多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:モントリオール

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

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    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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    カナダには多くの大都市があるが、そのほとんどが国土の南半分に位置している。
    全人口の約75%が都市に住み、大半が東部各州の都会に居住している。

    カナダの首都はオンタリオ州のオタワだが、最大の都市は、同じオンタリオ州の
    トロントで、過去には、モントリオールが最大の都市であった。 両市の人口は、
    都市の周辺部までを含めるとトロントの方が大きいが、都市部だけの場合では、
    長年モントリオールの方が上回っていた。

    但し、トロントは、1998年1月1日に周辺都市部と広域合併をしたため、現在では、
    名実共にトロントがカナダ最大の都市となっている。 カナダ第3の都市は、
    バンクーバーとなっており、トロントとバンクーバーは、国連調査の世界で最も
    住みやすい都市ランキングでも、常に上位を維持している。

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    【オタワ】
    オタワ川の南側に位置するオタワ(人口約101万人)は1857年以来、カナダの
    首都である。 その名前は、インディアンのオジブウェー族の言葉『アタワ
    (交易する)』に由来する。 1800年代に、イギリスの技師によってリドー
    運河が開通し、オタワ川とオンタリオ湖が結ばれた後、この地にイギリス人の
    居住地が出来た。

    オタワは1900年代の大火でほとんど全部焼けてしまったが、その後、カナダの
    工業、政治、観光の中心地として再建された。 市内の工場では、通信機器、
    紙、家具、加工食品、化学薬品などを製造している。

    市内には公園が多く、公的な儀式が度々行われるので、観光客も多い。 年間
    行事としては、5月の『春祭り』と、夏季に国会の正面入り口の前で行われる
    衛兵交代の儀式などがある。

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    【トロント】
    トロントは、オンタリオ湖の北東岸にあり、船が頻繁に出入りする港である。
    全市の人口は、約560万人で、カナダで最も多い。 1793年にアッパーカナダ・
    イギリス植民地の首都が設けられ、瞬く間に発展した。 トロントという名称は、
    インディアンのヒューロン族の言葉で、『出会いの場所』を意味する。

    トロントは、カナダの製造業と金融業の中心地で あり、出版業と映画制作が
    発達し、工業地区では加工食品、衣類、木製品が生産される。 また、文化都市
    としても重要であり、ロイヤル・オンタリオ博物館やオーキーフ・センターと
    呼ばれる演劇の殿堂をはじめ、カナダで最も有名な文化活動の場が集まっている。

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    【モントリオール】

    モンとリール全体の人口は、332万人で、トロントには及ばないが、都市部だけの
    人口は100万人に達し、パリに次いで、世界第2位のフランス語都市でもある。

    モントリオールは、セントローレンス川の両岸にまたがり、交通の中心地である。
    川を下れば、大西洋に出る事が出来、セントローレンス水路によって、五大湖とも
    結ばれ、鉄道もここから東西に伸びている。

    モントリオールには、はじめインディアンのアルゴンキン族とイロコイ族が住み
    着いていたが、17世紀にフランス人がこの地に来て、カナダにおけるフランス領
    植民地の拠点を設けた。

    その後、1760年にイギリスが占領したため、モントリオールには、フランスと
    イギリスの伝統が両方ともある。 フランス系とイギリス系の住民はお互いに
    許せないところがあり、暴力沙汰を引き起こした事もある。 市民の中には、
    カナダにおけるフランス語圏とイギリス語圏を分離されるべきだという説を
    支持する者もいる。

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    【バンクーバー】

    カナダ第3の都市、バンクーバー(人口約183万人)は、太平洋に接続するカナダの
    重要な港である。 太平洋の暖流と穏やかな気候の影響で、冬季にも湾内の航路は
    凍る事がない。 ここはモントリオールやトロントは違い、一年中港として使える
    のである。

    北アメリカとアジア諸国との間の貿易が拡大した1960年代と70年代には、太平洋に
    面するという立地条件のお陰で、バンクーバーのカナダ経済に対する重要性が増した。
    また、カナダ東部と結ばれる鉄道も完成したため、国内の地位も向上した。

    70年代と80年代には、金融業と製造業が発展し、今日では、オンタリオ州以西で
    最大の金融、および、工業の中心地となっている。 広大な森林の資源を利用して、
    製紙・製材業が盛んで、木製品も大量に作られている。その他にも、豊かな天然
    資源に恵まれ、石油、石炭産業に原料を提供している。

