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    タグ:モスクワ

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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

    ソ連消滅s

    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    第二次世界大戦におけるソ連の勝利は、社会主義圏を東欧とアジアにおいて
    拡大し、ソ連は、世界を二分する一方の盟主として、アメリカと並ぶ超大国に
    のし上がった。 モスクワの権威は、途方もなく上昇した。 このような
    ソ連の国家的な権威の高まりを顕示するために、スターリンは、1947年1月、
    モスクワ建都800年を記念して、モスクワに8つの高層ビルを建設することを
    決定した。

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    モスクワ大学本館、ホテル・ウクライナ、外務省の3つが重要で、後の4つは
    住宅と小ホテルであった。 モスクワ大学本館は、モスクワの周辺部の雀ヶ丘に
    建てられることが決定され、1949年から工事が始まり、1953年に完成した。
    高さは240メートル、36階建てである。 ホテル・ウクライナは、モスクワ川の
    ほとり、クトゥーゾフ大通りの脇に建てられた。

    1953年に着工し、1957年に完成した。 こちらは、モスクワ大学本館よりも少し
    低く、34階建てである。 第3の建造物は、外務省で、スモレンスカヤ広場に
    あるが、建てられたのはスターリン様式の建造物の中では、最も早く、1948年に
    工事が始まり、1953年に完成した。  高さは、172メートル、27階建てである。

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    残りの4つの建物は、規模が大幅に劣るものとなり、8番目の建物は、スターリンの
    生前に着工されなかったため、彼の死後、計画が中止された。 7つの建物は、
    正に、スターリン時代を代表するような建築で、上へ上へと伸びる権力中枢を
    皆に振り仰がせるような権力主義的な建造物であった。

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    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

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    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

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    1935年7月10日に、モスクワ改造計画がソ連共産党中央委員会などにより採択
    された。 これはいわゆる『スターリンのモスクワ改造』の基礎となり、1940
    年代まで実施された。 1929年から30年に掛けて、赤の広場のレーニン廟が
    鉄筋コンクリート製に変えられたが、これが、モスクワ大改造計画の始まりで
    あったと言える。

    クレムリンの近くにあった巨大な救世主キリスト聖堂は1931年12月に破壊され、
    その跡地には巨大なソビエト宮殿の建設が計画され、1939年から建設に着手
    したが、1941年に戦争が始まり、その後、工事は二度と再開されなかった。

    更に、クレムリンからトゥヴェルスカヤ通りに繋がる辺りに記念碑的な建造物が
    造られた。 まず、マネージ広場の脇にホテル・モスクワが出来たが、それまで
    あった商店と教会を撤去して作られた。 このホテルの向かい側には、政府用の
    建物が建てられた。

    モスクワ改造の計画としては、モスクワの周囲に環状線という自動車道路を作った
    こと、旧トゥヴェルスカヤ通りをゴーリキー通りと改称して大幅な拡張を行った
    ことが挙げられる。

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    最も重要なことは、地下鉄の建設であった。 地下鉄は、欧米で始まったものだが、
    ロンドンの地下鉄は1863年、ニューヨークの地下鉄は1868年、パリの地下鉄は
    1900年に完成した。 後発の社会主義国であるソ連では、土地が国有化されている
    ため、地下鉄は、自由に計画したままに建設することが出来た。

    モスクワの地下鉄の最初の開通は1935年5月、1号線Sokoljniki~Park Kuljtury間9.5km
    及びその分岐線(3号線)Kaliniskaya(現Arbatskaya)~Smolenskaya間2.1kmの
    合計11.6kmであった。 モスクワの地下鉄は、旧ソ連時代の『5ヵ年計画』により
    建設が進められ、運営は市地下鉄公社が担当している。 最初の建設計画は
    1931年に決定され、1932年に着工された。 計画にあたっては、ロンドン、
    ニューヨーク、パリ、ベルリンの各地下鉄からの技術支援を得たが、設計、建設は
    旧ソ連邦の技術者により行われた。

    計画路線網は放射線と環状線から構成され、市内と郊外を結ぶとともに、長距離幹線
    鉄道の始発駅と接続されていたが、国鉄路線等との相互直通運転の計画はなかった。
    地下鉄建設は第2次大戦中も続行された。

