東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ユーゴスラビア

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    第一次世界大戦勃発の地である『ラテン橋』。 この橋のたもとで、
    オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が
    始まりました。 第一次世界大戦での敗北により、オーストリア=ハンガリー
    二重帝国は崩壊、それと共に、ハプスブルグ家の支配が終わり、オーストリアは、
    ドイツ民族以外の土地を全て失い、共和制へと生まれ変わりました。

    元々、ドイツ民族の中心国家は、オーストリアであり、このため、現在の
    ドイツの国歌は、オーストリアのお古w よって、オーストリア人は、今でも
    頻繁に、『帝国時代は良かった』と言います。

    【ラテン橋】
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    ラテン橋は、『ヨーロッパ側』にあるものの、ものの数分も歩くと、また
    イスラムの景色に戻ります。 数百メートルおきに、モスクが大量に乱立して
    いるため、歩いている間に見飽きて来ました。 以前、タタールスタンの
    ニジェネカムスクで、ヨーロッパ化したモスクに入った際には、1時間ほど、
    ロシア語でコーランの説明を受けたため、今回は、モスクには入らないことに
    しましたw

    基本的に、食べ物には関心がないため、旅先では、余り食事と言う物を取り
    ませんが、この日は朝ごはんを食べずに歩き回ったため、お昼は、ボスニア名物の
    ケバブとトルコ・コーヒーにしました。 正確に言うと、ボスニア風ケバブと
    ボスニア風コーヒーらしい。

    バシチャルシアの水飲み場付近
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    モンテネグロの現在の首都の名前は、ポドゴリツァですが、旧名は、チトー
    大統領に因んで、『チトーグラード』と言う名前でした。 ベオグラードに
    埋葬されているのも知っていたものの、そこまでチトーが好きな訳でもないので、
    次回ベオグラードに行く時に持ち越しました(←既に行く気満々♪)。

    ひとつひとつが手作りのトルコ・コーヒーのカップ。 このコーヒーセットが
    結構欲しかったのですが、予想外に高かったたのと、リュック1つしか持参して
    いないため購入を断念。 次回は、しっかりとトランクを持参して、コーヒー
    セットとイスラムランプを購入したいと思います。 こういう自分の常識に
    囚われないエキゾチックな場所が大好きなので、サラエヴォには、また来たいと
    思いました。

    【ムスリム人居住区】
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    サラエヴォのムスリム人居住区。 内戦時、サラエヴォはセルビア軍に包囲された
    ため、完全に孤立し、これらの建物の多くが破壊されました。 セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人による血で血を洗う戦争は、民族浄化まで引き起こし、
    最終的には、国連の指導の下、3民族が分かれて住み分けを行うことで最終的に
    合意しました。 セルビア人、クロアチア人、ムスリム人は、元々は同じ
    南スラヴ人で、同じセルボ・クロアチア語を話す民族ですが、支配されていた国が、
    オスマン・トルコとオーストリアに分かれていたため、一部の人たちがイスラム化
    してムスリム人に、セルビア正教を受け入れた人達がセルビア人に、カトリックを
    受け入れた人達がクロアチア人へと完全に分化しました。 この3民族を分けて
    いるのは宗教だけ。 セルボ・クロアチア語は、ブルガリア語と非常に似て
    いますが、イントネーションが完全にイタリア語寄りのため、ロシア語からは、
    非常に聞き取りづらいのが特徴。

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    未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを訪れることに
    したのは、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・ストヤコヴィッチの
    お墓がこの街の郊外にあるため。

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    現地に到着してから思い立ち、急遽、そのヤドランカが死ぬまで入院をしていた
    高齢者介護施設を訪れることにしました。 たまたま、前日宿泊していた宿の
    すぐそばにあり、歩いて15分程度の場所にあったため、ホームセンター
    (この建物がこの施設への目印)で、ヤドランカにお供えする造花のバラを
    購入しました。 最後、この施設を撮影していたところ、施設係員の方から、
    怒られたのですが、『ここはヤドランカ・ストヤコヴィッチが死んだ場所ですか?』
    と尋ねたところ、『そうだ』という答えが返って来ました。