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    モントリオールは、フランス語では、『モン・レアル』と言い、それは、
    ジャック・カルティエが1535年にここの山を『モン・レアル』と呼んだことに
    由来する。 16世紀のフランス語では『王の山』という意味で、その名前が、
    島の名前となり、やがて、町の名前となって、今日に至っている。 それを英語
    読みしたのが、『モントリオール』となっている。

    セントローレンス川の巨大な中洲に位置するこの街は、2006年の調査では、
    人口162万人、周辺部も入れると、約360万人で、カナダ第2の都市である。
    これは、750万人というケベック州全体の半分近くを占める。

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    ダウンタウンには、ガラス張りの高層ビルが立ち並び、ここがビジネスの中心地で
    あることが良く分かる。 ここから少し離れた場所に、旧市街がある。 石畳、
    そびえ立つノートル・ダム寺院、そこを走る観光用の馬車、まるでヨーロッパの
    古い街に来たかのような錯覚を覚える。 超近代的な高層ビル街と旧市街が隣り
    合わせにあるところ、それもまた、モントリオールの魅力である。
    モントリオールは、2006年にユネスコから、『シティー・オブ・デザイン』に
    指定された。

    642年にメゾン・ヌーヴォ、および、ジャンヌ・マンスがモントリオール島に
    ヴィル・マリという街を建設した。 これがモントリオールの始まりとされ、
    その後、フランスが北米に領土を広げるための基地となった。 イギリス領に
    なってからも経済、文化の中心地として発展を続け、19世紀中頃には、カナダで
    並ぶものがない地位を築いた。

    そして英語系の大企業もここに本拠地を構え、カナダ経済に大きな影響力を
    振るっていた。 その後、幾多の変貌を遂げたが、経済的には、1967年に1つの
    ピークを迎える。 それは、万国博覧会の年であった。

    6ヶ月に渡って繰り広げられたこの博覧会を契機として、モントリオールの人々の
    目が世界に開いた。 また、モントリオールは、ケベック各地から芸術家を
    引き付け、音楽、演劇、スペクタクル、展覧会、出版等、あらゆる分野で、
    文化を生み出す中心地として重要な存在となった。

    1976年の夏季オリンピック大会もまた、世界の注目を集めたが、これは
    モントリオールにとって、大きな財政負担となり、以後、長期に渡って経済を
    苦しめる結果となった。 その頃を境に、モントリオールは、カナダ最大都市で
    経済の中心地という座をトロントに譲った。

    更に1977年の『フランス語憲章』によるフランス語化政策の推進が、そこに
    拍車を掛け、いくつもの英語系大企業がトロントに本社を移し、英語
    コミュニティに属する人々が多数流出してしまった。

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    その後、1990年頃まで経済成長は低調だったが、フランス語系
    ビジネスエリートの台頭により、1990年代には回復し、今日では、商工業、
    金融、国際取引、テクノロジー等の分野で中心都市となっている。 特に、
    航空宇宙産業、エレクトロニクス、テレコミュニケーション、製薬等の分野に
    強みを発揮している。

    更に、マルチメディア産業に関しては、北米の中心地として脚光を浴びている。
    実際、『モントリオール・ジャズフェスティバル』を始めとして、この都市には
    国際的に注目を浴びる文化的な催しが沢山ある。 映画やテレビ制作の拠点
    でもあるし、世界有数のサーカス団、シルク・ド・ソレイユの本拠地でもある。

    ケベックのみならず、カナダの芸術文化の発信地として、この街は燦然とした
    輝きを放っている。 また、モントリオールには、国連の専門機関である国際
    民間航空機関(ICAO)をはじめ、60にも及ぶ国際機関の本部が置かれている。

    モントリオールは、カナダでも強い経済力を持っているため、移民を引き付け、
    その結果として、マルチエスニックな様相を呈している。 2006年の国勢調査に
    よれば、モントリオールの人口の24.5%が移民一世となっており、これは、
    カナダ全体の16.2%よりもかなり高い。

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    1931年、カナダは、独立国家となった。 イギリス女王エリザベス2世が国家
    元首だが、あくまでも、礼儀的な職務のみを行う。 1960年代にフランス系の
    ケベック州の独立運動による国民投票が行われ、1980年と1995年の2度とも、
    ケベックの独立は否決された。

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    ファースト・ネーションズのグループもまた、より広範な平等と土地の権利を
    求めて運動して来た。 1980年代以降、ファーストネーションズは、自治を認め
    られることが多くなって来た。 1999年には、昔からイヌイットが住んで来た
    地域に、新たにヌナブット準州が設立された。