    地下鉄シェアはモスクワの全交通量の57%と非常に高く、年間輸送人員は世界一
    である。 1990年代までは資金不足のため建設はあまり進まなかったが、最近に
    なって連邦政府は建設資金補助を増やし、地下鉄建設に積極的になってきた。
    2005年9月10日に4号線の支線としてKievskaya~Delovoy Tsentr間2.2kmが開業し、
    さらに2006年8月30日にはMezhdunarodnaya駅までの0.5kmが延伸開業した。

    2008年1月7日には3号線の延伸部分Park Pabedy~Kuntsev-skaya間及び4号線の
    延伸部分Strogino駅が開業した。 これを機に、4号線のKuntsevskaya~Strogino
    間が3号線に統合され、4号線の西方の終点はKuntsevskaya駅となった。

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    1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
    ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
    会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
    レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
    メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
    レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
    あった。

    ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
    言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
    中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
    ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
    掲げられている建物である。

    ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
    赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
    兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
    十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
    ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
    政府の公式行事、パレードの場となった。

    広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
    功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
    始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
    アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

    革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
    モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
    外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
    された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
    極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
    のである。

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    革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
    出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
    ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
    実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
    建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
    この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
    からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
    この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

    『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
    KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

    ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
    ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
    1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
    この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
    この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

    1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
    運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
    1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
    スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
    された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
    人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
    トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

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    1812年にナポレオン軍がロシアに侵入した。 フランス軍を中核とした
    欧州諸国の兵士を合わせて約60万人の大軍団が目指したのは、ペテルブルグ
    ではなく、モスクワだった。 モスクワこそがロシアの心臓であるという
    ナポレオンの考えだったに違いない。 迎え撃つロシア軍は、数の上では、
    その半分にも満たなかった。

    モスクワ郊外のボロジノの野で両軍は激戦を展開したが、決着は付かず、
    ロシア軍の総司令官クトゥーゾフ将軍は、フィリ村(現在のモスクワの市域内)
    の農家での作戦会議で戦略的退却の道を選んだ。

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    9月1日に全ロシア軍が撤退し、ナポレオンはがモスクワに入ったのは、翌日の
    2日であった。 彼は、モスクワの西にあるポクロンナヤ・ガラーと呼ばれる
    場所で、開城の使節団が来るのを2時間ほど待ったが、慈悲を乞いに現れる者は
    居なかった。 27万5,000人居たと言われる当時のモスクワの住民のうち、
    残ったのは、1万人を超えなかった。 占領軍による略奪がすぐに始まった。

    その夜のうちにボヤが起きたが、大火になったのは、4日の未明の事である。
    6日に雨が降ったが、それでも火の勢いは衰えず、8日になってやっと鎮火した。
    モスクワの建物の3分の2が灰になった。 フランス軍は、血眼になって放火犯人を
    探したが、見つけることは出来なかった。

    火事のため、満足な住まいや食料が得られなくなったフランス軍は、たちまち
    困窮に陥った。 彼等がモスクワから退却を始めるのは、10月6日のことであった。
    その年は、格別に寒い冬が早く到来したのである。 フランス軍は、モスクワに
    放棄する直前に、腹いせにクレムリンの中の建物や、クレムリンから南東に
    4キロ程離れたシーモノフ修道院等を爆破して行った。

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    文豪トルストイの『戦争と平和』は、対ナポレオン戦争を描いた大河小説が
    あるが、その主人公の1人のナターシャは、貴族のロストフ伯爵家の娘である。
    若くて美しいナターシャは、アンドレ・ボルコンスキーに愛されるが、彼は
    戦死した後に、もう1人の主人公ピエール・ベズーホフと結ばれる。 ロストフ家
    の邸のモデルとなった建物は、クレムリンの西のポバルスカヤ通りに実在している。
    イワン雷帝の時代には、クレムリンでツァーリのコックとして働く人々がこの
    辺りに土地を与えられ、1つの村をなしていたのであるが、宮廷がペテルブルグに
    移ってからは、貴族達の広壮な屋敷が立ち並んでいたのである。

    ナポレオンを撃退したこの戦争は、特別に祖国戦争(ナチスドイツとの戦争は、
    大祖国戦争)と呼ばれ、ロシア人の国民意識を形成する上で大きな意味を持った。
    ナポレオン軍を撃退してヨーロッパの国々に赴き、その地の社会制度や人々の
    暮らしをその目で見た将校達は、ロシア社会の遅れに衝撃を受けたのである。
    やがて、それが民主化を目指すデカブリストの運動へと繋がって行くこととなる。

