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    タグ:ポルトガル

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    初期ポルトガルの国王たちは、権力の強化にはローマ・カトリック教会と裕福な
    地主たち支持が不可欠と知って、1211年にアルフォンソ2世は、高位の宗教指導者と
    貴族たちをコインブラに集めた。 これが後のコルテスと呼ばれるポルトガル
    身分議会の始まりである。

    アルフォンソ2世とその後継者、サンチョ2世の時代は、教会と諸王が土地や収入、
    権限を取り合って争い、その結果、ローマ・カトリックの法王は1245年、サンチョ
    2世の王位を与えることを拒否、代って弟のアルフォンソ3世を王位に就かせた。

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    アルフォンソ3世の下、ポルトガル軍は、アルガルベからムーア人を追い出し、
    ポルトガルの領土を現在の広さにまでしたのだった。 ムーア人はこれで、
    イベリア半島のポルトガル側に持っていた最後の砦を失ったことになる。
    アルフォンソ3世は更に、1253年コルテスを創設し、初めて商人や町人も、
    牧師や貴族と同席出来るようになった。

    ポルトガルは、アルフォンソ3世の息子、ディニス王(1279~1325年)の長い
    時代を通じて繁栄した。 ディニス王は、初めて大学を創設し、農業の開発、
    造船工業の育成にも力をつくした。 漁業と貿易も発展し、外国から金属類や
    武器、繊維がリスボンに入るようになった。 一方、ポルトガルからは、ワインを
    始め、ロウ、みつ、オリーブ油が北ヨーロッパに向け出荷されて行った。

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    リスボンは、その富と重要性から、当然のように新しい首都になり、1298年までに、
    政府の所在地は、コインブラからリスボンに移った。 ところが、1340年代、
    リスボンに停泊中の船の中に居たネズミがペストをポルトガルにもたらすことに
    なり、ポルトガル国民の3人に1人がこの伝染病に掛かって死んで行った。 この
    結果、労働人口の減少から農業生産はガタ落ちとなり、その後数十年もの間、
    政府は、荒地となった農地の再開発に取り組まなければならなかった。

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    キリストとイスラムの戦闘が続き、数百年に渡って、両勢力の境界線は常に
    流動的だった。 11世紀半ばの記録によると、ポルトガルはミーニョ川と
    テージョ川の間に位置したキリスト教勢力下の地だった。

    1096年、当時イベリア半島の皇帝を称していたレオン・カスティーヤ王、
    アルフォンソ6世がポルトガルを準独立国にし、自分のムコにあたるフランス人、
    ブルガンティー王国のエンリケにその領土を与えてしまった。 エンリケは、
    その地にローマ・カトリック教会の権限を強化、フランスの修道士を呼び寄せて
    ブルガ、コインブラの宗教区の運営を任せた。

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    エンリケが死ぬと、ポルトガルは、その未亡人であるアルフォンソ6世の娘で
    あるテレサの手に任されたが、テレサは父親の友人たちにかなりの権限を与る
    ようなことをしたため、ポルトガル貴族たちの反感をかった。

    そしてついに、テレサの息子、アルフォンソの軍隊を破った。 アルフォンソ・
    エンリケスは、こうしてポルトガルを支配下に置いたが、レオン・カスティーヤ
    新王国でいとこに当たるアルフォンソ7世のなお支配下にあった。

    王子のアルフォンソ・エンリケスは、独立を求めてアルフォンソ7世を相手に
    およそ10年間も戦った。 ところが、ムーア人から領土を取り上げる好機を
    到来と見るや、その戦いをあっさりとあきらめてしまった。 1130年代末の
    ことである。 その頃、ムーア人も内部抗争で領土が分割、ポルトガル南部への
    統治力は弱まっていた。

    アルフォンソ・エンリケスは1140年代、サンタレンとリスボンを攻撃、敗北した
    イスラム側は、貢物として、現金と品物を供出させられた。 ムーア人は、
    領土境界線をテージョ川から最南端のアルガルベまで後退をせざるを得なく
    なった。

    戦いに勝ち、貢物を受けるに連れ、王子の権力はますます強くなり、1139年から
    ポルトガル国王アルフォンソ1世を名乗るようになった。 1143年、アルフォンソ
    1世の即位を正式に認めた。 ポルトガルのアルフォンソ王朝誕生である。