    ヤドランカが死亡した施設のすぐ隣りで、エスプレッソを飲みました。
    ヤドランカもここに来たのかな?などと考えてしまいましたが、その後、
    その斜め後ろにある教会へ移動。 カトリック教会なので、ヤドランカには
    関係がないかも?とも思いましたが、すぐ隣りにある教会なので、とりあえず、
    お祈りをしておきました。

    【ヤドランカが入院していた施設】
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    その間、宿泊先のセルビア人の管理人にメールを送り、中心部からかなり
    離れたヤドランカのお墓に車で連れて行って貰えることになりました。 実は、
    ヤドランカが眠る共同墓地は、中心部からは、8.5キロも離れており、歩くと
    2時間強の道のり。 管理人の話では、新しく造った市営墓地なので、郊外に
    あるそうす。

    ヤドランカが入院したのは、東日本大震災直後の2011年のことで、その後、
    2016年まで5年間もこの施設に入院していました。 不治の病のALSで、現代の
    医学では、治療をすることすら出来ませんでした。 バーニャ・ルーカに
    行きたいと思ってから、この地に来るまでに、7年半もの歳月が掛かってしまい
    ましたが、この7年間、東京は、地獄のどん底で、ヨーロッパ旅行など、出来る
    ような経済状態ではありませんでした。。 遅れてもバーニャ・ルーカに来れた
    ので、ヤドランカはきっと許してくれると思います。

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    【Gradsko groblje Vrbanja】


    造花のバラをお墓の上にお供えして、30分ほど、このお墓の前で色々お話しした後、
    ヤドランカのお墓を後にしました。 サラエボで生まれ育ったヤドランカですが、
    最後、どうして、バーニャ・ルーカを終の棲家にしたのかは、謎のまま。 管理人の
    話では、恐らく、サラエボが完全にイスラム化したためだと言っていました。。

    その管理人とは、次回、バーニャ・ルーカを訪れる際には、絶対にセルビア語で
    喋れるようになってここに戻って来ると約束しました。



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    旧ベオグラード中央駅のすぐ隣にあるバスターミナルからバスに乗り、未承認
    国家であるスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカを目指します。
    ベオグラードからバーニャ・ルーカまでは、片道約7時間半の道のり。

    セルビアとボニア・ヘルツェゴビナ(スルプスカ共和国)の国境にはサヴァ川が
    流れていますが、すぐ横を通る鉄道は、何故か廃止されており、橋だけが残って
    いました。 恐らく、内戦時に何者かによって破壊されたのが原因だと思います。
    セルビアでの出国手続きに続き、スルプスカ共和国(名目上はボニア・
    ヘルツェゴビナ)側での入国手続きもバスを降りずに、簡単に終わりました。

    【セルビア ⇒ スルプスカ共和国】
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    実は、セルビアからスルプスカ共和国へは、クロアチアを通って、そのまま
    高速道で行くのが一番早いのだが、戦争の影響で、クロアチアとの国境ぎりぎりの
    場所は何度も通るものの、クロアチアへは一度も入らずに、そのまま首都
    (ボスニア第二の都市)のバーニャ・ルーカを目指します。

    ベオグラードからのバスは、高速バスではないため、途中、様々なバスターミナル
    へと立ち寄りました。 その度に20分程度の休憩を挟むため、かなり時間が
    掛かります。 休憩の際には、運転手が特に何か言う訳でもないため、
    『何分間の休憩?』とその度に、セルビア語で質問しました。 下手をすると、
    置いて行かれる可能性があるため、この手のバスの旅では、一々時間を聞くか、
    じっとバスの中で待っているかの何れかが無難。

    途中、セルビアとの国境に近い、ビイェリナで休憩したため、10分程度、
    付近を散策しました。 7時間半の旅の途中で、最終的には寝てしまったものの、
    運転手に起こされて、目覚めた場所がバーニャ・ルーカでした。

