多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:マケドニア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    【スラブ祖語】
    スラブ語は、西は中央ヨーロッパのエルベ川中流域から、南はバルカン半島の
    大部分に渡り、東はウラル山脈を越えて、シベリアの太平洋岸まで、北は
    ユーラシア大陸の北極圏の西側の一部を除く、大部分を占める広大な地域に住む
    住民の間で話されている言語であり、方言を含むスラブ語の主要言語の数は、
    古い時代に書かれた資料でのみ伝わるものを含めると、20以上にも及ぶ。

    スラブ語は、語彙、発音、文法的な特徴が非常に良く似通っており、その共通点は、
    古い時代になるほど大きくなることから、全てのスラブ語は1つの共通の祖語から
    派生し、時代と共に分化、発達して今日に及んだものと考えられている。 この分化
    前までの共通言語を「スラブ祖語」と呼び、そこから分化、発達したと考えられる
    系統上の親縁言語を「スラブ諸語」と呼ぶ。 スラブ諸語は、その相互間の親縁
    関係により、「東スラブ諸語」、「西スラブ諸語」、および、「南スラブ諸語」の
    3つに大きく分類される。

    スラブ語は、同じインド・ヨーロッパ語族に属するロマンス語やゲルマン語と
    比較すると、文字の出現が遅かったため、実際には文字で表記されることが
    なかった「スラブ祖語」は、不明な部分が多いものの、記録に残るスラブ諸語に
    共通の主な特徴から、具体的な言語体系として全体的に把捉することは難しい
    ものの、個々の音韻や語の形態に関しては、かなりの確立で予測出来る場合が多い。

    スラブ語共通の特徴の一部は、バルト語、ゲルマン語、インド、イラン語などを
    含むインド・ヨーロッパ語族の古い特徴と著しい対応や一致を示している。 また、
    現代語と比較しても、ロシア語とドイツ語、英語、フランス語などの間には、
    文法や基礎語彙の面においても、偶然の一致では説明出来ないほどの体系的な一致や
    並行関係が見られる。 これは、スラブ語がこれら各言語と祖先を共有している
    ことを表しており、スラブ祖語は、かつて極めて古い時代に「インド・
    ヨーロッパ祖語」から分離したと考えられている。

    まず、紀元前3000年頃までに、インド・ヨーロッパ祖語が形成され、そこから、
    各々の言語の祖語の分離形成が始まったが、スラブ祖語はその一つとして比較的
    遅い紀元前1000年頃になって分離したと考えられている。 そして、そのスラブ
    祖語から、各スラブ語が分化する過程の中で、遅くとも5世紀頃までには、
    東スラブ祖語が分離し、東スラブ語の独自の分化が始まり、10世紀末には、現在の
    ロシア語の基礎となる東スラブ標準語の形成過程に入ったと考えられている。

    【スラブ語発祥の地】
    スラブ語発祥の地に関しては、カルパチア山脈の北東山麓(ポーランド、または、
    ウクライナ)とする説や、更に西にあるチェコ、ドイツ、ポーランド国境地域で
    あるズデーテン地方とする説など、これまでに様々な見解が発表されたが、
    いずれもはっきりとはしてない。 19世紀前半には、農耕系のスキタイ人を
    スラブ人の祖先と見なすスラブ人の起源説が現れたが、紀元前1000年頃に黒海
    北岸からカルバナア山脈に至るステップ地帯に分布したスキタイ人の言語は、
    実はイラン語系であったことが証明されている。

    紀元前7~8世紀頃に滅びた先住民のキンメリア人の言語は、スキタイ人をはじめ
    とするこの周辺地域の民族に受け継がれたと考えられているが、その後、民族
    大移動が起こり、現在の中欧と東欧地域の広範囲に進出して来たスラブ人もその
    影響を強く受けたとする考え方が最も有力となっている。 スラブ人の祖先の
    事が記された古文書が現れるのは、ヨーロッパの民族集団の分布を一変させた
    民族大移動の時代以後であったため、スラブ祖語に関する確実な資料や証拠は
    何一つ存在していない。

    century

    【スラブ諸族の形成と民族大移動】
    4世紀後半に現在のロシアのペルミ付近から黒海北岸へと侵入して来たフン族に
    よって土地を奪われたゲルマン族の一派である東ゴート族は、376年にドナウ
    流域のローマ帝国領内へと移動したが、このことに端を発する民族大移動は、
    東西ローマ帝国の分裂と、ゲルマン族の攻撃によって476年に西ローマ帝国が
    滅亡するという、ヨーロッパ史上における大変動をもたらしたが、東西ゴート族の
    勢力圏や東西ローマ帝国領内、あるいは、その隣接地に住んでいたスラブ人が、
    現在の居住分布に近い居住分布へと変化を遂げたのは、この時期であったと
    考えられている。