    12世紀半ばまでに、ポルトガルは、コインブラを首都に独立国となった。 しかし、
    ムーア人の脅威は去らず、1185年までのアルフォンソ時代を通してイスラムとの
    戦いは続いた。 その後、息子のサンチョ1世が後を継ぐと、ムーア人と戦い、
    貿易と農業が盛んになって行った。

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    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

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    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

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    700年代はじめに、西ゴート勢力内部分裂を起こし、反乱派は、北アフリカから
    戦術に長けてい軍隊を呼び寄せ、西ゴートを統治していたロデリック王に対して
    謀反を起こした。 この反乱軍がムーア人と呼ばれ、アラブ人とバーバル人の
    混成である。 彼らの宗教は、イスラム教と呼ばれる一神教で、アラビアで
    生まれ、後にイスラム教として知られるようになった。

    このイスラムによる、イベリア半島侵攻がスペインで始まったのが711年。
    ムーア人はロデリック王の軍隊を蹴散らし、王は戦死した。 侵攻したムーアの
    軍は北アフリカには帰らずに、コルドバやトレド(現在はスペインの都市)など
    豊かな街を次々と占領して行った。

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    ロデリック王を倒した西ゴートの反乱勢力もムーア人の進撃を阻止出来ず、18世紀
    半ばまでに、北部の山岳地帯を除くイベリア半島の大半がムーア人の支配下に
    入った。

    ポルトガル北部のカトリック教徒たちは、イスラム教のムーア人たちに抵抗した。
    キリスト教軍は、侵攻して来たムーア人を50年以内にドウロ川の南に追いやり、
    現在のポルトガルにあたる街とその周辺の領土を取り返した。

    11世紀半ばまでには、キリスト教軍は更に、コインブラの南にまで勢力を広げて
    行った。 貴族達はこうして、スペイン北部の広大な土地も含めてキリスト教の
    勢力下におさめた。 ポルトガル、および、コレインブラ周辺の一帯は、
    ガリシア地方として、レオン・カスティーリャと呼ばれる北イベリア王国の
    領土になった。

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    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア
    北東部沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊が
    ポルトガルにやって来た。 これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点を
    つくり、地元の住民を相手に商売をはじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちに
    よって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル
    将軍は、戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を
    舞台に通商権を求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、
    軍を率いて現在のスペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、
    交戦した。 紀元前201年、ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア
    半島をローマ共和国に奪われた。

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    【ローマの支配】
    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りは
    ヨーロッパとの貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、
    ローマによる支配を安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が
    繰りかえされてローマ軍による征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は
    北進してルシタニア人と戦ったが、地元の抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく
    進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の指導者が戦いに敗れると、
    抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や
    基地の町を次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、
    いずれも当時建設された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、
    ローマの法律を適用した。 地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、
    ローマ人の衣服を身に付け、ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の
    神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの
    大半は、そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の
    代表的な都市はアウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。
    4世紀までに、宣教師たちによってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、
    このキリスト信仰は、その後、ローマン・カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に
    発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、オッソノバ(現在のファロ)や
    アウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】
    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島
    攻撃が始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め
    入っては領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、
    ガリシアに侵攻したのはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、
    といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系の
    スエビ人がアランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人
    と呼ばれる別のゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までに
    スエビ王国を西ゴート王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国が
    イベリア半島のローマ人の領土の大半を支配下におさめ、ゲルマン法による
    統治体制を敷いたのである。 選挙によって対抗する派閥勢力も生まれ、6~7
    世紀に掛けて互いに覇を争った。

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。
    かつては1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土に
    それぞれ分かれたところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が
    住んでいたことが分かっている。 ポルトガル西部の古代の塚からは、
    陶器類や武器が発見されている。

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    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、
    北アフリカや地中海東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり
    着くと間もなく、小さな集団ごとに分かれて、ポルトガルの各地方に散って
    行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と呼ばれた遊牧や農業を
    営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別の
    グループが集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから
    自分の村むらを守って戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人
    たちは、北ヨーロッパのケルト人たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。
    ケルト人たちは、金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルに
    もたらした。 ケルト人とルシタニア人は、数百年に渡って結婚により
    血を分け合い、外界とほとんど接触しなかった。

