東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:モラヴィア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い
    定住者が確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、
    前史時代にわずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の
    洞窟にも人間が居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り
    住んで来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に
    要塞の町を築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地で
    ドナウ川を横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。
    ボイイは、スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の
    大規模な侵略に悩まされた。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森から
    やって来た。 チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを
    破り、スロバキアにあったケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や
    他のチュートン人が、ドナウ川流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いた
    フランク人は、南ヨーロッパを支配していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

    img50

    【ローマ人とスラブ人】
    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、
    チュートン人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、
    川に沿っていくつかの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南に
    ある首都ローマから統治するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ
    帝国は、ローマを首都とする西と、コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に
    分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ
    平野から追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系の
    アヴァール人がスロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、
    何千というスラブ人がやって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通って
    スロバキアの平野になだれ込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェ
    という小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住
    していたチェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、
    皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。
    スラブ人のリーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。
    アヴァール人を破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、
    637年のヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、
    支配することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。
    その後2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。
    各地で衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な
    中央政府がないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大の
    ために戦った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1037年のヴラチスラフの死後、プシェミスル家は、ボヘミアの王冠を取り戻した。
    王家の争いを終わらせるために、ブレティスラフ王は、勅令を発布し、一家の
    最年長者だけが王位を継承する宣言をした。 ブラティスラフはまた、ドイツ人の
    ボヘミアへの移住を奨励した。 国王は、都市の外国商人と手工業者層を強化して、
    地方の領主達の力を弱めたいと考えた。

    bohmen2

    ドイツ人移住者は、主にボヘミアの西部と北部一帯に定住した。 ボヘミア王国は、
    ドイツ法を取り入れて、ドイツの諸都市と交易を続けた。 ドイツの影響力を強める
    ために、神聖ローマ帝国は、ドイツ人の教会関係者をボヘミアに送り込んだ。
    やがて彼らは、教会で支配的地位を占め、チェコ人との争いの原因を作った。

    13世紀になると、プシェミスル家の国王オタカル2世は、領土を南に広げ、
    ハプスブルグ家のルドルフと、神聖ローマ帝国皇帝の地位を争って、オーストリアを
    征服し、バルト海沿岸にまで及ぶ広大なボヘミア王国を築いた。 オタカル2世は、
    ルドルフとの戦いで1278年戦死した。

    1306年、ボヘミアのプシェミスル家は、突然に断絶した。 1310年、
    プシェミスルの王妃と結婚していたルクセンブルグのヤンが、ボヘミア王を
    名乗ったが、ヤンの時代に王国内部は荒廃した。 しかし、ヤンを継いだカレル
    4世は、プシェミスル家の国王としての自覚が強く、ボヘミア王国の黄金時代を
    築き上げた。 カレルは、巧みな外交政策で王国を拡張し、ボヘミア、モラヴィア、
    シュレジア(現在のポーランド南部)の3地方は、それ以後、ボヘミア王国の
    伝統の地と総称された。

    カレル4世は1355年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて、ボヘミア王国の首都
    プラハは、今や帝国の首都として建物や橋、大聖堂、教会などが次々に建造された。

    プラハ城もボヘミア王の居城として作り変えられ、1348年に、プラハ大学が学問の
    拠点として創設された。 カレル4世は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の
    選挙候(ボヘミア、ケルン、マインツなど)を規定した金印勅令を発布し、選挙候の
    ひとつボヘミア王国は、中央ヨーロッパで最高権力を持つ国となった。

    【チェコお勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    2016年9月29日(木)~10月1日(土)まで、東京駅前のKITTEにて、
    記念すべき第一回目のチェコフェスティバルが開催された。 同じ東欧の
    ポーランド祭は、数年前から開催されているものの、東欧の中でも人気の
    高いチェコのフェスティバルがこれまでなかったのは、かなり意外かも
    知れない。

    IMG_3371
    IMG_3380
    IMG_3376
    IMG_3360
    IMG_3354
    IMG_3351
    IMG_3348
    IMG_3350
    IMG_3343
    IMG_3327
    IMG_3334
    IMG_3347

    この日は、ピアノ、プレゼンテーション、民族舞踊、民族音楽他のイベントが
    行われ、スラブの文化を満喫することが出来ました。 同じスラブの国でも、
    ロシアとは、似ているようで全然違うチェコの魅力とは、中世の古い街並みが
    そのまま現在まで残っているところと、カトリック教会であるところなのでは?
    言語的には、ロシア語とチェコ語はかなり似ており、そのまま喋っても大体意思
    疎通が出来るレベル。 