    350年、ゴ一卜人司教であるウルフィラがキリスト教布教のために考案した
    ゴート文字により、新約聖書のゴート語翻訳が行われたが、この頃には、ドナウ
    河口、ヴィスワ川上流域、並びに、ドニェプル川下流域の3地域に分かれて住む
    スラブ3部族が、現在の南、西、東の各スラブ人集団へと発展して行ったと考え
    られている。 民族大移動後の6世紀半ばには、スラブ人は既にこの3集団へと
    分化を遂げていたが、これ以降、スラブ人のバルカン半島全域への進州の勢いが
    強まり、いくつかの地域でスラブ人による国家形成の過程が進行した。 7世紀
    には、短命であったが、チェコ、スロバキアの大部分とクロアチア、スロベニアの
    一部に渡る広い地域を支配したスラブ人初の部族連合国家であるサモ王国
    (631年~658年)、ドナウ河口から黒海西岸とドナウの南岸一帯を広く支配した
    アジア系ブルガール人によるドナウ・ブルガール汗国(?~700年頃)、その後、
    その土地の南スラブ人と同盟して681年には、東ローマ帝国から独立を獲得した
    ことに始まる第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)へと発展して行った。

    9世紀には、サモ王国をも大幅に上回る大モラヴイア公国(833年~907年)や、
    ポーランドを最初に統一したピャスト王朝(960年頃~1370年)、更に、
    東スラブ人の最初の統一国家となったキエフ・ルーシ(862年~1240年)など、
    現代のスラブ諸国に深い関わりを持つ国々が誕生している。

    尚、セルビア人がブルガリアから自立したのは9世紀後半であり、925年には、
    クロアチア王国が建国されたとされているものの、スロベニア人は、古代には
    フランク王国、中世から近代に掛けては神聖ローマ帝国、その後、
    ハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配下にあり、同じ南スラブ人である
    セルビア人、クロアチア人と共に国家を形成したのは、第1次世界大戦後のこと
    であった。

    8e8e920c

    【ブルガール人とブルガリア帝国】
    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    チュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラブ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれている。

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部
    からヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は、5世紀
    頃から、アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ
    方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家である大ブルガリアを形成した。 しかし、
    ブルガール部族連合は分裂し、北方のヴォルガ・ブルガール、西方のドナウ・
    ブルガールへと分かれて移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、
    アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールや
    ドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの
    本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス
    北麓のチュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、
    ハザール可汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀の
    ハザールの滅亡と共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を
    遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン
    共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、後にアッバース朝と通商を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    チュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であると
    されている。 特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でも
    ブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。 一部の部族
    集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住したが、
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。

    彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地のスラブ人を支配する国家を形成し、
    680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・
    ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第に
    コーカソイドに属するスラブ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、
    ヴォルガ川中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語である。
    チュルク諸語の中での位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られ
    ている。 ブルガール語の話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを
    構成する民族集団に含まれていたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、
    他のチュルク諸語とブルガール語との間で見られる音韻上の対立が規則的に
    現れる事から、現在存在する言語の中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語で
    あるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の
    要素を一部含むものの、キプチャク系チュルク言語とブルガール語の混交言語と
    考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラブ化に伴い、バルカンでの話者は
    途絶したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラブ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者
    であった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収された
    と言う意味では、世界的に見ても、かなり珍しい言語となっているが、その
    被支配者であった言語が、共通スラブである古代教会スラブ語の基となった
    のは、非常に興味深い歴史的な事実である。 

    ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古チュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。 ブルガリア語は、元々アジア人
    であったブルガール人が、モンゴル・タタールの大軍に押し出されて、遥々
    ヨーロッパの地まで民族大移動してきた際に、そこに住んでいたスラブ人と
    同化し、スラブ語化された言語であり、支配者の言語が、被支配者の言語に
    吸収されたという、世界でも非常に稀な言語となっている。 この逆パターンが、
    ハンガリー語とフィンランド語で、アジアから押し出された、マジャール人と
    フィン人のアジア系言語は、そのまま、ヨーロッパに根付いた。