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    他のヨーロッパ諸国に比べて、ポルトガルは人口が少なく、1058万人となって
    いる。 そのうち30%は、リスボン、ポルトなどの都市部に住んでいる。
    地方は、農漁村で、それぞれ近くには中規模の市場が開かれている。



    【リスボン】

    大西洋岸に位置し、ポルトガルの首都、かつ最大の都市。 ポルトガルの主要港
    でもある。 リスボンの人口は、約80万7,000人で、周辺を含めた首都圏には、
    約200万人が住んでいる。 丘の斜面には新旧さまざまな建築様式が見られる。
    市の中心部には、広い18世紀時代の広場に面して近代的なビルが立ち並ぶが、
    1988年の大火で焼けたものもある。

    リスボンはその長い歴史を通して、多くの征服者たちが到達したところでもあった。
    ローマの軍隊や北アフリカからやって来たムーア人にリスボンを占拠されたことも
    ある。 1100年代にポルトガルは、このムーア人たちからリスボンを取り戻し、
    約150年後に、リスボンはポルトガルの正式な首都になった。

    15~16世紀には、ポルトガルが世界の探検と植民地化を進めた時代で、冒険家
    たちはリスボンの波止場から世界各地へと航海の旅に出て行った。 リスボンは、
    そうして海外へ築き上げた広大な帝国の中心地となった。 1775年、リスボンは
    地震で崩壊し、地震後に起こった津波と火災で更に大きな被害を受けた。 よって、
    リスボンの建物には、首都が再建された18~19世紀以来のものが多い。

    第二次世界大戦(1939年~1945年)以来、リスボンは港を広げ、製油所や貯蔵
    施設、造船所、修理工場、その他の産業コンビナートを作っていた。 ポルトガルの
    工業製品の多くは、このリスボン港から世界に出荷されて行ったのである。

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    【地方の中小都市】
    ドウロ川沿いのポルトは、ポルトガル北部の代表的な港町で、工業の中心地。
    首都リスボンに次ぐ大きな都市で、人口32万7,000人を超えている。 広域では
    約15万人が住んでいる。 1700年代以来、ポルトは、イギリスのワイン商人相手に
    貿易をし、ポートワインの生産、出荷の中心地となって来た。 ドウロ川沿いに
    ざっと80軒のワイン貯蔵庫が立ち並んでいる。 更にポルトには、食品加工、
    石油精製、繊維加工、タイヤ、陶器類の製造など、各種工場が集まっている
    ポルトガルの一大工業地となっている。

    リスボンの南、半島になった沿岸には、港町、セトゥーバル(人口約7万8,000人)が
    あり、セトゥーバル湾への出入口として栄えている。 この湾には、サド川が流れ
    込む。 1966年には、この半島とリスボンを結ぶ橋が完成し、そのお陰で
    セトゥーバルにも何種類かの重要な産業が発展した。 造船施設、魚の缶詰工場、
    その他の企業が年中、忙しくしている。 毎朝、船体を明るい色に塗った
    パトロール船が港に戻って来ては、採って来た魚で地元の魚市場はひとしきり
    賑わう。

    中西部、モンデゴ川沿いにあるコインブラ(人口約7万4,000人)は、歴史に
    とんだ街で、ローマ人によって造られたが、11世紀までは、ムーア人に占領
    されていた。 12~13世紀の間は、ポルトガルの首都になり、権力を持った
    ローマ・カトリック司祭の所在地でもあった。 ポルトガル最古の大学、主な
    図書館や美術館があるのも、このコインブラとなっており、歴史関係の建築物が
    市内に散在している。 小規模ながら、産業もあり、地元の人たちの仕事に
    なっている。

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    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

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    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと
    遠く航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化も
    なく、国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模
    ながら、家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、
    コルクを作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との
    輸出入貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

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    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思って
    いる人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ
    不安が残っている。

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    ポルトガル語は、イタリア語やフランス語と同じロマンス語系統の言語で、
    イベリア半島では、ガリシア語やスペイン語と国境を接している。 ガリシア語
    とは近い関係にあり、少し離れたスペイン語でもネイティブ同士であれば、
    相互理解可能な言語となっている。