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    アレクセイの息子で、大胆にロシアの近代化を推し進めたのは、ピョートル1世
    である。 再婚した妻から生まれたので、父が亡くなった時は、4歳の幼児に
    過ぎなかった。 異母兄弟であるフョードルが跡を継いだが、その兄の治世は、
    6年しか続かなかった。 10歳のフョードルは、やはり異母兄弟のイワン5世と
    共に、共同統治者として帝位に就くが、政治の実権を握ったのは、摂政の地位に
    就いた1番上の姉であるソフィアだった。 ソフィアは、男勝りの野心家だった。

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    ピョートルは、母と共にモスクワの東北の郊外にあるプレオブラジェンスコエ村
    に住み、外交上の葬式の時だけ、クレムリンに顔を出していた。 ピョートルが
    夢中になっていたのは、戦争ごっこである。 隣にセミョーノフスコエ村があり、
    ピョートルは、両村の少年達を誘って、『遊戯軍隊』を組織し、実戦さながらの
    訓練に明け暮れた。 プレオブラジェンスキー連隊とセミョーノフスキー連隊は、
    後に近衛隊として、ロシア帝国常備軍の中核となる。

    1689年にソフィアがクーデターを計画しているという急報を受けて、ピョートル
    親子は、モスクワから70キロ離れたトロツェ・セルギエフ修道院に避難した。
    その知らせは、誤報と判明すると、それを機会に、ソフィアは摂政の位を失い、
    ノボデビッチ女子修道院に幽閉された。

    プレオブラジェンスコエ村から市内に出る途中にドイツ村と呼ばれる外国人
    居留地があったが、ピョートルは、足繁くここを訪れ、ヨーロッパの進んだ
    技術に親しみ、側近の貴族達をドイツ村に住まわせた。 特に、スイス人
    レフォールトを重く用いて、旅行や遠征に伴い、1697年からの西欧諸国への
    大使節団の団長に任命した程である。

    300人の使節団の中には、ピョートル自身が加わっていた。 自分の目で先進国の
    文物に接すると共に、軍艦建造の技術等を習得したのである。 彼の外国滞在中に、
    モスクワでは、保守派のソフィアにそそのかれて、銃兵隊の反乱が発生した。
    ピョートルは、直ちに帰国し、1,000人を越す反乱参加者を処刑した。 赤の広場で
    首を切られたり絞首刑に処せられたした死骸が、5ヶ月も放置されたため、
    モスクワ中に悪臭が立ち込めた。 蜂起の首謀者は、特に、ノボデビッチ女子
    修道院の中のソフィアが閉じ込められた部屋の窓際に吊るされた。

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    それと同時に、ピョートルは、あらゆる面での改革に着手する。 ビザンチン
    様式だった暦をユリウス暦に改め、貴族には、ヒゲを切り落とさせ、西欧風の
    衣服を身に纏わさせた。 歴法を切り替えたばかりの1700年にスウェーデンと
    戦争を始めたのは、バルト海への出口を確保するためだった。 この戦争の過程で、
    ネバ川の河口にサンクト・ペテルブルグを建設した。 そこに遷都するのは、
    1712年~13年に掛けてである。

    もっとも、モスクワは、首都の資格を失った訳ではなく、ロシア帝国には、
    2つの首都があるとされた。 例えば、歴代の皇帝の戴冠式は、クレムリンの
    ウスペンスキー大聖堂で行われる習慣があった。 しかし、新都の出現によって、
    モスクワの性格が大きく変化した事は否めない。

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    モスクワの人口は、16世紀の末に12万人を数えていたと言われている。
    16世紀から17世紀に掛けて、ヨーロッパからロシアを訪れた使節や商人達が
    様々な紀行文を残しており、ロシア人自身による当時の記録も残っている。

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    16世紀の中頃イワン4世に仕えるシリベストルという僧が『家庭訓』という
    書物を編んだ。 そこには、中世のロシアの人々の典型的な道徳観が示されて
    いる。 『まず大切なことは神を恐れ、ツァーリや貴族や聖職者を敬い、教会に
    通うことである。 両親を愛し、服従することもキリスト教徒としての義務である。
    妻や子供達が間違ったことをした場合には、彼等を罰しなければならない。
    しかし、いかなる罪に対しても、耳や目を打ったり、心臓を拳骨で殴ったり
    すべきではない。 良い妻は宝石よりも貴重である。』 

