1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
ハプスブルグ家の領土となった。

1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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