多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ポルトガル

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    世界遺産 シントラ
    シントラは、リスボンから電車で約40分の位置にある街全体が世界文化遺産に
    指定されている街で、それぞれ世界遺産に指定された宮殿、庭園、建造物等の
    見どころが沢山ある。 ムーア人が築いた城跡、ポルトガル王室の夏の離宮など、
    様々な年代の文化財が集積していることから観光地としても非常に人気がある。
    また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬への観光の拠点にもなっています。

    出発はロシオ駅から
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    シントラは、歴史的な建物が多いため、この街を観光するためには、丸1日は
    必要だと思います。 ユーラシア大陸最西端のロカ岬に隠れた歴史的なスポットを
    見つけたので、次回は時間を作って、もっとゆっくりとシントラの街を観光しようと
    心に決めました。

    【シントラ】
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    ポルトガルの首都リスボンは、人口約55万人程度となっているが、周辺の都市圏を
    合わせると、300万人を越える大都市となり、ヨーロッパの中でも11番目の都市規模
    となっています。

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    ユーラシア大陸最西端のロカ岬へ
    今回は、リスボンからポルトガル国鉄に乗ってユーラシア大陸最西端を目指します♪
    地球の歩き方には30分間隔程度で電車が出ているとの記載があったものの、
    何故か40分弱待たされることとなったため、とりあえず、ロシオ駅前にあった
    カトリック教会に入りました。 ヨーロッパの街の中心地には、必ず教会があり、
    人々が集う場所となっています。 この日は、教会内でミサが行われており、
    聖歌隊による歌が披露されていました。 カトリックは、どこもかしこも装飾が
    物凄く、宗教による力は偉大だと感じました。

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    ロシオ駅
    リスボン中心部にあるロシオ駅から、ユーラシア大陸最西端のロカ岬に行く
    電車が出ています。 まずは、シントラ駅までが電車で、その先がバスでの
    移動となりますが、このシントラが、かなり歴史的な建物が多く、もう一日
    このシントラを見たいと感じたものの、日程的に翌日にはモスクワに飛ば
    なければならなかったため、泣く泣く諦めました。 次回リスボンにやって
    来る際には、このシントラを重点的に周りたいと思います。 切符を買う
    窓口では、英語がそこそこ通じました。

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    シントラ駅
    シントラ駅は終点駅であるため、ここからロカ岬行きのバスが出ていますが、
    そのバス停が非常に分かり辛い。 駅からポルトガル語で「ロカ岬行きのバス停は
    どこにありますか?」と何度も質問をしているものの、なかなか見つからず、
    途中のお土産屋で気晴らしをした次第で御座いますw

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    ロカ岬
    シントラ駅からロカ岬までは、バスで1時間弱掛かるため、夕暮れに間に合わない
    かと思いましたが、ギリギリ間に合い、何とか奇跡の画像を撮りました。
    ちょうど完全に太陽が沈み、昼と夜の中間の感じが画像にもばっちりと収める
    ことが出来ました。 後30分程度早く来ていれば、もっと綺麗な写真が撮れたと
    思いますが、この日は、スペインの南部から長距離を移動して来たため、これ以上
    早めの時間にこの地に来る事は出来ませんでした。

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    【ロカ岬】
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    既に真っ暗になったロカ岬から最終便のバスに乗り、シントラへと戻ります。
    このロカ岬に来てみたいがために、ポルトガル語を習い始めたため、感慨ひとしお。
    我、ユーラシア大陸の最西端に立てり♪

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    ヨーロッパ南部は鉄道がない
    スペイン南部の中心都市セビリアからポルトガルの首都であるリスボンまでの間は、
    鉄道が全く通っていないため、現地の乗り合いタクシー(いわゆる白タクw)を
    5人でシェアして移動することとなった。 ヨーロッパでは、乗り合いタクシーが
    移動手段として合法化されており、乗り合いタクシー専用のスマホアプリも複数
    存在する。

    まずは、セビリア市内のマクドナルド前に集合
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    乗り合いタクシーは、この様な風景の場所を通り抜けた
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    テージョ川を渡ると、もうすぐリスボン到着
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    セビリアからリスボンまでの総移動距離は約450km、移動時間は5時間弱となって
    おり、車内は運転手のスペイン人、リスボン在住のスペイン人、韓国からの旅行客
    2名と私の合計5人であった。 日本では全面的に禁止されている白タクも、
    ヨーロッパでは、アプリで普通に誰も開業できるアルバイト的な仕事であるため、
    この様な交通の便が悪い場所では大活躍。 移動ルートは、Google Mapで確認した
    ところ、スペイン内陸部を通り、途中のポルトガル国境にあるBadajoz(バダホス)で
    休憩時間を取るという経路であった。