    シリベストルが非難するのは、教会の斎戒を守らないこと、同性愛、罵詈雑言を
    口にすること、みだらな歌を歌うこと、占いにふけることなどである。 その他、
    彼の教訓は、召使いをどう監督するか、領地をどう管理するか、1年分の食べ物を
    どう貯蓄するかなどの細々とした実用的な事柄にまで及んでいる。

    しかし、全てのモスクワの人達がこのような教えを守って暮らしていた訳ではない。
    17世紀の前半に2度に渡ってロシアを訪れたオレアリウスというドイツ人は、
    『遠くから眺めると、モスクワはクレムリンを中心に多くの聖堂の屋根がキラキラ
    輝いて聖なるエルサレムのように見えるが、中に入ると、貧しいベツレヘム
    (キリストの生まれた村)である』と書いている。 そして、彼は、町中では
    人々が互いに聞くに堪えない言葉で罵り合っているのを耳にした(ロシアの罵詈の
    凄まじには現在でも定評がある)。 悪口を禁止する発令が出ていたが、一度に
    あちこちから聞こえるので、役人も取り締まる暇がなかったと言う。

    キタイ・ゴロド、それに、白い町や土の町の屋根は大体が木造だったが、火事も
    多かった。 町中が焼けるうような大火が1世紀に2~3度起こり、1つか2つの
    街区が丸焼けになるというような火災が発生しない週はなかったという証言がある。
    統計的に見て、モスクワっ子は、一生に一度は焼け出される計算だったと述べる
    歴史家も居る。 要するに、『火事と喧嘩』はモスクワ名物だったらしい。

    『ロシア人は概して大酒飲みの上、にんにくが大好きで、クレムリンの宮殿の
    中までにんにくの臭いがした』というのは、オレアリウスの伝えるところである。
    モスクワの家の建て方自体が、ヨーロッパ人旅行者の目には異様に映った。
    1戸づつ敷地をたっぷりと取ってあり、家の周りが菜園に使われていた。 市内の
    道路でも舗装されたところは、ごく僅かで、夏の乾いた時には、土埃が舞い、
    雨が降るとぬかるみのようになった。 都市というよりは、大きな村のように
    見えたという。

    『夜になると街路ごとに道路は閉鎖され、番人が立った。 夜の間に明かりを
    持たずに往来する者は盗賊と見なされ、捕縛された。 それでも盗みと人殺しは
    後を絶たず、1晩のうちに、数人の死体が見つかることは普通だった。 ツァーリの
    即位などで恩赦令が出て因人が一斉に出獄した時などは、一夜で100人以上も
    殺された』と書いているのは、元外交官でモスクワからスウェーデンに亡命した
    コトシーヒンという人物である。

    moskva

    コトシーヒンは、17世紀の中頃、使節館署で働いていたため、クレムリンの
    内部事情に通じていた。 『ツァーリの幼い皇子と全ての皇女が外出する時には、
    周囲をすっかり布の幕で覆って人目に付かぬようにした』とか、『皇女は決して
    臣下に嫁がせず、改宗を恐れて、外国の王家にも出す習慣がないため生涯を
    涙のうちに泣き暮らすことになる』などとも述べている。 もっとも、
    『ツァーリの后を外国からの使節にも会わせないのは、教養のなさを隠す
    ためである』というような叙述にはいささか悪意が感じられない訳ではない。

    西欧人の観察では、ロシアでは肉付きの良い女性ほど美人と考えられていた。
    『貴族ともなると、白粉を顔一面に塗って紅をたっぷりと頬に付け、20人、
    ないし、30人の召使を引き連れて、夏は馬車、冬はソリで外出したという。
    男女を問わず、身分の高い者は徒歩では出歩くことは出来なかった。 そして、
    大勢の召使を抱えることが豊かさの証とされた。 満足な給料を与えられない
    召使の多いことが犯罪の温床になった』と指摘している外国人も居る。

    むろん、人間の社会であるため、モスクワの暮らしが暗黒ずくめだった筈がない。
    1年を通して、正教会の祭日には、各所で縁日が立って見世物の出る賑わいが
    あり、街区ごとに雪投げ、石投げ、素手の殴り合いなどの遊びがあり、所属
    する教区教会の祝日には講を組んで酒宴を催すというような楽しみ方もあった。