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    他のロマンス語に比べ、ポルトガル語は、仮定表現の条件説に、接続法未来形が
    依然として残っていることや、フランス語やイタリア語で顕著である複合過去が
    発達せず、ラテン語の完了形に起源する単純系を過去の表現に使い続けている
    ことなどが特徴として挙げることが出来る。

    また、不定詞に統語上の主語に対応する人称語尾が付いた人称不定詞と呼ばれる
    形式は、近隣のロマンス語には見当たらない珍しい特徴となっている。

    Vou preparar umas sandes para voces levarem.『君達が持って行くようにサンド
    ウィッチを用意しよう』という文では、para(~のために、前置詞)、voces
    (君達、主語代名詞3人称複数)、levarem(原型の不定詞levarに3人称複数の
    人称語尾emが付いたもの)という構成で、『誰が持って行く』のかという点を
    強調した文にすることが出来る。

    同じ内容をVou preparar umas dandes para que voces levem.として文接続詞の
    queを挿入し、動詞をlevem(接続法現在3人称複数)にして従属文を用いた表現
    にも出来るが、後半部分をpara levarと語尾なしの不定詞にしてしまうと、単に
    テイクアウトの意味にしかならない。 人称不定詞は、法と時制と人称(と数)を
    備えた動詞の定形とそれに関して中立的な不定詞の中間に位置するもので、
    準定詞と呼ぶべきであるという主張がある。

    音声面では、鼻母音の多いことが特徴で、5つの単鼻母音の他に、ポルトガル語に
    特有の二重鼻母音(ポルトガルで4つ、ブラジルで5つ)がある。 音節の構造が
    比較的単純で、日本人には学習しやすい言語と考えられているが、実際には、
    無強勢母音の弱化現象をはじめとして、聞き取りが難しい他、日本語の音体系から
    来る干渉もあり、日本人には致命的な落とし穴が少なくない。



    【ポルトガル語の古今】
    ポルトガル語が話されるようになる地域が独立して歴史に姿を現すのは、
    1096年で、この年、レオンとカツティーリャの王アルフォンソ6世が、
    ブルゴーニュの騎士エンリケにポルトガル北部かあコインブラ辺りまでを
    伯爵領として譲渡した。 レコンキスタと呼ばれるイスラム教徒側に対する
    キリスト教の側からの国土回復戦争を通じて、南に領土が拡大する中、
    エンリケの子、アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王(1143年~)
    となる。

    当時の言語で書かれたテキストが現れるのは12世紀後半だが、この頃の
    ポルトガル語は北のガリシア語との区別がまだはっきりとせず、書き言葉も
    ラテン語が主体だった。 ポルトガル語が現在の形となって来たのは、国の
    中心がリスボンからコインブラ辺りの中南部に移り、ルネッサンスの影響を
    受けて、言語規模が徐々に確立して行く16世紀になってからである。

    1572年に出版された長編叙事詩の『ルタニアの人々』は、ギリシャやローマの
    古典的作品に範を取りながら、バスコ・ダ・ガマのインド航海やポルトガルの
    歴史を優雅な文体で詠いこんだもので、古典期のポルトガル語が結晶した
    ものと言える。

    この頃、ポルトガル語は、アフリカ沿岸からインドやアジアに至る広い地域で
    通商目的に用いられており、日本が最初に直接接触したヨーロッパの言葉でも
    あった。 日本人でポルトガル語を最初に習得したのは、フランシスコ・
    ザビエルの通訳を務めた鹿児島の弥次郎(生没年不明)と言われている。
    1822年にブラジルが独立した後もポルトガル帝国の版図はアフリカからインド、
    中国のマカオまで広がっていた。

    1974年にクーデターで本国の独裁政権が打倒され民主化した後、アフリカの
    旧植民地は独立したが、公用語にはポルトガル語を採用している。 アフリカ
    諸国では、ポルトガル語はますます普及する傾向にあり、アンゴラのポルトガル語、
    モザンビークのポルトガル語という変種が認められるのもそう遠くはないのかも
    知れない。