    【リスボン】
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    今回の旅は、ポルトガルのリスボンを基点としているため、リスボンに来るのは、
    これで3回目となるため、リスボンのゲストハウスに荷物をずっと預けており、
    移動が非常に楽であった♪

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    セウタは、アフリカ大陸北部にあるスペインの飛地領で、ジブラルタル海峡に
    近い地中海沿岸に位置している。

    モロッコから歩いて国境を越えてスペインへ
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    掘っ立て小屋風の出国手続き所
    (ここで手続きを忘れると、再度ここまで戻されます)
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    スペイン入国!
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    スペイン入国後はこのバスでセウタへ
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    サンフェリペ壕
    セウタにあるサンフェリペ壕は、15世紀にポルトガル人がジブラルタル海峡を
    通過する船を見張り、セウタを防衛するために築いた要塞で、ポルトガルが
    スペインに併合されて以来、セウタはスペイン領となっている。

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    サンフェリペ壕は、「壕」と言うよりも、非常に頑丈な造りであるため、「要塞」と
    言った方が分かりやすい。 ジブラルタル海峡にあるため、対岸のヨーロッパは
    すぐ目の前。 ヨーロッパはどこも戦争の歴史であるため、このような強固な施設が
    必要だった模様。

    【セウタの中心街】
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    セウタの地名は、7人兄弟(の城)(七つの丘のこと)を意味すセプテム・
    フラトレス(ラテン語: Septem Fratres) から派生したとされる。

    スペインの植民地の要塞は、スペインの後に世界帝国を築いた英国の拡大に
    対して築かれたものが多いのだが、セウタはその英国以外にも、地続きの
    アフリカの攻撃に対しても守りを固めねばならず、現在のセウタ中心部と大陸を
    隔てるよう、壕が掘られ、海の水が引かれています。

    アフリカ大陸から望むヨーロッパ(ジブラルタル海峡)
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    坂の街リスボン
    港町はどこも高低差が激しく、坂道が多いため、リスボンにはケーブルカーが
    2か所あります。 リスボンは、その高低差がそのまま地名となっており、
    「Alta(アウタ)」地区は「高い」と言う意味で、「Baixo(バイショ)」地区は
    「低い」と言う意味です。

    【ケーブルカー】
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    リスボンのケーブルカーは、乗車時間がものの5分程度しかありませんが、実は、
    歩いても余り時間は変わらず、単に楽に坂の上に登れるという代物。 この場所が
    リスボンの絵葉書に一番出て来る風景のため、最もリスボンらしい景色と言えます。
    ほんの数百メートルしかない路線であるため、実は、ケーブルカーを待っている
    間に、歩いた方が早いです。

    【リスボン】
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    ポルトガル土産は、陶器の焼き物が多いのが特徴で、特に、ニワトリの置物が
    ポルトガル土産の定番となっています。

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    日本に初めてやって来た外国人とは、一体何人なのだろうか? 記録上、
    日本に初めてやって来た西洋人は、1543年種子島に漂着したポルトガル人商人、
    フランシスコとキリシタ・ダ・モッタと記録されている。

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    この様な経緯により、ポルトガル語が日本語に果たした役割は非常に大きく、
    日本語として日常的に使われるようになったポルトガル語の単語には、以下の
    ような物があります。

    ポルトガル語 本来の意味 外来語
    Bateira 小舟バッテラ
    Balanço ブランコ 左右の動き、横揺れ
    Bando ギャングバンド
    Biscoitoビスケット、ビンタビスケット
    Bôlo お菓子・ケーキボーロ
    Caramelo 焼き砂糖・カラメルキャラメル
    Cambodia カンボジアカボチャ
    Carta 手紙・トランプカルタ
    Castelo カステラ
    Capaマント・袖なし外套カッパ
    Charamelaチャルメラキャラメル
    Cristãoキリスト教徒キリシタン
    Confeito糖菓子
    Copoコップコップ
    frasco陶器の小びんフラスコ
    gibão肌着・シャツ襦袢
    jarro取手付きの水差しジョウロ
    ombroおんぶ
    órgão機関、器官オルガン
    padre神父、司祭バテレン
    pãoパン、食料パン
    raxaラシャラシャ(羅紗)
    saraçaサラササラサ(更紗)
    tempêro調味料てんぷら
    tabacoタバコタバコ
    veludoベルベットビロード
    vidroガラスビードロ
    zamboaザボンザボン