    【バーニャ・ルーカ】
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    スルプスカ共和国では、政治に非常に関心が集まっているため、政治的な
    ポスターを道端のあちらこちらで見掛けました。 セルビアでは、ローマ字への
    切り替えが進んでいましたが、こちら、スルプスカ共和国では、道路標識以外は、
    基本的にローマ字は全くありませんでした。 セルビアよりもセルビアらしいのが、
    未承認国家のスルプスカ共和国と言えます。

    スルプスカ共和国は、同じボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には括られているものの、
    通貨は両方共同じものを使っているものの、ボスニア連邦とスルプスカ共和国側
    とでは、デザインが異なります。

    バーニャ・ルーカは、人口約20万人程度の小さな街で、元々、見るべき物は余り
    ないものの、今回の旅の最大の目的地は、このバーニャ・ルーカでした。
    バーニャ・ルーカに来るために、全ての日程を合わせて、旧ユーゴを周る事にした
    というのが、今回の旅の計画です。

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    モスクワからベオグラードまでは、約3時間半のフライト。 ベラルーシ、
    カルパチア山脈、パンノニア平原を越えて、いよいよ、セルビアの首都である
    ベオグラードに到着です。

    空路でドナウ川を越えると、ベオグラードの街が見えて来ます。ベオグラードは、
    セルビアの中でも、最北端に位置しており、すぐ隣りには、ハンガリー系住民が
    多いヴォイヴォディナ自治州が広がっています。 ニコラ・テルサ空港も、
    そのヴォイヴォディナのすぐそばにあるため、コソヴォのみならず、
    ヴォイヴォディナまでもが独立宣言をすると、セルビアはますます窮地に
    立たされます。

    【モスクワ ⇒ ベオグラード】
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    ベオグラードの町の中心部を流れているのは、サヴァ川で、ドナウ川の支流。
    旧ユーゴ内では、泥沼の内戦後に、各民族ごとに完全に住み分けが進められて
    おり、他の民族の領地に入ると、雰囲気が一変するため、一目で分かります。

    セルビアは、東方正教の国で、文字はロシアと同じキリル文字を使っていましたが、
    近年、ローマ字への完全移行を行っているため、古い看板はキリル文字、新しい
    看板は、全てローマ字で書かれていました。

    アメリカを中心とするNATO軍に空爆された跡が生々しいベオグラード中心部は、
    表面的には、かなり復興が進み、街も明るくなりましたが、前回ベオグラードに
    来たのは、1997年のため、内戦終了間際。 ベオグラードが空爆されたのは
    1999年で、その命令を下したのは、元アメリカ大統領のビル・クリントン。

    【ベオグラード】
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    旧ユーゴの内戦終了から20数年程度既に経過していますが、今でも、その残骸が
    まま残されています。 やった方はすっかりと忘れ去っているのに、やられた方は
    いつまでも覚えているとは、正にこのこと。 数年前のトランプの大統領選の際に、
    クリントンが出馬していましたが、クリントン夫婦は、2人揃って世界各地で殺戮を
    繰り返している人間のクズです。

    数ヶ月前に閉鎖された旧ベオグラード中央駅は、一応中には入れるが、両替屋以外、
    特に何もありません。 但し、空港行きのバスは、今でもここから出ているため、
    閉鎖の意味が分かりません。

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    『南スラブ人の国』を意味するユーゴスラビアは、1929年から2003年までの間
    存在した国家で、70年余りの間に、ユーゴスラビア王国(1929年)、
    ユーゴスラビア民主連邦(1943年)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
    (1963年)など、5回国名が変わり、2003年2月に地球上からその国名が消滅した。

