東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
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    タグ:モンゴル

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    バイカル湖は、世界で最も透明度の高い湖で、シベリアのイルクーツクの
    近郊にあります。 深さも世界一で、元々、バイカル湖周辺に住んでいたのは、
    モンゴル系のブリヤート人であった。 その後、ロシア人が大量に西進して
    来たため、少数民族へと転落した。 バイカル湖にはアザラシが多く、
    イルクーツクのお土産は、ブリヤートの民芸品とアザラシのぬいぐるみが
    中心となっている。

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    【ロシアの空港の常識】
    ロシアの空港では、ほんの数年前まで、空港職員による窃盗が極当たり前で
    あったため、サランラップのお化けのような設備が必ず空港にはあるのだが、
    有料で1,000円程度も掛かるため、経済成長により、今更盗む必要性すらなく
    なった過去の異物とも言える。

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    ロシアでアジア人に対する差別が非常に少ないのは、自分達の体の中にも、
    アジアの血が流れている事を知っているため。 ロシアは、400年近くも
    モンゴルの支配を受けていたのだが、そのモンゴル人が西に進むに連れて、
    ヨーロッパ化したのが、現在のタタール人。

    【イルクーツク】
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    ロシアではさほど珍しくはなくなった中国語の看板。 多くの空港等にある漢字は、
    短いものだと日本語と同じだったりするため、一見、日本語にも見えのだが、
    全て中国語。 ロシアにとって、最も友好的な国は、中国とセルビアであり、
    セルビアでも時折、ロシア語を見掛けた。 20年ほど前までは、日本企業の
    看板だらだったのだが、今となっては、全て中国企業と韓国企業の看板のみと
    なっているため、この20年間の日本の凋落振りが分かる。

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    イルクーツクまでは、ほんの数年前までは、新潟空港からしか飛べなかったのだが、
    今は、新潟に成り代わり、成田から直行便が飛んでいる。 ロシアへの窓口としての
    新潟の役割は、既に、富山へと完全に移行しており、時の流れと共に、新潟の
    役割は、もう終わったのかも知れない。

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    10世紀、唐の崩壊後に起きた中国の内部抗争は、ベトナム人に中国の支配を覆す
    機会を与えた。 愛国的な武将、誤権が率いる反乱軍は中国軍を破り、939年に
    ベトナムの成立を宣言した。

    誤権は、中国に占領される前の王国の首都であったコーロアを都と定めたが、
    短命だったので、強力な国家を建設出来なかった。 944年に誤権が死ぬと、
    財力のある土豪たちが権力争いに走った。

    1009年に、土豪のひとり、李太祖は全土を平定して李王朝を打ち立て、翌年、
    首都を現在のハノイに移した。 国名は後に大越(ダイヴェト)と改めた。
    李王朝は中国の儒学に基づいて、行政制度を組織し直した。 学生は儒学を
    勉強して厳格な採用試験(科挙の制度)に合格しなければ、中央政府の官僚には
    なれなかった。

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    李王朝時代にベトナム人は、新しい水田が欲しくて南へと移動し始めた。 ベトナム
    中部には、チャム族がまだ耕していない土地があったので、チャム族のチャンバ
    王国を攻め、その領土を奪って行った。 ベトナム人農民は、沿岸の低地で米を
    植えはじめ、技師たちは堤防や運河を建設して洪水を防いだ。

    李王朝は、宮廷の高官、陳一族が、一族の幼い男子を李王家継承者の幼女と結婚
    させて、陳王朝を築いた1225年まで続いた。 陳王朝は、ベトナムの政治を
    発展させた。 洪水から水田を守る公共事業によって、農民は穀物の収穫を
    増やしたので、経済は豊かになった。 官僚が行政を握り、仏教が盛んになった。