    【ブルガリア語の形成】
    ブルガリア語は、古くから、スラブ人の間では、宗教・学問の言語として
    使用されていた「古代教会スラブ語」であり、その元となった言語であるため、
    非常に古い文語の歴史を持っているものの、約500年間にも及ぶオスマントルコ
    支配の時代に、新たに教会用語となったギリシャ語に押されて、かなり衰退
    したが、18世紀後半に入って、ブルガリア人聖職者の間から、ブルガリア語
    復興の機運が生まれ、現代ブルガリア語の元となる新ブルガリア語が形成され、
    民族意識が高まり、ブルガリア語は、オスマン帝国からの独立運動を支える
    重要な役割を果たした。

    スラブ祖語は、元々、古代のブルガリア語でるため、ブルガリア語に似ている
    言語ほど、昔の文法体型を維持している事になるが、ブルガリア語自体が、
    オスマントルコ支配の時代に、かなり崩れてしまったため、文法的には、英語に
    かなり近い。 文法が崩れ去った言語は、どの言語も、ほとんど、英語のように
    なるという共通点がある。

    スラブ語の「私」は、ブルガリア語以外、全て「ja」だが、古代教会スラブ語では、
    「私」の事を「az」と言うのと、スラブ語では、「アルファベット」の事を
    「Azbuka」と言うため、スラブ人は、「az」が「私」という意味である事を
    皆知っている。 ロシア語とブルガリア語は、そのまま喋ってもほぼ内容が理解
    出来るぐらい似ている言語だが、スラブ語は、ゲルマン語他の言語と比較して、
    それぞれの言語に分かれたのがかなり遅かったため、ブルガリア語以外も全言語が
    かなり似通っている。 よって、スラブ語のうちの何れかの言語をある程度理解
    出来ていれば、その他の言語でも何を言っているのか、ほぼ理解可能である。

    【ブルガリア語とマケドニア語】
    ブルガリア語とマケドニア語は、方言程度の違いしかない、非常に似通った
    言語であるため、ブルガリア人は、皆マケドニア語の事を、ブルガリア語の
    方言だと考えている場合が多い。 スラブ語は屈折語であり、名詞類は6つ、
    あるいは、7つに格変化するが、ブルガリア語、マケドニア語では、この特徴が
    殆んど失われ、代名詞に格変化が残るのみである。 この格変化の消失に
    示されるように、ブルガリア語とマケドニア語は、その他のスラブ語とは異なる
    特徴を持ち、その異なる部分は、むしろ、系統関係を異にする近隣の
    ルーマニア語やアルバニア語等と共通する特徴を持っている。

    一般的に、地理的に隣接した複数の言語が、長期間の言語接触の結果、文法や
    語彙構造等、類型論的に相似した言語的な特徴を持つようになることが知られ
    ているが、系統関係に関わりなく、その様に類似した共有する言語的領域を
    「言語圏」と呼ぶ。 バルカン半島では、こうした「言語圏」の存在が早く
    から知られており、ブルガリア語とマケドニア語は、このバルカン言語圏に
    含まれるスラブ語である。

    バルカン言語圏の特徴としては、後置冠詞がある。 スラブ語には、語類
    としての冠詞はなく、必要に応じて、指示代名詞がその機能を果たしているが、
    通常、これらは形容詞と同様、名詞の前に置かれ、名詞の性、数、格に一致する。
    これに対して、ブルガリア語は、後置冠詞を用いて、「その」という指示代名詞を
    意味する。

    ブルガリア語とマケドニア語は、この他にも、共通スラブ語の持っていた時制
    体系を受け継ぎ、これを更に発展させたため、他のスラブ語と比較すると、
    時制に関する形態が豊富にあるという特徴を持っている。 時制形式が単純化
    されたロシア語では、現在形、過去形、未来形の3つの形式を区別するのみだが、
    ブルガリア語では、過去、未来の時制に複数の迂回形がある。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

    daiichiji

    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

    BulgariaWW2

    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

    imagemainjhg

    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

    41971

    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    バルカン半島の最初の住民は、20万年前の石器時代の狩猟民族だった。
    考古学者たちは、ブルガリア領域内の何ヶ所もの洞窟で先史時代の道具や
    武器を発見している。 バルカン山脈のヴラッツアに近いマゴウラ洞窟では、
    紀元前3000年に描かれた人間や動物の絵が発見された。

    その頃、トラキア人と呼ばれる遊牧民族がマリッツア川渓谷に定住しつつあり、
    この人たちがトラキア王国を建設した。 この国家は間もなくギリシャ人の
    影響下に置かれることになった。 ギリシャ人たちは、都市や海岸の低地、
    それにエーゲ海の島々に住んでいた。 紀元前1000年以降、ギリシャの
    植民者たちは、黒海沿岸にも交易用の港をいくつか建設した。