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    最も安定した時代は、チトー大統領の時で、チトーは、『労働者にとってだだ
    1つの資本主義国との違いは、ソビエトでは失業が無い、ただそれだけである』と
    発言、その後もスータリンの指導に反し、経営概念を元に資本の所有者は労働者、
    経営者は労働者が求人するとした企業の自主管理と、各共和国に大幅な自治権を
    与えた独自の自主管理社会主義を建設して行った。

    この当時のユーゴスラビアは『7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、
    3つの宗教、2つの文字、1つの国家』と呼ばれた。 1つの国家として、これほど
    複雑な表現を持つ国は他にはなかった。 裏を返せば、統治の難しさを表した
    言葉でもあった。

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    【連邦制の崩壊と民族対立】
    1980年、チトーの死去とその後の東欧革命の中で、ユーゴスラビアも徐々に崩壊に
    向かう。 1990年に行われた自由選挙では、各共和国に民主主義色の強い政権が
    生まれた。 ユーゴスラビア時代、政治、経済の最大の拠点となったべオグラードを
    首都に持つセルビアでは、民族主義勢力が推すスロボダン・ミロシェビッチが政権が
    生まれた。 クロアチアでは、フラニュ・ツジマンの民族主義政党が議会の3分の2を
    占める。 ボスニア・ヘルツェゴビナではムスリム(イスラム教徒)が多数派となり、
    モンテネグロやコソボ自治州では、ミロシェビッチ派のクーデターでの支配下に入る
    など、モザイク国家だったユーゴスラビアの崩壊は修復不能の状態に陥った。

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    セルビア共和国の自治州であったコソボは、住民の約8割以上がアルバニア系で、
    セルビア人は1割ほどしか居ない。 元々、旧ユーゴスラビア連邦の時代から、
    他の6つの共和国に準じる自治権を与えられていた。

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    しかし、1988年にセルビアの大統領に就任したミロシェビッチは、コソボの
    自治権を奪って政府機能を中央に集中し、アルバニア語による放送や教育を禁じ、
    アルバニア系住民を官庁から追放するなどの弾圧政策をとった。

    コソボ住民は、これに反発。 初めは非暴力・不服従で対抗していたが、後に
    独立を求めてコソボ開放軍が結成され、武力闘争を始めた。 ユーゴスラビア
    連邦軍やセルビア治安部隊との間に激しい戦闘が続き、多くの死者や難民が
    出たり、家が破壊されたりした。

    1999年に北大西洋条約機構(NATO)が介入して、セルビアを空爆し、セルビア
    国民の生活が圧迫され、やがてミロシェビッチ大統領は失脚した。
    ユーゴスラビア連邦政府は、和平案を受諾し、武力紛争は終わりを告げた。

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    しかし、その後、アルバニア系住民によるセルビア人などへの報復攻撃により、
    多くのセルビア人難民が出るなど、対立は解消していない。

    アルバニア系の人達は、おだやかなイスラム教徒が多い。 しかし、歴史的には、
    ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教徒(カトリック)が多かった。 後に、
    オスマン・トルコの侵略にあってから、イスラム教徒が増えた。 セルビア人の
    影響もあり、東方正教会の人も居る。

    コソボの殆どが、こうしたアルバニア系の人たちとなっており、ロマ人は、
    セルビア人よりももっと少ない。

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    2016年5月3日、旧ユーゴスラビアを代表する国民的歌手であるヤドランカ・
    ストヤコヴィッチがALS(筋萎縮性側索硬化症)の呼吸不全により死亡した。

    1983年のサラエボ・オリンピックのテーマソングを歌ったことにより、一躍有名
    となったヤドランカは、大の日本好きで、俳句や浮世絵に興味を抱き、1984年と
    1988年に来日を果たすが、1988年の来日、レコーディング中に祖国であった
    ユーゴスラビアが内戦により崩壊したため、そのまましばらく祖国へは帰れなく
    なった。

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    その後、日本へと活動の中心を移し、22年間という長きに渡って積極的に
    音楽活動を行っていた。 元々、大学での専攻が芸術と心理学であったため、
    音楽活動の傍ら、日本でも絵画の創作活動も行っていた。 その一環として、
    子供達と一緒に絵を完成させるという活動も行っており、数々の作品を残した。
    この活動では、ヤドランカが下絵を描き、子供たちが、その上から絵を描いて
    完成させるという手法がとられた。