    チェコは、大きく分けると、ボヘミアとモラヴィアに分かれるが、今回は、
    ボヘミアよりもモラヴィア色が強く、民謡も民族舞踊もモラヴィアが中心であった。



    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアと
    モラヴィア、更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる
    大モラヴィア帝国を建設した。 東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して
    建設されたスラブ人の国だと言われている。

    大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン
    教会を取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教が
    ぶつかる舞台となった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、
    後継者のラチスラフ一派は、大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。

    863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、
    キリスト教の祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作った
    グラゴール文字を使った。



    同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の
    甥であるスヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会の
    カトリックへと改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に
    留まり、チェコ人は、ローマ・カトリック教徒になった。

    984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに
    侵入して来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。
    ヨーロッパ南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在の
    スロヴァキアを占領し、その後、約1000年間に渡って支配した。

    great-moravia

    【プシェミスル家とボヘミアの統一】 
    大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、
    有力な豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人を
    まとめて、ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を
    滅亡させた東のマジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、
    ヴァーツラフはドイツ国王ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟
    ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害した。

    しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、
    ヴァーツラフを聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。

    962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活
    させようとしたのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・
    東ヨーロッパの多数の都市、領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今の
    EUのような国家共同体である。 11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わって
    ボヘミア王に迎えられたポーランド王ヴラチスラフは、ボヘミア公国を
    神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の義務を負うことになった。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    スラブ人は、6世紀に中央アジアから来たアヴァール人の侵入で大損害を受けた。
    アヴァール人は、ボヘミア一帯も支配していた。 7世紀はじめに現れたドイツ人の
    商人サモが、チェコ人と結んでアヴァール人を破り、ボヘミア地帯にサモ王国を
    つくったのが、はじめてのチェコ人の国である。 しかし、その後100年以上に
    渡ってチェコ人は、アヴァール人、ポーランド人、フランク人なとど地域の
    支配権を争った。 尚、サモ王国は、7世紀に出現した歴史的に実証し うる最初の
    スラブ人国家となっている。

    samo

    チェコ人にとって西にあるフランクは強い国で、805年になると、ボヘミアと
    モラヴィアは外敵からの防衛を条件に、フランクの支配者カール大帝
    (シャルルマーニュ)に貢納するようになり、フランク王国防衛の最前線地方に
    なった。 優れた武将であったカール大帝は、アヴァール人を破り、ヨーロッパの
    北部と西部をフランクに編入した。 ローマ教会と繋がりが強いフランクは、
    スラブ人を力ずくでキリスト教に改宗した。

    814年のカール大帝の死後、フランク王国は分割された。 孫のルードヴィッヒは
    東フランクの統治者になり、現在のドイツの地域に相当する複数の有力な公国を
    与えられ、頻繁にチェコ人の領土やボヘミアとモラヴィアの間題に介入した。

    【お勧めの一冊】



    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    山間部や川の流域の洞窟に人が住み始めた先史時代に、今のチェコにあたる
    地域、ボヘミアとモラヴィアにも人類が住んでいた。 紀元前500年頃、
    ヨーロッパの北と東から遊牧民ケルト人がやって来た。

    ボイイと呼ばれるケルト人がボヘミアに定住し、その地域とボイイと名付け、
    それがボヘミアの由来と言われている。 ケルト人の集落や最大の都市
    ボイオヘムームは、交易で栄えた。

    czech-map

    しかし、ボイイ人は、西の地域に定住していたチュートン人(ドイツ系)と
    敵対関係にあった。 紀元前12年には、マルコマーニと呼ばれたチュートン人が
    ボイイを征服した。 ボヘミアとモラヴィアは、その後数世紀に渡って争いが
    続き、不穏な情勢にあった。 侵入する遊牧民と、土地や交易をめぐって衝突が
    絶えなかったからだ。

    別のチュートン人一族がマルコマーニ人を征服して、南の盆地に定住したところ、
    アヴァール人とスラヴ人が東から移動して来た。 ローマ帝国軍の兵士達も、
    ヴァルタヴァ川の流域に前線基地を造るために、ボヘミアの森を通って前進して
    来た。

    ローマ人は、3世紀までにイタリア半島を基地に広大な帝国を築いていた。
    しかし、外部からの侵入と政治的な内乱はローマ帝国を弱体化させ、ローマ
    帝国は、4世紀には東と西に分裂した。