    トラキアの王たちは、自分たちの領域を強化するため、ギリシャの有力都市
    アナティと同盟した。 しかし、紀元前4世紀になると、トラキアは、ギリシャ
    北部にあったマケドニアの国王フィリポスの攻撃を受けて敗北した。

    紀元前336年にフィリポスが暗殺されると、その息子のアレクサンドロス大王は、
    マケドニア軍を率いてトラキアと小アジアを通過し、中東と中央アジアにまたがる
    大帝国を建設した。

    image289

    【ローマ人の統治】

    アレクサンドロスが紀元前323年に死んで彼の大帝国が崩壊すると、トラキアは
    独立を回復した。 しかし、領域内に金鉱があったため、イタリア半島を根拠地に
    領域を拡大中だったローマ人に目を付けられた。 ローマ人は紀元前2世紀に
    マケドニアを敗北させると、北進してドナウ川に到達した。 ローマはこの地域に
    2つの州を建設した。 ドナウ川とバルカン山脈の間にはモエシア、その南には
    トラキアである。

    ローマの兵士や農民たちは、2つの州内に定住して新しい道路や要塞や都市を
    建設した。 この地域の渓谷や平原で収穫された穀物はローマ軍に編入されたが、
    それでもモエシアとトラキアには平和が続いた。

    紀元前3世紀になると、ローマの力は衰え、遊牧民のゴート人が、北ヨーロッパから
    バルカン半島の都市や農地を攻撃した。 やがてアジアから来たフン族がモエシアに
    侵入した。 330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、首府をギリシャの港湾都市
    ビザンティウムに移して、ここをコンスタンティノープルと改称した。 その結果、
    ローマ帝国は東西に分裂した。

    map11c

    北方からの侵入に耐えかね、東ローマ帝国は395年にトラキアとモエシアから
    軍隊を撤退させた。 5世紀になると、侵入はますます激しくなり、西ローマ帝国は
    滅亡した。 東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、バルカン半島の
    各州は、帝国内に含まれることとなった。 やがて、ビザンティン帝国の
    支配者たちは、キリスト教を信じるようになった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの元で
    発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、
    モンテネグロ、マケドニアの共和国から成り、セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、
    マケドニア人、モンテネグロ人、そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

    img3330

    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を占めていた
    セルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。 1980年に、チトー大統領が
    死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、それぞれの民族の中で独立を求める
    運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ
    が次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、マケドニアのみで、他の
    地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言したが、
    スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。 ところが、
    10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)
    によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴスラビアは解体した事になるが、
    その前後にクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人による争いが起きていた。
    クロアチアでは、クロアチア人が多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が
    集中して住んでおり、多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を持っていた。
    そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方をセルビア共和国に編入する事を
    決めた。 その結果、クロアチア人とセルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア領土の
    3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア共和国の樹立を
    宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の支配地域を攻撃し、
    制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、和平条約が結ばれ、1998年
    には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に置かれた。

    8425aaaf0473f96

    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、
    1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。 ボスニアには、セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、セルビア人は、独立に反対して、国民投票を
    放棄した。 こうした中、1992年4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が
    入り乱れての紛争に発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって作られた、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を支援したため、セルビア人
    は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、
    セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、クロアチア人とムスリム人とが、残りの
    領土で争った。 ボスニア紛争では、『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、
    国連の場でも、民族浄化に対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、UNPROFOR
    (国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。 しかし、この試みは、
    上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも虐殺が起きた。 1995年には、
    セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が激非常に激しくなり、国連等の人道支援
    物資も、上手く目的地に届かないような状況が続いていた。 1995年7月、2,000人の
    セルビア人の兵士が、ムスリム人が多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。
    街から逃げ出したムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、
    7,000人以上の命が失われたと言われている。

    6289830bb4

    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入を
    強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、ユーゴスラビア連邦共和国に
    対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。 そうしたなか、1994年3月、
    ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を樹立する事で合意。 しかし、7月、
    セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が提案した和平案を拒否した。 セルビア人に
    対する国際社会の批判が高まるなか、1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO
    (北大西洋条約機構)が、セルビア人に対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が支配して
    いた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、和平交渉に
    応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが間に入って、クロアチア、
    セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、11月には、クロアチア和平、
    ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、ボスニアに関する和平合意を
    『ディトン合意』と言う。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    最新ニュース に参加中!