    旧ユーゴスラヴィアでは、知らない人は居ないと言われる程、人気があった
    ヤドランカだが、1989年の祖国崩壊から帰国に至るまでの道のりは、決して
    あまいものではなかった。 2000年近くになるまで、祖国の地を踏むことすら
    叶わず、サラエボで再びコンサートを開いたのは、1999年のことであった。

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    2011年3月末、クロアチアでのアルバム発売のプロモーション活動等のため
    渡欧した際にALSと診断され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで治療をしつつ、
    音楽活動を継続。 すぐに帰るはずであった日本に、今度は帰れなくなって
    しまった。 3.11の東日本大震災発生直後であったため、常に日本を気にして
    いたという。

    病が徐々に進行する中、アーティスト仲間によるチャリティコンサートが何度も
    開催され、ドキュメンタリー番組も多数制作された。 2016年5月3日、ALS
    による呼吸不全の為逝去。 享年65。

    国民的歌手であったヤドランカの訃報は、ボスニアのみならず旧ユーゴ全域に
    テレビ、ラジオ、新聞のトップニュースとして伝えられた。 5月7日はサラエボで
    作曲家協会による追悼式があり、日本の大使も弔辞を述べた。

    5月9日にはバニャ・ルカで追悼式と国葬がとり行われ、現在の国境に関係なく
    大統領はじめ、総理大臣、有名アーティスト、著名人が多数参列し、数百人の
    ファンが彼女の死を悼んだ。 本人の遺言で棺にはギターが納められた。



    2016年7月21日~24日に掛けて、四ツ谷にあるP3 art and enviromentにて、
    『ありがとうヤドランカ~追悼作品展 & LIVE』が行われ、遺品となった絵画の
    展示とライブ、トークショーが開催された。 7月24日は、ヤドランカの誕生日
    であったため、この日を目標として、 ヤドランカの死後、急ピッチで準備が
    進められ、当日は、ヤドランカのベスト盤の発売も行われた。

    【ヤドランカ・ベスト盤】



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    コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
    いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
    東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
    セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
    プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
    『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
    コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
    イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

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    こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
    とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
    『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
    民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
    セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
    セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
    行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
    到底容認出来ない。

    一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
    独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
    アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
    『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
    危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
    アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
    建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
    列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
    アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
    万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
    として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。

    セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
    強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
    匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
    求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
    暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
    される生活を余儀なくされた。

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    1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
    内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
    反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
    コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
    からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。

    UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
    ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
    繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。

    これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
    アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
    治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。

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    【紛争発生からNATOによる空爆へ】
    1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
    (新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
    国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
    内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
    から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。

    ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
    の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
    その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
    フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
    ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
    和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。

    1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
    コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
    発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。

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    【NATO軍の人道的介入】
    NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
    れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
    使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
    犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
    となった。

    空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
    モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
    一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
    1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
    となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
    難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
    した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。

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    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの元で
    発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、
    モンテネグロ、マケドニアの共和国から成り、セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、
    マケドニア人、モンテネグロ人、そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を占めていた
    セルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。 1980年に、チトー大統領が
    死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、それぞれの民族の中で独立を求める
    運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ
    が次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、マケドニアのみで、他の
    地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言したが、
    スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。 ところが、
    10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)
    によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴスラビアは解体した事になるが、
    その前後にクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人による争いが起きていた。
    クロアチアでは、クロアチア人が多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が
    集中して住んでおり、多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を持っていた。
    そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方をセルビア共和国に編入する事を
    決めた。 その結果、クロアチア人とセルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア領土の
    3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア共和国の樹立を
    宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の支配地域を攻撃し、
    制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、和平条約が結ばれ、1998年
    には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に置かれた。