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    カナダは、国際社会でも大事や役割を演じている。 カナダは、1914年~1918年の
    第一次世界大戦、1939年~1945年の第二次世界大戦では、アメリカ、イギリスと
    ともに戦った。国際連合(UN)、北大西洋機構(NATO)の主要メンバーでも
    ある。 また、1950~1953年の朝鮮戦争では、国際連合軍に参加し、世界中の
    平和維持活動にも参加している。

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    カナダでは、1967年にモントリオールで万国博覧会『エキスポ67』を、そして、
    1976年には、やはりモントリオールでオリンピックを開催した。 これらの
    イベントには、世界中から沢山の人が訪れ、カナダは、賞賛を浴びた。 そして、
    21世紀に入った今、カナダは、世界の舞台でしっかりと名声を確立している。
    隣国アメリカの強い影響を受けながらも、カナダは、独自で六色のある文化、
    経済、政治を発展させている。

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    カナダは、英語とフランス語の2言語を公用語とするバイリンガル国家であり、
    『1982年憲法』では、両言語を以下のように規定している。

    『英語、及び、フランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会、及び、連邦政府の
    全ての機関における使用言語として、対等な地位と権利が認められる』(憲法第16条
    第1項)

    但し、これは、国民に両言語の習得を義務付けている訳ではなく、連邦政府の全ての
    公的機関において、この両言語が対等に扱われているため、どちらかの言語を話す
    事が出来れば、国のサービスを受けられる事を意味している。

    【カナダ国歌】 バイリンガルバージョン


    アメリカでは、英語を強要されるが、カナダの場合は、基本的に、この両言語によって、
    公的機関でのコミュニケーションが図られる事となっているが、実際は、多民族の
    移民国家らしく、窓口には、多数の移民を取り揃えているため、その他の言語でも
    一律にサービスを受ける事が出来る。

    カナダ人の約85%(2,686万人)は英語を話し、約31%(979万人)がフランス語を話す
    ため、バイリンガルを含めて合計すると、100%を超えることとなる。 但し、カナダでは、
    言語的な地域格差が大きいため、皆一様に両言語を自由に操れる訳ではない。
    小学校等の義務教育では、お互いの言語を学ぶことが義務付けられてはいるものの、
    両言語のバイリンガルは、概ね、両言語の言語的な境界線上にある首都のオタワ~
    ケベック州周辺に限られる。 首都であるオタワは、元々、ビクトリア女王が、両言語
    話者達の融和を願って、わざわざ言語境界線上に新たに建設したバイリンガル都市。

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    カナダ最大の都市である、トロントがあるオンタリオ州では、約85.9%が英語を話すが、
    残りの約14%が全てフランス語話者という訳ではない。 トロントにおける
    英仏バイリンガルの比率は、約11.4%となっており、決して高くはない。 逆に、フランス語
    だけが公用語となっている、カナダ第二の都市であるモントリオールを有するケベック州
    では、約53.9%が、フランス語を話すが、全ての方向を英語話者らによって囲まれて
    いるため、約4割がバイリンガルとなっており、バイリンガル率がカナダの中で最も高い。

    ケベック州は、カナダ連邦の中でも唯一、フランス語のみを公用語としているが、その
    面積は、カナダの約4分の1を占めており、英語話者に対しても、かなり敵対意識が高い。



    この他にも、カナダは、多民族国家、移民国家であるため、公用語以外の言語が
    日常的に使用されている。 例えば、家庭言語として、英語、フランス語に次いで最も
    多く話されているのは、約2.6%=76万人の話者を抱えている、中国語(広東語)である。
    その次に、インドやパクスタンで話されている、パンジャビ語が、約0.8%=約27万人を
    占めている。

    更に、カナダの多様化に拍車を掛けているのが、アラビア語話者の急激な増加で、
    約0.5%の14万4,000人となっている。 この他にも、近年は、アジアからの移民が
    増加しており、カナダでは、言語の多様化が進んでいる。 世界一の移民都市である
    トロントでは、地下鉄やバスに乗っていても、見渡す限り移民ばかりが乗っているため、
    通常、英語などでは喋っていない事の方が圧倒的に多いのだが、例え英語や
    フランス語で話していなくとも、お互いに理解する努力さえ惜しまなければ、世界中
    どこに行っても、誰とでも仲良くなれるため、カナダでは、積極性が非常に重要となる。

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