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    マカオ(澳門)は、東アジアで最も古いヨーロッパと中国明代の面影が残る
    小さな街。 2015年現在、人口64万人、面積30平方キロメートル、東京都
    府中市とほぼ同じ大きさで、板橋区よりも少し小さい。 最初に街が開かれた
    のは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3部分から成っていたが、両島を
    繋ぐ橋の両側に広大な埋立地コタイが造られ、面積が大きくなった。

    中国の歴史的商業都市、広州に連なる珠江の東シナ海の河口の西南部に位置して
    いるのがマカオとなっており、北東部に位置しているのが香港となっている。
    両地域の移動は、高速フェリーで1時間だが、建設中の港珠澳大橋が開通すれば、
    車で30分となる。 両地は近くなる上、似た歴史を持つが、マカオは決して
    リトル香港ではない。

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    15世紀以降、ヨーロッパで最も大規模な航海に出たポルトガルが、アフリカ西岸を
    南下し、喜望峰を超え、イスラム圏を東に進み、インドを超え、東南アジアを抜け、
    中国南部へと至る。 16世紀はじめに中国に到達し、1557年頃マカオに居留地を
    得て、19世紀に統治権を得た。

    第二次世界大戦後は、ポルトガル本国の力が弱く、1960年代の中国の文化大革命の
    影響を受けて、マカオで起こった中国人による暴動(12.3事件)をポルトガル側が
    単独で鎮圧出来なかったため、マカオでは、中国の影響が強まったと言われている。

    更にポルトガル本国では、1974年に民主革命があり、共産主義の影響を受けた
    軍人によって、独裁政権が倒され、海外領や、かつての海外の植民地が解放されて
    行く。 マカオについても、中国への返還に抵抗が見られず、香港の返還が決定
    した後で、すんなりとマカオの返還が決まり、1999年12月20日に中国の特別行政区
    となった。

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    マカオの返還前の住民社会構造は、4層から成っていた。 本国派遣のポルトガル人、
    最も多い中国(広東)人、その中間に位置するマカエンセ、中国や東南アジアからの
    出稼ぎ労働者である。 マカエンセは、中国とポルトガル、ないし、その他の地域の
    混血グループである。 世界に数万、マカオには、数千人居ると見られている。
    中ポ両言語を話し、独自の文化、コミュニティー、ネットワークを持つ。 伝統
    マカオ社会、行政や初期香港において、仲介以上の役割を果たして来た。

    出稼ぎ労働者は、主に工場、商店、家事労働なとに従事する期限付きの輸入労働力で
    ある。 返還の頃は1万人前後であったが、ここ数年間で急増し、2014年には、
    17万人近い規模となった。 そのうち、11万人が中国からで、中国の労働力輸出
    としても注目するところとなった。

    この社会構造は、エスニシティーによる役割分担である。 ローカル住民の中では、
    マカエンセは優位にあり、例えば、勤勉でなくとも、高位に就いた。 マカオの
    中国人にとっては、中国の政治力や経済力に期待を寄せる所以となった。 共産
    主義の中国の外に住む中国人の中で、最も中国への親近感が高いのが、マカオで
    あろう。

    ポルトガルの影響は、今後も文化や宗教の分野を中心に、色濃く残って行くだろう。
    文化を重んじる細やかな感性は、マカオの地に根付いており、マカオの中国人からも
    感じ取ることが出来る。

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    マカオをポルトガル大航海の終点と見る時、マカエンセ、マカオ料理、マカオの
    建築物や風景等は、旧ポルトガル領の他地域の特徴が融合し、その情緒がマカオ
    そのものと言えるのかも知れない。

    マカオ経済に関しては、特殊な産業構造、賭博産業と観光業が突出している。
    2014年の雇用者数を見ると、賭博関係が27.5%、ホテルやレストラン関係が16%を
    占めている。 マカオの公営賭博は、19世紀頃以来の歴史を持つ。 返還後、カジノ
    投資が自由化され、海外資本の大規模開発が行われ、中国からの客が押し寄せた
    結果、2006年には、カジノの売り上げが世界最高となった。 現在の売り上げ
    規模は、ラスベガスの7倍となっている。 それによって、マカオ全体の収入が
    急増した。