    東西分裂の後、コンスタンティノープル(イスタンブール)は、東ローマ帝国の
    首都となった。 しかし、ローマは、依然として西ローマ帝国の首都であった。
    ふたつの首都共、ローマ帝国が公認したキリスト教の拠点としての地位を持った。

    175611

    4世紀に入ると、チュートン人が南ヨーロッパとイタリアに侵入し、西ローマ
    帝国は滅亡した。 その後、スラヴ人の大集団が移動し始めた。 スラヴ人は
    東、南、西のグループに分かれていた。 東スラヴ人はロシアに、南スラヴ人は
    南東ヨーロッパのバルカン半島に、西スラヴ人は中央ヨーロッパ北部の川の
    流域と平野に集落を作った。

    なかでも、現在のポーランド、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアにあたる
    地域に定住した西スラヴ人は、最も大きな民族集団であった。 この民族
    大移動の時期に、ボヘミアとモラヴィアに到達したスラヴ人集団のひとつが、
    チェコ人の先祖である。

    【お勧めの一品】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    チェコの都市が比較的発展したのは、19世紀の工業化と、鉄道の普及の
    お陰である。 現在、チェコの全人口1030万人の約半数は、人口2万人以上の
    都市に住んでいる。 プラハやブルノのような大都市は、大きな川の流域にあり、
    小規模な町や農村の多くは、ボヘミアとモラヴィアの山岳地帯にある。

    23015

    【プラハ】
    プラハは、人口120万人、中北部ボヘミアに位置している。 ヴァルタヴァ川
    両岸にそそり立つ岩と丘に広がる都市である。 歴史上、常にボヘミア王国の
    首都であったプラハは、現在ではチェコ共和国の首都として、経済、政治の
    中心であり、中央ヨーロッパの重要な文化の拠点ともなっている。

    現在のプラハのあたりには、遅くとも2000年以上前に、交易商人のたの宿屋が
    存在していた。 紀元後9世紀に町が作られた後、プラハは、ボヘミア王の居城の
    地となった。 1300年代に入ると、カレル4世は、市街地を拡張整備して、新しく
    王宮、教会、橋、新市街を建設した。 1883年にプラハ市は周辺の町村を合併し、
    市の人口と面積は急速に増大した。

    20世紀のヨーロッパが2回の世界大戦の戦場となったにも関わらず、プラハは
    爆撃と破壊を免れた。 歴史上、重要な建造物が多い新市街と旧市街の大部分は
    壊されずに残った。

    市街地を見下ろす堅固な岩丘の上に立つプラハ城は、貴重な美術収集品を所蔵し、
    チェコ大統領官邸としての役割も果たしている。 プラハの主要産業は、銀行、
    金融サービス、情報、教育、工業、観光である。 プラハは、長いことチェコの
    政治、経済の拠点ではあるが、重工業の生産工場は他の都市に移っている。

    brno300

    【その他の都市】
    チェコ第二の都市であるブルノの人口は、約37万人で、南モラヴィアに位置し、
    モーターバイク、繊維、機械製品工業の中心である。 ブルノ市は、1000年前に
    建設された。 13世紀始めまで、モラヴィアがハプスブルグ帝国領域であった
    時代に、ブルノは、モラヴィアの首都であった。 今では、市の観光名所の
    スピルブルグ城は、ハプスブルグの時代には悪名高い牢獄であった。

    チェコ第三の都市であるオストラヴァは人口32万人で、モラヴィアとポーランドを
    結ぶ峠であるモラヴィア山峡の近くに位置している。 オストラヴァ住民の多くは、
    ポーランド系で、市はポーランドと文化的にも経済的にも近い関係にある。
    オストラヴァの工場は鋼鉄、機械、化学製品を生産している。、 こういった
    企業は、高い雇用を生む一方で、環境汚染の大きな原因ともなっている。 その
    結果、オストラヴァは、チェコでも最も健康に悪い都市のひとつにあげられている。

    西ボヘミアの都市プルゼニは、人口17万人で、街の創立は10世紀に遡る。
    プルゼニは、ピルゼン・ビールで有名だが、兵器産業の中心としても知られて
    いた。 例えば、大シェコダ工場は、飛行機、機械、鉄道車両、繊維生産と
    並んで、兵器産業工場として有名であった。 プルゼニ市には、技術選科の
    工科大学があり、産業界の人材育成に貢献している。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