モスクワとという名前が文献に初めて登場するのは、1147年である。
モスクワからほど近いスズダリの街に、ユーリーという公が本拠地を置いた。
元々、古いロシアの支配者は、バイキングの血を引くリューリックの子孫に
限られていた。 ユーリーの父のウラジミールもその一人で、キエフ大公として
諸侯の上に君臨していた。 ところが、ユーリーがスズダリやロストフを領有
するようになった頃から、キエフを中心とする現在のウクライナ地方に対して、
ロシア平原の東北部の政治的優位が目立つようになった。

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ユーリーは、しばしば長駆してキエフの王座を狙ったことから、ドルゴルーキー
(手長公)というあだ名が付いたほどだった。 そのユーリーが当時政治的に
手を結んでいた又従兄弟にあたるスヴャトスラフ公(オペラでうたわれる
『イーゴリ公』の父親)に向かって、『モスクワに来られたし』 と酒宴に
招いたのが、この年の事であった。

ある小川が北からモスクワ川に流れ込む河口の三角地帯に、ユーリー大公が
新たに周囲400mあまりの木柵を築き、堀をめぐらせたのが1156年である。
その中の広さは、たった1haだった。 この時、ようやくモスクワは町として
成立したのだが、モスクワの発祥を示す時には、文献初出の1147年をもって
出発点とみなすこととなっている。 近いところでは、1997年に創建
850周年際が行われた。

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赤の広場を出て西北に向かう市内随一の目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ
通りの右側に、ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が立っている。 派手な
赤い色のモスクワ市庁舎(旧モスクワ総督公邸)の向かい側である。 もっとも、
モスクワを自分の居城に定めてモスクワ大公国初代の君主になったのは、
ユーリーから数えて5代目にあたる末裔のダニール公だった。

1300年前後のことである。それまでに、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍
(ロシアでは、タタールと呼ばれている)がモスクワに攻め入ってモスクワ砦の
木柵も焼き払われるというような事件があり、1293年には、再びタタール勢が
来襲してモスクワは廃墟になった。 その後、ロシア全体がモンゴル軍が建国
したキプチャク・ハン国(金帳汗国)に服属することとなるのだが、ロシア国内
では、諸侯間の激しい内紛が繰り返され、当時は小さな街に過ぎなかった
深い森に囲まれたモスクワが、その後、ロシアの首都となるのである。

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