    1日のうちの正式な食事は昼食で、その後にゆっくりと昼寝をするため、真昼時
    には、町の人通りが消えてしまうというような19世紀まで続いた独特の習慣も
    既に成立していた。 

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    都市には市が付き物で、モスクワでは、14世紀の後半から、クレムリンの東側の
    城壁の外が商売の売り買いの場となっていた。 16世紀30年代にクレムリンと
    キタイ・ゴロドがまとめて囲まれた時、市の立つ広場は広げられた市域での
    中心地となった。 支配する者と支配される者が出会う場所という意味でも、
    それは国家の中心とも言えた。

    最初は単に市とか市の広場の名称で文献に現れるが、イワン3世が火事の際、
    火の手がクレムリンに及ぶのを防ぐ意味で、240mの幅の空間に建物を建てる
    ことを禁じたことから、16世紀には、ポジャール(火除け)の広場と呼ばれた。
    今のように赤の広場(赤は『美しい』を意味する)の名前が一般化するのは、
    17世紀の後半からである。

    建物は作れなくても、立売や露店を出して商売することは自由であった。
    時代が下ってからは、堀をまたぐスパスカヤ門の橋の上では、書物や版画が
    売られ、一番北の端のニコリスカヤ門の周りには、ブリヌイ(クレープ)や
    パイのような食べ物売りが集まり、その門の近くにある大砲の台座の脇には、
    クワス(黒パンから作る飲み物)やリンゴ、長革靴、ろうそくを商う店が
    並んでいた。 同業者が固まってひとつの列を成しているのが通例であった。

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    広場を挟んでクレムリンと向き合っているのが、キタイ・ゴロドである。
    赤の広場に建物を作らせない代わりに、16世紀の末、ボリス・ゴドゥノフの
    命令によって広場の脇にクレムリンと平行するように常設のゴスチーヌィー・
    ドゥヴォール(商人館)を建て、そこで商品を展示したり、営業を行わせ
    たりした。 ソ連時代には、グム・デパート(国営百貨店)となった。
    キタイ・ゴロドの一角には、イギリス、イタリア、ドイツ等の外国の商館も
    置かれていた。

    赤の広場のように人が集まる空間は、政治的なパフォーマンスの場にもなった。
    イワン3世とソフィアの孫にあたるイワン4世は、非常に残忍なツァーリだった
    ことで有名で、雷帝というのが彼の通り名であった。 国家を収め始めた
    初期には、宗教会議を招集して法律を定めたり、それまでの年代記を集大成
    したりして積極的な姿勢を示すが、1560年からは、周囲に対して、威圧的な
    態度で臨み、彼の治世の間に赤の広場で処刑された貴族や役人の数は、何百人、
    あるいは、何千人とも言われている。

    アムステルダムで発行された前述のクレムリンの図にも『処刑された人々の
    ための堀ばた教会』の絵が5堂も描かれている。 これらの教会は、18世紀に
    なって取り壊され、その祭壇がワシリー大聖堂に移されたので、今は姿を留めて
    いない。 赤の広場の一角にローブノエ・メストと呼ばれる円形の石壇があるが、
    かつてここは、ツァーリの発布する法令が読み上がられた場所である。

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    17世紀に最も多くの群衆を集めたのは、復活祭1週間前の聖枝祭の行列だった。
    キリストがエルサレムに入ったとされるこの日、総主教が乗るロバの手綱を
    ツァーリが握り、全ての貴族や聖職者や聖歌隊や銃兵隊等が付き従って、
    ウスペンスキー大聖堂からスパスカヤ門を通って、赤の広場に出て、ローブノエ・
    メストまでにぎにぎしく行進したのである。 それは、国家の最高権力者たる
    ツァーリが謙譲の美徳を民衆の前に示すための行事だったと考えられる。
    行進の最後には、ツァーリと総主教がローブノエ・メストに並んで立ち、民衆の
    歓呼の声に応えることで締めくくられた。

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    モスクワ大公は、イワン3世の孫の雷帝イワン4世の時からツァーリと名乗る
    ようになり、クレムリンには、歴代の大公とその家族が暮らしていた。
    ツァーリは、ローマのカエザル・シーザーに由来している称号であり、
    モスクワ大公が代々使用して来た称号である。