    2014年の一人当たりのGDPは、約8万9千米ドル(約1千70万円)で世界トップ
    クラス、返還当時の5倍以上にあたる。 だが、これらの数字は、中国に左右され、
    近年の中国幹部の汚職摘発の影響で、カジノの売り上げ、GDP共に、減少した。

    賭博が基幹産業となっている社会には、特殊性があり、ギャンブル依存の問題が必ず
    生じうる上、換金や性的サービスの分野も増長する。 そのため、子供や公務員の
    賭博場への出入りは禁止され、『カジノ社会学』という研究分野もある。 日本では、
    ギャンブル依存が放置されたまま、カジノ解禁が提案されている。 マカオの経験
    から日本が学ぶところは多いであろう。

    中国の対外的な窓口であったマカオは、香港の成立以降、その甘みを奪われた。
    地理的にも珠江が運ぶ砂が港としてのマカオを不利にしたという。 しかし、
    返還後は、中国の川砂ではなく、中国人の欲望をかき集め、繁栄に至った。 
    マカオは、今後も独自の戦略によって、大変貌するであろう。

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    ブラジル南部地域への入植は、初めは北東部と同じ形で行われていた。 しかし、
    天然資源が豊かな南部は、異なった形で発達した。 17世紀後半に、
    ミナスジェライス州で金が見つかると、大勢の人達がこの地方に定住するように
    なった。 これらの人々は、プランテーションを開いたり、作物を輸出したりせず、
    店や小農園を経営して、金鉱を探す人々に商品やサービスを提供した。

    スペインは、政府の代理人に鉱物資源の採掘を管理させたが、ポルトガルは、
    冒険心に富んだ事業主に、採掘を任せていた。 そうした事業主の中には、
    ブラジル北東部の人々も混じっていた。 西インド諸島の砂糖が安いために、
    国際競争に敗れ、サトウキビプランテーションを手放した人々だった。

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    現在、サンパウロと言われている場所には、あらゆる人々がが集まっていた。
    17世紀を通して、彼等は、しばしば何千人という規模で、バンディアと呼ばれる
    探検隊を組織し、新しい資源を求めて、ブラジル内陸部を探検した。 これらの
    人々は、バンデランテと呼ばれ、勇敢なパイオニアとして尊敬されている。

    ほとんどの人は、金やダイヤモンドのような鉱物の採掘のために、組織された。
    このような作業は、ひとつの場所で何年間も続くことが良くあったので、結果的に
    バンデランテ達は、沢山の村や町を建設した。 彼等の活動のお陰で、
    ポルトガルの支配は、法王の決めた境界線を遥かに超えることになったが、
    1750年のマドリード条約で、スペインは、現在のブラジルにほぼ相当する地域
    でのポルトガルの主張を正式に認めた。

    【ポルトガルの支配】
    ブラジル植民地に対するポルトガルの支配は、中南米の多くの地域を支配する
    スペインの統治とは、まるで異なっていた。ポルトガル政府は、カピタンと
    呼ばれる統治者に、地元の出来事を処理する広い権限を与えた。 これは、
    中央集権的なスペイン植民地とは、対象的だった。 独立に向けたブラジルの
    歩みも、スペイン植民地とは異なっていた。 ブラジルには、多くのスペイン
    植民地のような独立のための長い戦争は必要なかった。 ブラジルを独立に
    導いた一連の出来事の始まりは、1807年に起きた、ナポレオンのポルトガル侵略
    だった。

    ポルトガル王はジョアン6世は、王室をそっくりブラジルに移し、自分かその
    子孫が、ポルトガル王として、国に戻れる日が来ることを待つことにした。
    やがてナポレオンは失脚し、1821年、ジョアン6世は、ポルトガルに戻った。
    国王は、まだ20歳を過ぎたばかりの王子ドン・ペドロをブラジルの執政に任命し、
    時が来たら独立を宣言するようにと言い残した。