    13世紀後半に、モンゴル(元朝)軍がアジア大陸東部を伝って、大越に攻め入った。
    この侵略者を追い返したのが、陳興道将軍だった。 14世紀には陳王朝は、ベトナム
    中部のチャンバ王国と軍事衝突を繰り返した。 チャンバ国王が中国に助けを
    求めたために、大越は中国に攻撃されて1407年までに独立を失い、中国(明)の
    直轄地になってしまった。

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    中国の皇帝は上流のベトナム人に中国服を着用するように命じ、また、ベトナム語を
    教えることを禁じた。 過酷な中国同化政策は、既にベトナムの反抗を引き
    起こした。 金持ちの土豪であるレロイは、抵抗運動を組織し、1427年に
    中国人を追い払った。 レロイは大越の皇帝に即位し、ハノイを首都に定めて
    黎王朝を打ち立てた。

    黎王朝が治めた大越は、政治が安定し、儒教文化の黄金時代だった。 黎王朝で
    最も偉大な皇帝黎聖宗は、新たな法律体系を確立し、15巻の大越史の編纂を命じて
    いる。 1470年代にはチャンバ王国を併合して、ベトナム領土を南方へ広げて
    行った。

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    1279年から1368年の間、中国は元王朝のモンゴル人の皇帝に支配されていた。 
    彼らは、北方の平原から馬に乗り攻め入った。 1215年、モンゴルの指導者、
    チンギス・ハンは、南下して北京を占領した。 1279年には、その孫にあたる
    フビライ・ハンが中国全土を征服する。 中国は、中央アジア全域に広がる
    モンゴル帝国の一部となった。 フビライの王朝である元は、中国をほぼ1世紀に
    渡って支配した。

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    モンゴル人は平和と繁栄をもたらした。 代々の皇帝は交易に熱心で、旅人が
    中国を訪れるようになった。 1275年、ベネチア出身のイタリア人商人、マルコ・
    ポーロは、初めてフビライの宮廷を目にする西洋人のひとりとなった。 彼は、
    17年間を中国で過ごした。 中国文明の様々な面をヨーロッパ社会に伝えた
    『東方見聞録』は、ヨーロッパでベストセラーになった。

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    その後、元王朝から明王朝となり、最後に清王朝となった。 清の支配者は、
    中国北部の満州出身だった。 はじめのうち、清の政治は、上手く行っていたが、
    次第に力は弱くなって行った。 1800年代になると、大規模な洪水や地震が
    中国に深刻な被害をもたらした。 貧しい人々の多くは、中国がこのような災難を
    被るのは満州出身の皇帝のせいだと批判した。

    清は変化に逆らって、ヨーロッパとの交易を禁止した。 しかし、ヨーロッパ諸国は
    次第に産業や技術の分野で中国を追い越すようになった。 清の力が弱まるに
    つれて、イギリスの商人たちは、自国で非常に人気のある絹や紅茶、磁器なとを
    自分たちに売るように中国に圧力を掛けるようになった。

    それと引き換えにイギリスは、インドで栽培されるアヘンという麻薬を中国に
    売り込んた。 多くの中国人がアヘン中毒になり、仕事が手につかなくなった。

    清がアヘン貿易を禁止しようとすると、イギリスは無理やり中国に対して2度の
    戦争を起こして、中国を破った。 イギリス中国から強制的に貿易の権利を入手し、
    香港などの領土を奪った。

    最後の皇帝溥儀
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    フランスやドイツ、日本などの国々も、イギリスの動きに便乗して中国内に
    領土と影響力を手に入れた。 清の支配に反対する人々が、中国各地で結集し
    始めた。 1911年、大きな暴動が起こった。 最後の皇帝溥儀は1912年、退位
    させられた。 新しく組織された国民党の孫文は、中国を共和国と宣言し、
    大統領となった。

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    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

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    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

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    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

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    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

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    9世紀の終わりに、中央アジアからマジャール人が、大挙してヨーロッパに侵入
    して来た。 マジャール人は、906年にブラチスラバでスラブ人を破り、
    大モラビア帝国を滅亡された。 戦いの後、現代のハンガリー人の先祖である
    マジャール人は、スロバキアの都市や街を占領した。 一方、ボヘミアと
    モラビアは、ドイツの諸侯と同盟を結んだ。

