1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
影響力は衰えた。

1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
これを鎮圧した。

1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
植民地等、広大な領地を継承するに至った。

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【カール5世とカルヴァン主義】

カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

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この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

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