    しかし、クレムリンに住んでいたのは、最高権力者だけではなかった。
    1600年にアムステルダムで出版された絵図によれば、今と同様に、正門は
    赤の広場から入るスパスカヤ門(当時の呼び名はフロロフスカヤ門)であった。
    門を入るとすぐ右手にヴェズネセンスキー尼僧院とチュードフ修道院があったが、
    現在、その場所は、新しい建物になっていて、ロシア大統領の官邸となっている。

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    左手には、ロシア各地の大修道院の分院が建っており、現在、その場所は、
    空き地になっている。 広場を通り過ぎると、クレムリンの中でもずば抜けて
    高い81mの『大イワン』と呼ばれる鐘楼がある。 これをイワン大帝と呼ぶのは
    紛らわしく、キリスト教の古い聖者ヨハネ(ロシア語ではイワン)に由来
    している。 この大鐘楼は、物見の塔の役割を果たしていた。 

    鐘楼の先には、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー大聖堂、
    ブラゴベシェンスキー大聖堂が立ち並び、その背後から国事を行う宮廷、並びに、
    ツァーリと皇族の私的な居住空間となっていた。 後者は、一段と高い丘の上に
    立ち、周囲からは隔絶していた。 この大クレムリン宮殿は、ツァーリの
    モスクワでの居城であった。 現在の建物は、ニコライ1世の命で建てられた
    ものである。 大鐘楼、大聖堂群、多陵宮を除けば、ニコライ1世以前から
    現存している建物は、ほとんどない。

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    ツァーリの宮殿から程遠くない場所には、総主教館があった。 この聖界と
    俗界のトップの他に、1600年の時点で12家の貴族がクレムリン内に邸を与え
    られていた。 モスクワ国家の全ての貴族と高官は、毎日、早朝ツァーリの
    宮廷に伺候することが義務付けられていたたため、クレムリン内に舘がある
    ことは、相当な特権であったと想像出来る。

    前述の大聖堂の他にも、聖堂(教会)と称するものが19堂、修道院分院と
    呼ばれるものが6堂を数えるため、政治と宗教が分かちがたく結び付いていた
    ことが分かる。 現在の外務省に相当する使節官署、財務省に相当する出納寮、
    警察庁に相当する盗賊取締官署等もクレムリンの中に置かれていた。 すなわち、
    全ロシアの中枢が全てクレムリンに集中していたのである。

    現在と比較して、変わったのは外堀で、西の城壁のわきには、ネグリンスカヤ川が
    流れ、東側、つまり、赤の広場の側には、ネグリンスカヤから分水して堀が掘られ、
    モスクワ川から流れ落ちていた。 堀の深さは、10mあり、幅は35mで、
    スカスカヤ門に入るには、跳ね橋を渡る必要性があった。 19世紀の初めに
    なって堀は埋め立てられ、続いてネグリンスカヤ川も河口から3kmの地点まで
    埋め立てられた。

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    乱世の権力闘争を制して、モスクワが覇権を握ったのには2つの要因が
    あったとされている。 まず、地理的条件。 モスクワは、ロシア平原の
    ほぼ中央にあって、周囲を森で囲まれていた。 タタール勢の襲撃を
    受けにくい比較的安全な場所だった。 また、モスクワ川によって
    ロシア各地と結ばれていた。 中世では、河川は重要な交通手段だった。
    交易の中継をすることでモスクワは莫大な経済的な利益を得た。

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    次に挙げられるのが、歴代の君主の巧妙な外交手段である。 その点で
    とりわけ目立ったのは、ダニールの息子でカリター(銭袋)とあだ名された
    イワン1世であった。 イワンはタタールに取り入って、ロシアから
    キプチャク・ハン国に納入すべき貢税の徴収権を手に入れた。 そして、
    豊富な資金に物を言わせて、モスクワ公国に隣接する諸侯から土地を
    買い入れて領土を拡大して行った。 ロシア全土のキリスト教会を
    統轄するキエフ府主教は、タタールの襲来以来、以後ウラジーミルに
    居を移していたが、それが招かれてモスクワに腰を落ち着けたことも、
    新参のモスクワの権威を高めるのに役立った。