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    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、
    1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。 ボスニアには、セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、セルビア人は、独立に反対して、国民投票を
    放棄した。 こうした中、1992年4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が
    入り乱れての紛争に発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって作られた、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を支援したため、セルビア人
    は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、
    セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、クロアチア人とムスリム人とが、残りの
    領土で争った。 ボスニア紛争では、『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、
    国連の場でも、民族浄化に対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、UNPROFOR
    (国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。 しかし、この試みは、
    上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも虐殺が起きた。 1995年には、
    セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が激非常に激しくなり、国連等の人道支援
    物資も、上手く目的地に届かないような状況が続いていた。 1995年7月、2,000人の
    セルビア人の兵士が、ムスリム人が多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。
    街から逃げ出したムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、
    7,000人以上の命が失われたと言われている。

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    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入を
    強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、ユーゴスラビア連邦共和国に
    対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。 そうしたなか、1994年3月、
    ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を樹立する事で合意。 しかし、7月、
    セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が提案した和平案を拒否した。 セルビア人に
    対する国際社会の批判が高まるなか、1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO
    (北大西洋条約機構)が、セルビア人に対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が支配して
    いた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、和平交渉に
    応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが間に入って、クロアチア、
    セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、11月には、クロアチア和平、
    ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、ボスニアに関する和平合意を
    『ディトン合意』と言う。

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    その昔、ロシア語とドイツ語を学び始めた切っ掛けは、実はユーゴスラビアと
    ポーランドとハンガリーに興味があったからなのだが、その当時、サラエボ
    オリンピックと、その翌年には、ロサンゼルスオリンピックが控えていた。
    当時は、東西冷戦により、東西両陣営に分かれて、それぞれのオリンピックへの
    出場をボイコットをしたのだが、上記の東欧3ヶ国だけは、冷戦時代にだったの
    にも関わらず、どちらのオリンピックにも出場した。


     
    元々、旧ユーゴに非常に興味があったため、セルビア・クロアチア語を学びた
    かったのだが、残念ながら、当時の日本では、セルビア・クロアチア語を
    学べる場所はなかったため、一番似ているロシア語を選択したのだが、実は、
    ロシア語よりも、ドイツ語の方が旧ユーゴでは通じるという事に後で気付いたため、
    すぐにドイツ語にも手を出した。 この組み合わせは、両言語共に、文法構造が
    かなり複雑であるため、日本国内では、非常に珍しい組み合わせとなっており、
    その昔、大学院を受験した際に、この2言語で外国語を受験したが、ロシア語と
    ドイツ語で受験をした人は、我が校始まって以来と言われた。
     
    大学時代は、たまたま、学内に旧ユーゴの第一人者がいたため、そのゼミを迷わず
    選択し、卒業後は、東欧に最も近いという理由で、ドイツではなく、オーストリアに
    留学をした。 一番最初にモスクワに留学をした際に、クラス内にユーゴスラビア人
    (セルビア人)がいたのだが、ロシア人とは異なり、顔立ちがなかりヨーロッパ的に
    見えた。 当時の旧ユーゴは、東欧内では、唯一ビザが必要ない国であったため、
    非常に先進的な国に見えたものだが、他の東欧諸国と比較して、余りにも進み
    過ぎていたため、足並みが全く揃わず、結局は、民族浄化による各民族間の激しい
    対立にまで発展し、平和だった国が、一瞬で廃墟と化した。

    そんな時に、旧ユーゴで最も有名な歌手で、サラエボオリンピックでメインソングを
    歌った、ヤドランカ・ストヤコヴィッチが日本に住んでいるという情報を小耳に
    挟んだため、早速ライブに行って、声を掛けたところ、非常に仲良くして頂き
    ました。 そのヤドランカも、ボスニアでのライブの途中に、急に体調を崩して、
    そのまま、ボスニアに帰ってしまった。