    ユーゴスラビアは、南東ヨーロッパのバルカン半島地域にかつて存在した、
    南スラブ人を主体とした国家。 かつては、東欧で最も進んだ開放路線を
    歩んでいた筈のユーゴスラビアは、かつての支配国である、オーストリアと
    トルコの2大帝国の置き土産とも言うべき、宗教、並びに、民族間の対立へと
    発展し、その後、各民族間で、血で血を洗う泥沼の内戦へと突入。 進み
    過ぎていたがために、他の東欧諸国とは一切歩調を合わせる事無く、連邦は
    あえなく崩壊した。 『ユーゴスラビア』の国名の由来は、南スラヴ人の
    独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来しており、『南スラブ国』
    という意味。



    かつて、ユーゴスラビア連邦をひとつにまとめるためのスローガンが実は
    存在していたが、それは、『7つの国境』『6つの共和国』『5つの民族』
    『4つの言葉』『3つの宗教』『2つの文字』『1つの国家』というものであった。
    現在は、その6つの構成共和国が全て独立し、スロベニア、クロアチア、
    ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなって
    おり、それぞれが独立国家となっている。 また、セルビアの自治州で
    あったコソボは、2008年に独立を宣言したものの、コソボを承認している
    国は少数に留まっており、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認して
    いない国々からは、依然、コソボはセルビアの自治州とされている。

    5つの民族の定義も現在では曖昧で、まず、イスラム教徒のムスリム人を
    別民族とし、かつ、アルバニア系のコソボ人、ハンガリー系のボイボディナ人が
    セルビア内に混在しているため、かつての連邦内での民族の数の定義は、
    あくまでも、プロパガンダ用に過ぎなかった。

    4つの言葉も、言語学的に、セルビア語とクロアチア語は、同一言語とされ
    ていた共産党時代とは打って変わって、以前までは、同一言語であった、
    セルボ・クロアチア語は、政治的、民族的な対立によって、現在では、
    セルビア語、クロアチア語、ボスニア語がそれぞれ別言語として独立しており、
    更に、セルビア内には、アルバニア語話者、並びに、ハンガリー語話者も
    多いため、こちらもかなり懐疑的。 

    yugoslavi

    3つの宗教に関しては、現在でも、正教、カトリック、イスラム教で変わらず。
    2つの文字に関しては、以前までは、セルビア、並びに、ボスニアでは、
    ロシア語と同じキリル文字が主に使用されていたものの、2000年以降は、
    順次ローマ字への移行が進められて、現在では、セルビアやボスニアでも、
    キリル文字ではなく、ローマ字が主に使われるようになったため、2つの
    文字の定義も完全に崩壊した。

    国名として『ユーゴスラビア』を名乗っていたのは、1929年から2003年
    までの間で、実質的な枠組みとしては、1918年に建国されたセルビア人・
    クロアチア人・スロベニア人王国が始まり。 その後、1929年に
    『ユーゴスラビア王国』へと改名された。 1945年からは、社会主義体勢が
    確立され、『ユーゴスラビア連邦人民共和国』と改称され、1991年の
    ユーゴスラビア紛争までは、この体制が維持されたが、スロベニアと
    クロアチアを中心とする、工業先進地域が、連邦からの独立を要求し、
    セルビアを中心とする連邦政府と対立、その後、泥沼の内戦へと陥ったものの、
    スロベニアとクロアチアは、内戦も最小限に留める事に成功したため、
    そのまま連邦からは独立。 その後、多少遅れて、ボスニア・ヘルツェゴビナと
    マケドニアも独立を宣言したため、特に、セルビア人とクロアチア人、並びに、
    ムスリム人が混在していたボスニアでは、内戦が激しく、数年間に渡り激しい
    戦いが繰り広げられた。

    その後も連邦に留まったのは、同じセルビア人を中心とするセルビア共和国と
    モンテネグロ共和国のみで、1992年にはこの2国間で『ユーゴスラビア連邦
    共和国』が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合へと移行し、
    国名を『セルビア・モンテネグロ』と改称したため、ユーゴスラビアの名を
    冠する国家は無くなった。 更に、2006年には、モンテネグロが独立したため、
    国家連合自体も解消され、ユーゴスラビアは、完全消滅となった。
     
    svg

    ユーゴスラビアの首都は、終始一貫して、現在のセルビアの首都である
    ベオグラードであった。 よって、ユーゴスラビアは、セルビア人が中心の
    国家であった。 これに反発したクロアチア人とスロベニア人も、同じ
    南スラブ人ではあるものの、宗教の違いは超えられず、それが、怨念へと発展し、
    今でも、ボスニアでは、セルビア人共和国とクロアチア人共和国の激しい
    対立へと繋がっている。

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