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    リスボンの中でも、特に歴史的な地区としても名高いベレン地区には、ポルトガル
    大航海時代を再現した「発見のモニュメント」がある。 インド航路発見者の
    ヴァスコ・ダ・ガマ、ブラジル発見者のペドロ・アルヴァレス・カブラル、初めて
    世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン、喜望峰を初めて回りインド洋
    へと到達したバルトロメウ・ディアス、日本へ1549年にキリスト教を伝道した
    宣教師フランシスコ・ザビエルと、ざっと見ただけでも、かなりの偉業を達成した
    人物ばかり。

    【発見のモニュメント】
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    同じくベレン地区にある世界遺産「ジェロニモス修道院」は、エマヌエル様式の
    最高傑作とも言われ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。 建築資金は当初、
    バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、
    その後も香辛料貿易による利益によって賄われたが、途中で建設が中断したため、
    最終的な完成までには300年も掛かった。

    このすぐそばには、「ベレンの塔」があり、ジェロニモス修道院と共に、
    「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに
    登録されている。

    リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔
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    リスボンの交通機関は、デポジット式のプリペイドカードなのだが、実は、
    車内でも清算が出来るものの、料金が一気に跳ね上がり、前払いよりも約2.5倍の
    3.8ユーロ(約480円)となる。 基本料金の1.5ユーロ(約190円)と比較すると、
    非常に高いため、2回以上車内で清算をする可能性がある場合は、1日フリーパスが
    断然お得となる。

    リスボン中心部にある「コメルシオ広場」は、テージョ川河口付近にあるため、
    港町の雰囲気が漂っている。 リスボンの街はさほど大きくはないため、頑張れば
    歩いても回れるものの、ある程度は地下鉄や路面電車を組み合わせて効率良く
    回ると時間の節約にもなるため、利用価値が高い。

    【ベレン地区~コメルシオ広場】
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    テージョ川河口付近。 この川を下り、世界各地に探検家を送ったポルトガルは、
    スペインと並び、世界中に植民地を持つ大帝国となった。 この日は年末で
    あったため、コメルシオ広場では、新年の準備が進められていた。

    リスボン観光の目玉、サンタ・ジュスタのリフト(「エレベーター」はアメリカ
    英語)。 リスボンは港町であるため、高低差が激しく、このリフトで上に登る
    ことが出来る。 ポルトガル土産は、スペインと同じく、絵柄の付いたタイルが
    多いのだが、青い色が多いのは、海のそばにある街だからなのか?

    【サンタジュスタのリフト】
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    ポルトガル名物のエッグタルト。 同じ物は、旧植民地であるマカオにもあのだが、
    やはり、本場のリスボンで食べるエッグタルトは一味違う♪ この日は時間が
    なかったため、途中の乗換駅で、ピザとエッグタルトを買い、そのまま空港へと
    向かいました。

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    モスクワから5時間半のフライトでポルトガルのリスボンに到着。 まずは、
    自動券売機で地下鉄の切符を買わなければならないのだが、これがなかなか
    分かりづらい。 この券売機ではクレジットカードでの支払いが出来るのと、
    ポルトガル語と英語が選択出来るものの、デポジット制プリペイドカード式の
    券売機であるため、1回買うごとに0.5ユーロの手数料(返金なし)が一々掛かり、
    バスや路面電車も同一の切符で乗れるものの、プリペイド式ではなく、車内で
    購入した場合は、2倍以上の値段となるため、最も賢い切符の買い方は、10回分
    ぐらいをまとめて一気に買ってしまうこと。 1日に4回以上乗るのであれば、
    1日フリーチケットを購入するのが一番お得。

    尚、リスボンの地下鉄は3両しかないため、ホームの長さに対して、車両が極端に
    短いため、ぼ~っとしていると、電車に乗り遅れるため、要注意。

    【リスボンの地下鉄】
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    日本とリスボンは、時差が9時間もあるため、朝の6時から観光開始。 リスボンの
    地下鉄は、午前6時半からしか動てはいないため、路面電車が動いている場所まで
    徒歩で移動しました。 このため、最終日は宿から空港まで約65分掛けて全て
    歩くこととなった。

