東京通詞 ~多言語のススメ~

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    タグ:マリア・テレジア

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    ヴェストファーレン条約によりザクソン、バイエルン、ブランデンブルグ、
    プロイセンなど、ドイツの主な領邦国家は支配力を強め、これらの諸侯は、
    ヨーロッパの貿易や領土をめぐる対立において、重要な役割を果たすようになる。
    一方、ハプスブルグ家の領地は『オーストリア』と呼ばれるようになっていたが、
    その権力は次第に下降線をたどっていた。

    18世紀初頭までにホーエンツォレルン家は、北ドイツにあるプロイセン、
    ブランデンブルグ両地域を支配するようになり、無駄のない優れた政治組織と、
    強力で精鋭な軍隊を誇った。 1740年にはプロイセン王国フリードリッヒ2世
    (大王)が、ハプスブルグ家の支配下にあった、豊かな鉱山を有する
    シュレージエンを侵略、占領した。

    Preussen

    このシュレージエンをめぐる抗争は1756年、オーストリアとプロイセンの新たな
    対立に繋がり、フリードリヒ大王は、オーストリアとその同盟国ロシア、フランス、
    バイエルン、ザクセンに攻撃を仕掛けた。 この7年戦争で大きな犠牲を払った末、
    ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは1763年、講和を申し入れ、
    ブベルトゥスブルグ条約によって、プロイセンのシューレジエン条約によって、
    プロイセンのシュレージエン領有が確定した。 その後、ホーエンツォレルン家は
    北ドイツに版図を広げ、ドイツにおける最大で最強の王国に発展して行った。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジアで、フランス革命により断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に
    教員として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を
    確立させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で
    教育が行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

    oesterrei01

    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、
    キセルも出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると
    定期代とほぼ同額の5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っている
    だけではダメで、車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりと
    パンチを入れないと切符は有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

    Wiengh1

    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、
    帰国時にある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンの
    フリードリヒ大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。
    ハプスブルグ政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が
    進み、チェコ人もオーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の
    文化は息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、
    鉱業などの新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで
    経済力を高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も
    進んだ工業地域となった。

    a40ak2

    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。
    ボヘミアのプロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、
    チェコ人がチェコ語の新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。
    15世紀末以来、はじめてチェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、
    チェコの農民は農地と故郷を離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での
    仕事が、土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、
    フランス王朝を崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を
    握る、共和政府樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。
    ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に
    及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに
    侵攻した。  彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)
    の戦いでハプスブルグ軍を破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は
    1806年に崩壊し、オーストリア帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、
    モラビア、ハンガリー、ポーランドとイタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
    ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
    ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
    これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
    次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
    まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
    王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
    スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
    オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

    img7m

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
    支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
    ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
    継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
    ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
    込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
    継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
    シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
    フリードリヒの勝利に終わった。

    img0m

    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
    資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
    市民の全てが教育を受けられるようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
    表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから解放した。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

    img432

    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    【宗教改革と反乱】
    ハプルブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民たちは、
    領主から強制される過酷な労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を
    構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に
    分散したハプスブルク家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。 この頃、ドイツ北部やスイスでは、
    ルター等の主張する宗教改革の運動が盛んで、プロテスタントと呼ばれる新しい
    宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、この運動を教会の領地や
    財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と考えていた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応集結した。
    この和議で、ドイツの君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認め
    られた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。 神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール
    5世は、この和議に不満で、翌年退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。
    ハプスブルク家の大領土は、これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに
    分かれることとなる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックとの対立関係は、なおも続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、大半の住民や聖職者は、強力な君主制とカトリック教会に
    好意をよせた。 ハプスブルク家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

    16世紀、当時のハプスブルク家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ボヘミア王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ボヘミアの
    プロテスタント達は、別の領邦の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にべーメンの反乱軍を打ち破った。
    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い反乱が続いた。

    ハプスブルク家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント2世の後継者、フェルディナント3世は、紛争から
    手を引くことにした。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの
    君主達が領邦内の宗教を選択する権利を再確認した。

    【領土拡張と内政改革】
    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲した
    ので、ハプスブルク家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、
    オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺から、トルコ
    軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリー等の東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルク家の繁栄に対して、スペイン系ハプスブルク
    家は、血統が途絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫を
    スペインの王位に据えようとしたため、オーストリアとフランスとの間に
    戦争が始まった。 スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に
    終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド等を
    勝ち取った。

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を
    消耗させた。 その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と
    経済的弱体が著しかった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、
    カールは、それをうまく支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの
    意志に反抗し、ハンガリーとボヘミアの自治を求める動きは、彼の権威を
    損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機に
    さらされた。 カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘であるマリア・
    テレジアをハプスブルク家の後継ぎとして宣言した。 1740年にカールが
    死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。 その直後、ドイツ北部の
    プロイセン王国のフリードリヒ2世は、ボヘミアの富裕な属州シュレージエンの
    割譲を要求して、オーストリアに攻め込んで来た。 フランス、スペイン
    等の諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

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    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは、
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアは、
    その後シュレージエンの回復を図って七年戦争を起こしたが、この戦争も
    1763年にフリードリヒの勝利に終わった。

    七年戦争の結果、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが、彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアは、また、法律を改革し、カトリック教会の
    資産を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられるようにし、
    義務教育を導入した


    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を多閉鎖し、侵攻と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は、更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから開放した。

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