    東欧好きが転じて、その昔、旧ユーゴスラビア大使館と、ウクライナ大使館へ強引に
    経歴書を送付して、面接に呼ばれた事があるのだが、旧ユーゴスラビア大使館は、
    今のセルビア大使館に当たる。 大学時代に、もっとお金があれば、本当は、
    コソボにも行きたかった。 ウィーンに留学をしていた際には、クラスの中に、
    セルビア人も、クロアチア人もコソボ人もいたが、当時は、それぞれの民族が
    激しく対立していたため、気軽には話し掛けられる雰囲気ではなかった。

    東欧には、セルビアやポーランドをはじめ、非常に親日的な国が多いが、その
    当事者である日本人が、その事実を全く知らないのは、恥ずかしい限り。

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    セルビア共和国
    Republic of Serbia

    1.面積
    77,474平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)

    2.人口
    712万人(2011年国勢調査)

    3.首都
    ベオグラード(人口164万人)

    4.民族
    セルビア人(83%),ハンガリー人(4%)等(2011年国勢調査)

    5.言語
    セルビア語(公用語),ハンガリー語等

    6.宗教
    セルビア正教(セルビア人),カトリック(ハンガリー人)等

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    ブログネタ
    ワールド・ミュージック に参加中!

    ヤドランカ・ストヤコヴィッチ(Jadranka Stojaković) は、20年以上にも渡り、
    日本を拠点に活動をしていたシンガーソングライター、並びに、歌手。
    ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身。 16歳の時に
    ドイツに住んでいた叔父のジャズグループに加わり、ベースとボーカルを担当。
    その後、フィロゾフスキー大学で心理学を専攻し、卒業後、更にサラエボ国立
    美術大学で絵画を学んだ。

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    1984年、サラエボオリンピックのメインテーマ曲を作詞、作曲、自らその
    テーマ曲を歌い、一躍ユーゴスラビアの国民的歌手となる。 以前から日本文化、
    特に浮世絵、俳句に興味を抱き、日本でレコーディングを行なうために来日
    するが、その間に祖国ボスニアでの内戦が酷くなり、それ以降、日本を活動の
    中心として活動を続けていたが、2009年にステージで大怪我を負い、その後、
    クロアチアでの仕事へと向かうが、病状が悪化し、ボスニアでのリハビリ生活を
    始めるが、難病のASLである事が医師から告げられ、現在は、ボスニアの
    スルプスカ共和国の中心地である、バニャ・ルーカで病気療養のため、
    入院生活を送っている。

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    日本で発表したアルバムでは、母国語のセルビア・クロアチア語以外にも英語、
    日本語でも歌っており、NHK教育『あつまれ! じゃんけんぽん』の主題歌や、
    TBS『神々の詩』の挿入歌等も手掛けている。 2001年には、坂本龍一が呼び
    かけた『地雷ZERO』キャンペーンにもボーカリストとして参加、TBS
    『NEWS23』にも出演し、注目を集めた。

    歌手だけではなく、画家としても幅広く活躍をしており、ここ数年では、
    イギリスの有名誌SONGLiNES誌でヤドランカの曲が代表曲として収録された
    CDが2007年度の年間ベストアルバムに選ばれ、ヨーロッパで話題となった。



    2009年6月には、国から40年間音楽分野で貢献したことが評価され、日本では
    文化勲章にあたる賞が与えられた。 映画『魂萌え!』の主題歌の他、2009年
    4月からのテレビ東京系列の報道ドキュメンタリー番組『ルビコンの決断』の
    テーマソングも歌っている。

    2011年4月には、NHK『みんなのうた』において、母国ボスニアの民族楽器名を
    タイトルに冠した『誰かがサズを弾いていた』がオンエアされた。



    2016年5月3日、入院先のバニャ・ルーカで、65歳の人生を閉じた。 東日本
    大震災発生直後に帰国したため、常に被災地を気に掛け、最後まで日本を
    愛した人生でした。  

    「日本の全てが好き」ALSの歌姫が伝えたいこと

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