    スロバキアの支配者となったハンガリー人は、村や都市を占領し、南の平原の
    彼方から指令を発して支配した。 スロバキアは今や、ハンガリー王国に属し、
    スロバキアの鉱山収入の権利はハンガリーに奪われた。

    大部分のスロバキア人は、法的に自由のない労働者、すなわち、農奴となった。
    マジャール王は、スロバキア人の奴隷を所有財産とみなし、貿易と鉱業で王や
    貴族は富を蓄えた。

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    1217年に、ハンガリー人支配者は、ブラチスラバをハンガリー王家から独立した
    都市として認める勅令を出した。 ドナウ川の通交税でブラチスラバは潤い、最も
    豊かな商業の中心地となった。 しかし、1241年にドナウ川流域は、東アジアから
    来たモンゴル遊牧民族の残忍な侵入に悩まされた。 モンゴル人は、中央
    ヨーロッパの街を焼き払い、略奪の限りをつくし、翌年撤退した。

    モンゴル人侵略の後、ハンガリー人は東から最侵入を防ぐ決心をした。 多くの
    地主は、中央スロバキアの川に沿った平野に要塞を建設した。 東スロバキアの
    人口のまばらな平野の守りを固めるため、ハンガリー王は、北ドイツから
    サクソン人を招いて、この地方に新しく建設した街に定住するよう求めた。
    国王は、コシツェに王発令の営業許可を与えた。 同時に24の新しい街と
    鉱山の街にも認可を授けた。 この許可のお陰で、鉱業と手工業から利益を上げる
    商人や、手工業者、貿易商などの豊かな階層の人たちが生まれた。

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    ドナウ川沿いの交易は、スロバキアにも、中央ヨーロッパ諸国にも大きな
    利益をもたらした。 ボヘミア王国オタカール2世は、兵力をスロバキアに進め、
    領土を地中海の内科医であるアドリア海まで広げた。 しかし、1278年、
    オタカールは、隣国オーストリア公国の統治者であるハプスブルグ家の
    ルドルフと戦って死んだ。 戦いの後、ハンガリーは、ブラチスラバと
    西スロバキアの支配権を取り戻した。

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    モスクワとという名前が文献に初めて登場するのは、1147年である。
    モスクワからほど近いスズダリの街に、ユーリーという公が本拠地を置いた。
    元々、古いロシアの支配者は、バイキングの血を引くリューリックの子孫に
    限られていた。 ユーリーの父のウラジミールもその一人で、キエフ大公として
    諸侯の上に君臨していた。 ところが、ユーリーがスズダリやロストフを領有
    するようになった頃から、キエフを中心とする現在のウクライナ地方に対して、
    ロシア平原の東北部の政治的優位が目立つようになった。

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    ユーリーは、しばしば長駆してキエフの王座を狙ったことから、ドルゴルーキー
    (手長公)というあだ名が付いたほどだった。 そのユーリーが当時政治的に
    手を結んでいた又従兄弟にあたるスヴャトスラフ公(オペラでうたわれる
    『イーゴリ公』の父親)に向かって、『モスクワに来られたし』 と酒宴に
    招いたのが、この年の事であった。

    ある小川が北からモスクワ川に流れ込む河口の三角地帯に、ユーリー大公が
    新たに周囲400mあまりの木柵を築き、堀をめぐらせたのが1156年である。
    その中の広さは、たった1haだった。 この時、ようやくモスクワは町として
    成立したのだが、モスクワの発祥を示す時には、文献初出の1147年をもって
    出発点とみなすこととなっている。 近いところでは、1997年に創建
    850周年際が行われた。

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    赤の広場を出て西北に向かう市内随一の目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ
    通りの右側に、ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が立っている。 派手な
    赤い色のモスクワ市庁舎(旧モスクワ総督公邸)の向かい側である。 もっとも、
    モスクワを自分の居城に定めてモスクワ大公国初代の君主になったのは、
    ユーリーから数えて5代目にあたる末裔のダニール公だった。

