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    タグ:ユダヤ人

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    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

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    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

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    1939年、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。 フランス、
    イギリス、アメリカ、ソ連の連合軍は、ドイツ、イタリア、日本の枢軸国と戦った。
    チェコスロバキアでは何十万人もの労働者、学生がドイツ軍の兵器調達のために
    強制労働をさせられた。

    反ナチス分子と、約10万人のチェコのユダヤ人は捕らえられ、強制収容所へ
    送られた。 ドイツが既にチェコスロバキアのほとんどの都市を占領していたので、
    チェコの都市は、市街戦や爆撃を受けず、他のヨーロッパの諸都市と比べれば、
    被害は少なかった。

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    イギリスへ逃れたベネシュは、戦時中、ロンドンにチェコスロバキア亡命政府を
    樹立した。 また、ソ連との友好条約に署名した。 その頃、チェコスロバキアの
    各政党は、ナチス占領軍に抵抗するレジスタンスを組織した。 例えば、
    チェコスロバキア共産党は、ソ連の首府モスクワで、レジスタンスを組織した。

    1944年、レジスタンスは、東部ヨーロッパ戦線でのドイツの劣勢を利用して、
    作戦を展開した。 1945年5月、連合軍がドイツの首府ベルリンに侵攻した時期に、
    プラハの抵抗も最高潮に達した。 ドイツ軍が全面降伏した5月7日、ソ連軍と
    チェコスロバキアのレジスタンスは、プラハを手中に収め、アメリカ軍は
    南ボヘミアを占領した。

    戦争終結後、アメリカ、イギリス、ソ連は、中央ヨーロッパの将来について
    ポツダムで会談を開いた。 3カ国は、チェコスロバキアを復活され、250万人の
    ズデーデン・ドイツ人をドイツへ強制移住されることに合意した。 ベネシュ
    大統領の下で、チェコスロバキア政府はソ連と同盟関係にあった。

    次第にソ連は、チェコスロバキアだけではなく、近隣諸国にも強い影響力を
    及ぼし、支配するようになった。

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    1939年9月1日、ドイツ軍は、ポーランドへの大規模な侵攻を開始し、同時に
    ソビエト軍も東から攻撃を始めた。 2日後には、、イギリスとフランスは、
    ドイツに宣戦を布告したが、ドイツ軍どソビエト軍は、ポーランド国土を蹂躙し、
    国土を再び分割した。 ポーランドの指導者たちは、イギリスに逃れて亡命政府を
    つくった。

    ドイツ軍の爆撃と戦闘によって、グダニスク、ワルシャワ、その他の工業都市は
    破壊された。 ナチスはポーランド国内に、アウシュヴィッツ
    (オシヴィエンツィム)など、いくつもの強制収容所をつくり、何百万人もの
    ユダヤ人や政治的因人を虐殺した。 戦争中に殺されたポーランド系のユダヤ人は、
    300万人以上に上っている。

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    1941年、ヒットラーがソビエトと戦争を始めると、ドイツ軍はポーランド全土を
    占領した。 しかし、1944年には、ソビエト軍は間もなくポーランド全土を
    占領し、更に進んでドイツの首都ベルリンを陥落させた結果、ナチス政府は、
    1945年5月についに降伏した。

    戦争中、アメリカとイギリス両国は、ポーランド臨時政府の閣僚たちをポーランドの
    公的指導者として承認した。 しかし、戦争が終わると、ポーランド共産党の
    支配する人民解放委員会は、臨時政府の帰国に反対した。 共産党員たちは、
    ポーランドを占領していたソビエト軍の支援を受けて、政府の重要なポストを
    独占した。 臨時政府の閣僚たちは、祖国に帰れなくなった。

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

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    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

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    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

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    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

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    杉原千畝(ちうね)は、第二次世界大戦中、当時リトアニアの首都であった
    カウナス日本領事館に赴任していた元領事代理で、ナチス・ドイツの迫害
    によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、
    約6,000人のユダヤ人に日本の通過ビザを発給し続けた外交官。
    『日本のシンドラー』と呼ばれることもある。

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    1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により、多くのユダヤ人たちは隣国
    リトアニアへ逃げ込んだが、ソ連によるリトアニア併合が確実となり、彼らには
    日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるという方法しか残されていなかった。

    1940年7月18日、ビザを求めたユダヤ人難民達が領事館へと押し寄せたため、
    杉原は本国へビザ発給を打診するが、その回答は『行先国の入国許可手続を
    完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ』
    との発給条件厳守の指示が繰り返し回電されて来ただけだった。 元々、
    カウナスに日本領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の
    特定にあったため、緊急のビザ発給は、想定外であったのである。

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    杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、『人道上、どうしても拒否出来ない』
    という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、独断で通過査証を
    発給した。 それは、人道、博愛精神第一という大きな決断であった。 但し、
    本国からの命令に逆らったとして、その後は、ルーマニアヘと送られ、後に、
    外務省をも追われる事となる。

    独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民達も、全てがシベリア
    鉄道で極東までたどり着けた訳ではなかった。 当時ソ連は外貨不足に悩んで
    おり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社『インツーリスト』
    に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。 乗車券は
    当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着の
    ままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。

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    リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人達は、シベリア鉄道に乗り、
    ウラジオストクに到着した。 次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に
    困惑した本省は、ウラジオストクの総領事館に対して、行先国に入る手続きが
    終わっていることを証明する書類を提出させてから乗船させるよう厳命した。

    しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であった
    ウラジオストク総領事代理の根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年
    (昭和16年)3月30日の本省宛電信において、官僚の形式主義を逆手にとって、
    一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。

    本省とのやり取りは5回にも及び、難民達から『ミスター・ネイ』の名で記憶
    されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を
    発給して難民の救済にあたった。 一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた
    難民たちの命は、2人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。

    こうした根井三郎の人道的配慮により乗船出来るようになった難民達は、日本海
    汽船が運航する『天草丸』に乗って敦賀港へ続々上陸し、敦賀では、全米
    ユダヤ人協会からの依頼を受けた日本交通公社(現在のJTB)の社員が、ユダヤ
    難民救済協会から送金された現金を手渡した他、敦賀駅までのバス輸送や神戸、
    横浜までの鉄道輸送手配を行った。



    その内のユダヤ系難民達は、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ
    教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である
    『神戸猶太協會』(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
    難民の内、1,000人程がアメリカやパレスチナへと向かい、残りは後に上海に
    送還されるまで日本に留まった。

    日本滞在後、難民達が向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の
    大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人達は、そこで日本が降伏する
    1945年(昭和20年)まで過ごす事になった。
     
    難民達が脱出したリトアニアは、その後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)
    にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。 以後、1944年(昭和19年)の夏に
    再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。 この間の
    リトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人
    から19万6,000人に上り、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。 また、ソ連
    領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。

    杉原が救ったとされる難民の子孫達は、現在世界中に約4万人も居るとされ、
    1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を
    救出した功績で日本人では初で唯一の『諸国民の中の正義の人』として
    『ヤド・バシェム賞』を受賞。 千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛と
    共に、政府の訓命に反したことに関して、『国賊だ、許さない』など中傷の
    手紙も送られるようになった。 同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と
    顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、
    千畝に代わって四男・伸生が出席した。 1986年(昭和61年)7月31日、86歳で
    その生涯を閉じた。

    日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月
    10日になっての事だった。

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