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    タグ:ヤン・フス

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    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

    luther500th

    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。
    東ハンガリー地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの
    侵略から守るために、西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝
    フェルディナントを国王に迎えた。 結果、強大なハプスブルグ王朝の一員である
    フェルディナントは、ハプスブルグの支配をスロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダから
    ブラチスラバへと移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、
    更にトルコのスルタンから課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ
    移り住んだ。 彼らは、トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、
    奴隷として拘束され、ハンガリー人の領地に残った。

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    1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な
    権力と財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、
    宗教改革運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる
    殆んどのドイツ人は、法王を支持した。

    1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。
    プラハ大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人に
    とって、神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし
    1415年、カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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    フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。
    チェコ人のフス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、
    プラハをはじめ、各地で戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・
    ジシュカは、ドイツの街や修道院、教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が
    原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

    ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
    十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
    望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に
    敗れた。

    数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白と
    なった。 あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の
    穏健派に分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、
    急進派を一気に破った。

    戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
    イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー
    王は、後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を
    迎えたが、王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

    1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
    領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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