    翌1822年9月7日、ドン・ペドロは、国民の要求に応えて、独立を宣言した。
    1ヶ月後、彼は、ブラジルの立憲皇帝、終身守護色ペドロ1世となり、ブラジルは、
    ポルトガル王と血の繋がった皇帝を戴く独立王国となった。 しかし、独裁的
    だったペドロ1世は、ブラジル国民に人気がなかった。 フランス革命や、
    アメリカの独立戦争や、スペイン領南アメリカ各地での独立戦争に啓蒙された
    国民は、旧世界の君主の独裁を嫌い、自分達の運命を自分達の手で決めたいと
    願うようになった。

    不満の高まりの中、1831年にペドロ1世は退位し、ポルトガルに帰って行った。
    在位期間は9年間であった。 父親がそうしたように、彼は、息子のドン・ペドロ
    (ペドロ・デ・アルカンタラ)にその地位を譲った。 息子のドン・ペドロは、
    まだ6歳だった。 それからの9年間、ブラジル帝国は、3人の執政によって統治
    されたが、その政治は、全体としては、国民の意志を反映したものだった。
    1840年、15歳になったドン・ペドロは、ブラジル皇帝として即位した。 初めての
    ブラジル生まれの元首であった。

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    【ペドロ2世】(1840年~1889年)
    ペドロ2世は、50年近くも安定した統治を続けた。 中南米植民地の支配者で、
    彼ほど国民から敬愛され、尊敬されている人はいない。 質素を好み、気取りの
    ないその人柄は、あらゆる階層の国民から支持された。 ペドロ2世は、知的
    好奇心が強く、科学や文学の学会を創設した。 アメリカの詩人ロングフェローを
    はじめ、世界的な思想家や文学者と熱心に文通し、スウェーデンの北極探検家
    ノルデンシェルドとは、気象観測情報を交換した。 トロイの遺跡の発見者である
    ドイツのシュリーマンとは、激しい論争をしながら、暖かい友情を育んだ。

    ペドロ2世は、エジプト学に熱心で、そのためにアラビア語やペルシャ語を学び、
    バビロニアの象形文字も研究した。 また、アマゾン盆地を年度も訪れるうちに、
    インディオのトゥピー族や、グアラニー族の言葉を覚え、日常会話が出来るように
    なった。

    ペドロ2世は、長い在位期間の間に、ブラジルを国際社会で安定したものとした。
    国の政策は継続的で安定したものとなり、外国の投資家は、安心してブラジルの
    資源開発に投資した。ブラジルの工業と商業は、ペドロ2世の政治とあいまって、
    大いに発展した。 彼は、鉄道建設を進め、電話の架設工事への投資を主張した。
    電話は、皇帝の親しい友人であるグラハム・ベルの発明であった。

    1856年にパラグアイ戦争が起きると、ブラジルは、アルゼンチン、ウルグアイと
    共に3国同盟を結び、パラグアイに対抗した。 戦争は、1870年に終わり、
    同盟国側が勝利した。 しかし、この紛争は、高くついた。 戦費の負担に対する
    国民の不満が、やがて主君性が終わる一因となった。 しかし、より大きく影響
    したのは、奴隷制の問題だった。 ペドロ2世の要請で、ブラジルは、1851年に
    奴隷貿易を禁止する法律を決めた。 しかし、この法律は、奴隷の輸入を禁止する
    だけだったので、ブラジル人は、まだ奴隷を私有していた。

    奴隷制度の完全な廃止は、さまざまに議論されていたが、経済力のある有力者の
    多くは、これに反対だったのだ。 奴隷制度を支持する人々からの働き掛けを
    逃れるために、ペドロ2世は、ヨーロッパへ休暇旅行に出掛け、その間は、娘の
    イザベラ王女に皇帝の代理を命じた。 1888年、イザベラ王女は、奴隷廃止例に
    署名した。

    かつての奴隷所有者の反発と軍部の不満が高まる中で、1889年、ペドロ2世は
    退位した。 皇帝の地位にあった時から、ペドロ2世は、ブラジルをアメリカ
    合衆国のような民主共和制による自治の国にしようと考えていたため、やがては、
    退位を求められることを覚悟で、民主的な政治勢力を励まし続けた。 ペドロ
    2世の統治が終わる時が来ても、血生臭い事件は起きなかった。 それどころか、
    貧しい者も高い地位にある者も、涙を流して敬愛する皇帝の亡命を見送った。

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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

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    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

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