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    それにつれて、クレムリンの内部も次第に拡張されて行く。 考古学的な
    発掘で確められるところでは、イワン1世の代には既にアルハンゲリスキー、
    ブロゴベーシェンスキー、ウスペンスキー等の大聖堂が揃って立ち、
    ハン国の客人を宿泊させるためのタタール館やチュードフ修道院が
    クレムリンの内側に建てられていた。 クレムリンの中に住むのは、
    公の家族と貴族や僧侶で、商業が行われるのは、初めのうちモスクワ川と
    クレムリンの城塞の間の空き地だった。 それが、ポサードと呼ばれた。
    イワン1世の治世になって、市の立つ場所をクレムリンの東側に移した。
    赤の広場の原型が姿を現したのである。

    イワン1世の孫にあたるドミトリー大公の代にモスクワの興隆は一段と
    進み、ドミトリーは、ロシア諸侯の連合軍を率いて、タタール軍を
    南ロシアのドン川の彼方、クリコヴォで打ち破った。 ドミトリー大公は
    この勝利によって、ドンスコイ(ドンの英雄)と呼ばれるようになった。

    ドミトリーの功績のひとつは、クレムリンをほぼ現在の規模にまで
    広げて、1367年の火災で焼け落ちた木の柵の代わりに石炭岩でクレムリンを
    囲ったことである。 「白亜の石のモスクワ」という美称がここから
    生まれた。

    また、14世紀の後半には、モスクワの周りにアンドロニコフ、
    シーモノフ、ロジェストヴェンスキー、スレーチェンスキー等のような
    修道院が次々と開かれた。修道院と言っても、有事の際には、出城の
    役割を果たすように広い敷地を持ち、賢固に築かれていた。 これらの
    修道院は現存していて、あるものは修行の場に、あるものは博物館に
    なっている。 もっとも、現存の建物は、いずれも後代のものである。

    ドミトリー・ドンスコイ大公が没する頃のモスクワの人口は、3万
    ないし4万人に達していたものと推測されている。

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    モスクワとという名前が文献に初めて登場するのは、1147年である。
    モスクワからほど近いスズダリの街に、ユーリーという公が本拠地を置いた。
    元々、古いロシアの支配者は、バイキングの血を引くリューリックの子孫に
    限られていた。 ユーリーの父のウラジミールもその一人で、キエフ大公として
    諸侯の上に君臨していた。 ところが、ユーリーがスズダリやロストフを領有
    するようになった頃から、キエフを中心とする現在のウクライナ地方に対して、
    ロシア平原の東北部の政治的優位が目立つようになった。

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    ユーリーは、しばしば長駆してキエフの王座を狙ったことから、ドルゴルーキー
    (手長公)というあだ名が付いたほどだった。 そのユーリーが当時政治的に
    手を結んでいた又従兄弟にあたるスヴャトスラフ公(オペラでうたわれる
    『イーゴリ公』の父親)に向かって、『モスクワに来られたし』 と酒宴に
    招いたのが、この年の事であった。

    ある小川が北からモスクワ川に流れ込む河口の三角地帯に、ユーリー大公が
    新たに周囲400mあまりの木柵を築き、堀をめぐらせたのが1156年である。
    その中の広さは、たった1haだった。 この時、ようやくモスクワは町として
    成立したのだが、モスクワの発祥を示す時には、文献初出の1147年をもって
    出発点とみなすこととなっている。 近いところでは、1997年に創建
    850周年際が行われた。

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    赤の広場を出て西北に向かう市内随一の目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ
    通りの右側に、ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が立っている。 派手な
    赤い色のモスクワ市庁舎(旧モスクワ総督公邸)の向かい側である。 もっとも、
    モスクワを自分の居城に定めてモスクワ大公国初代の君主になったのは、
    ユーリーから数えて5代目にあたる末裔のダニール公だった。

    1300年前後のことである。それまでに、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍
    (ロシアでは、タタールと呼ばれている)がモスクワに攻め入ってモスクワ砦の
    木柵も焼き払われるというような事件があり、1293年には、再びタタール勢が
    来襲してモスクワは廃墟になった。 その後、ロシア全体がモンゴル軍が建国
    したキプチャク・ハン国(金帳汗国)に服属することとなるのだが、ロシア国内
    では、諸侯間の激しい内紛が繰り返され、当時は小さな街に過ぎなかった
    深い森に囲まれたモスクワが、その後、ロシアの首都となるのである。

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