    1300年前後のことである。それまでに、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍
    (ロシアでは、タタールと呼ばれている)がモスクワに攻め入ってモスクワ砦の
    木柵も焼き払われるというような事件があり、1293年には、再びタタール勢が
    来襲してモスクワは廃墟になった。 その後、ロシア全体がモンゴル軍が建国
    したキプチャク・ハン国(金帳汗国)に服属することとなるのだが、ロシア国内
    では、諸侯間の激しい内紛が繰り返され、当時は小さな街に過ぎなかった
    深い森に囲まれたモスクワが、その後、ロシアの首都となるのである。

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    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み着いた
    東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングのバリャーク人が、
    ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアからビザンチウムへの交易
    ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、リューリクがロシア最初の王朝を建て、
    その後継者であるオレーグが最初のキエフ・ルーシを創建した。

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    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、ルーシの
    多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。 こうして、ルーシは、
    少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に力を伸ばし、やがて、
    タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ賢公、
    ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って栄え、ヨーロッパで
    最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の半目によって、弱体化していた
    キエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼ
    された。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北はオネガ湖まで
    至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、ウラジーミル、その
    後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。 モスクワ公国は、白海から、東は、
    ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、インド北部
    (現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、優れた騎馬団がルーシ
    南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を荒らし回った。 孫のバツーは、
    1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルと
    スズダリを占領した。 更に、彼は、ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この
    際に、アジア側からヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、
    ブルガリア人、ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシからロシアへ目まぐるしい国境線の移り変わり】


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    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していたテュルク系
    遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い地域に分散していた
    一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入し、ブルガリア帝国を
    建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民である南スラヴ人に同化されて、
    現在のブルガリア人の先祖となった。 そのためプロト・ブルガリア人とも呼ばれる。

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    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部から
    ヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を
    おくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した。
    フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、アヴァール人の一派と共に度々
    東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原地帯に
    おいて部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。 しかし、ブルガール部族連合は分裂し、
    北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが移住して行った。
    原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、
    ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。
    大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    bulgar-emap

    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス北麓の
    チュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、ハザール可
    汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀のハザールの滅亡と
    共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を遡ってカマ川との合流
    地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタルスタン共和国周辺)に定住、農業と交易に
    従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・ウルス
    (キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住むテュルク系民族の
    ヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。 特にチュヴァシ人の
    話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でもブルガール人の話していた言語の特徴を
    保持しているという。
     
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    一部の部族集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住した。
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。 彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地の
    スラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)
    を建国した。 ブルガール・ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け
    入れ、次第にコーカソイドに属するスラヴ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して
    行った。

    Bulgar_warrior

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、ヴォルガ川
    中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語。 テュルク諸語の中での
    位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られている。 ブルガール語の
    話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを構成する民族集団に含まれて
    いたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、他のテュルク諸語とブルガール語
    との間で見られる音韻上の対立が規則的に現れる事から、現在存在する言語の中では、
    ブルガール語に近縁の唯一の言語であるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・
    タタール語は、ブルガール語の要素を一部含むものの、キプチャク系テュルク言語と
    ブルガール語の混交言語と考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラヴ化に伴い、バルカンでの話者は途絶したと
    見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部のプリスカや、
    ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文はギリシア文字や突厥
    文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、内容は祈祷文や讃辞の他、
    法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる例があり、
    スラヴ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を公用語として使用して
    いた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者であった南スラブ人の言葉であり、
    支配者の言語が被支配者の言語に吸収されたと言う、世界的に見ても、かなり珍らしい
    言語となっているが、その被支配者であった言語が、スラブ祖語である古代教会スラブ語の
    基となったのは、かなり興味深い。 

    【ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、モンゴルによる
    ヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。 ヴォルガ川流域では、
    アラビア文字や古テュルク文字を使ったヴォルガ・ブルガール語の碑文が多数発見されている。

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