暖化につれて、
    穴居していた先史人類たちは、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。

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    そのうちに、人々はこの地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るように
    なった。 その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心に
    なっていた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易中心が出来、熟練した工人たちが作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパの
    西部や北部に輸出された。

    紀元前450年頃、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士が、東からヨーロッパ東部を
    横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの工人たちは
    鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の管理で、強力で
    安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

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    【ローマ統治下のオーストリア】

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の祖先であるゲルマン人が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、ついには、王国を通過して
    王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。

    ローマ人は、イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海
    沿岸のほとんどを征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人たちは、
    ゲルマン人の攻撃を阻止するためにノルクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人
    たちを征服して、ドナウ川沿いに新しく要塞を築き始めた。 ローマ帝国は、
    この地域に3つの州を創った。 アルプス山地のラエティア、オーストリア中部の
    ノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を占めるパンノニアである。

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    この地域のローマ諸州では、安定した軍政の下で、200年に渡って平和が続き、
    往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が次々に建設された。 商人たちは、
    帝国の他の地域に、岩塩、金属、羊毛、家畜を輸出した。 ローマ人たちは、
    ウィンドボナ(現在のウィーン)とその東のカンヌントゥムに、城壁に囲まれた
    都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることとなった。 ドナウ川
    越の攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に帝国の指導者層が分裂して、国境
    沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は次第に衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、東からは
    スラブ人が、北からはゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃した。 5世紀末
    にはローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、アッティアラ
    という名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や交易ルートを
    めぐる争いもしばしば戦争の原因となった。

    ゲルマン人たちは、ノリクムとラエティアを征服し、スラブ人たちは、パンノニアに
    定着した。 北東からチェコ人たちがドナウ渓谷に侵入し、また西から移動して来た
    アレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯に幾つもの村落を作った。

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパ中央にある内陸の山岳国家で、人口は
    約800万人。 かつては、多数の民族から成る巨大な帝国の一部だったが、
    現在は、9つの小さな州から成り立ち、国民の大部分がドイツ語を話す。

    オーストリアの歴史は、ヨーロッパの交易の民族移動の十字路として始まった。
    国の北部を流れるドナウ川は、ヨーロッパの西、北、東の3つの部分を繋いでいる。
    ドナウ渓谷に最も早く定着したのは、東から来たケルト民族と、南のイタリア
    半島から来たローマ人であった。

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    1200年代、ルドルフがこの地にハプスブルグ王朝を創設した。 この王朝は、
    その後600年以上に渡り、オーストリアを含むヨーロッパ各地を統治した。
    16世紀から17世紀に掛けての絶頂期には、ヨーロッパの半分近くがハプスブルグ
    帝国の領域であった。

    1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアは、隣国であるドイツに
    味方して、セルビア、ロシア、イタリア、イギリス、日本、アメリカ等と戦った。
    4年間の戦闘の末、オーストリアとドイツは敗北し、ハプスブルグ王朝は崩壊した。
    1918年、帝国内の非ドイツ系民族はそれぞれ独立して別個の国家となり、ドイツ系
    民族は、オーストリア共和国を創った。

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    1929年の世界大恐慌はオーストリアの経済にも深刻な打撃を与えた。 国力の
    衰えていたオーストリアは、1938年に、ドイツのヒトラー政権によって併合を
    食い止めることが出来なかった。 1939年に第二次世界大戦が勃発した時、
    オーストリアは、ドイツの一部として、日本、イタリアと共に、枢軸国側に立ち、
    イギリス、フランス、ソビエト、アメリカ等の連合国側と戦った。 連合国側に
    よる広範な爆撃と地上攻撃の結果、ドイツは1945年に降伏し、オーストリアは
    独立を回復した。

    戦後のオーストリアは、外国の援助を受けて、1955年までに順調な経済成長を
    遂げ、安定した政府を持つに至った。 過去の歴史を反省したオーストリアの
    指導者達は、将来、世界にどのような扮装が生じようとも、一切関与しないと
    宣言した。

    現在のオーストリア国民の生活水準は高く、健康保険と社会保証は、労働者全体に
    行き渡り、失業率は低い。 国内の主要政党は、協力して国家の方針を定めており、
    東西両ヨーロッパとの貿易額は増加を続けている。

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