    市中心部のロシオ広場から15番の路面電車で20分あまり、リスボン西部にある
    ベレン地区まで移動しました。 ヨーロッパの交通機関は、概ねゾーン制を採用
    しているため、20分乗車しても料金は同じ1.5ユーロ。 この地域は、歴史的な
    建物が非常に多く、空高く建つキリスト像は、リオ・デ・ジャネイロのキリスト像を
    模して作成された物。 この場所は、ポルトガル国鉄も並走して走っているものの、
    付近には駅がないため、路面電車を使う方が断然便利。

    ポルトガル語では、『城』のことを『カステーロ』と言うが、これが日本語の
    『カステラ』の語源。 スペインの『カスティーリャ地方』が語源と言う説もある
    ものの、どちらも『城』と言う意味では、同じ語源。

    【ロシオ広場~ベレン地区】
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    世界遺産『ベレンの塔』。 営業時間は午前10時からであったため、中には入れ
    なかったものの、ポルトガルが世界的な大帝国であったことをまざまざと見せ
    付けられる建物。 16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一
    周の偉業を記念して作られた建造物で、テージョ川を往来する船の出入りを
    監視するための要塞となっている。

    ポルトガル大航海時代を再現した『発見のモニュメント』。 インド航路発見者の
    ヴァスコ・ダ・ガマ、ブラジル発見者のペドロ・アルヴァレス・カブラル、初めて
    世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン、喜望峰を初めてまわり
    インド洋へ到達したバルトロメウ・ディアス、日本へ1549年にキリスト教を
    伝道した宣教師フランシスコ・ザビエルとざっと見ただけでも、かなりの偉業を
    達成した人物ばかり。

    同じくベレン地区にある世界遺産『ジェロニモス修道院』。 マヌエル様式の
    最高傑作とも言われ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。 建築資金は当初、
    バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、
    その後も香辛料貿易による利益によって賄われたが、途中で建設が中断したため、
    最終的な完成までには300年以上の時を費やした。

    ベレンの塔~発見のモニュメント
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    リスボンの交通機関は、デポジット式のプリペイドカードを利用すると説明したが、
    車内でも清算が可能なものの、その料金は、前払いと比較して約2.5倍の3.8ユーロ
    (約480円)となり、元の1.5ユーロ(約190円)と比較すると、非常に高いため、
    2回以上車内で清算をする場合は、1日フリーパスが断然お得となる。

    リスボン観光の目玉、サンタ・ジュスタのリフト(エレベーターはアメリカ英語)。
    リスボンは港町であるため、高低差の起伏が激しく、このリフトで上に登ることが
    出来る。 ポルトガル土産は、スペインと同じく、絵柄の付いたタイルが多い
    のだが、青い色が多いのは、海のそばにある街ならでは。

    ジェロニモス修道院~サンタ・ジュスタのリフト
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    この日は、そのままフランクフルト経由でダブリンまで飛ばなければならないため、
    観光は早朝だけにして、午前中の便でダブリンへと向かいます。 今回の旅では、
    リスボンには、合計で3回来ることになるため、この日は、お土産は買わずに、
    品定めだけして、すぐに地下鉄に乗りました。 リスボン空港までは、ここからは
    地下鉄の乗り換え1回で行けるため、地下鉄が一番便利な交通手段と言える。

    ポルトガル名物のエッグタルト。 同じ物は、旧植民地であるマカオにもある
    ものの、やはり、本場リスボンで食べるエッグタルトは一味違う♪ この日は
    時間がなかったため、途中の乗換駅で、ピザとエッグタルトを買い、そのまま
    空港へと向うことにした。

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    ポルトガル帝国が拡大するに連れ、南米ブラジルから中国大陸の沿岸マカオまでに
    広がった植民地との行き来に、船乗そのものをますます多く必要とするように
    なった。 船の難破、疫病、あるいは、ポルトガルの権益そ認めようとしない
    地元民との戦い等で多くのポルトガル人男性が死んで行った。 1500年代末まで
    には、遠隔の領土がポルトガルの財政と国民にとって重荷になって来たのである。

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    加えて、ポルトガルはローマ・カトリックの信仰を広めようとしたため、ポルトガル
    新領土や本国の非キリスト信仰者を動揺させることになった。 キリスト教会は、
    イベリア半島の人々、特に、イスラム人とユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと
    した。 キリスト教会は、更に、異教を禁じてしまおうと考えた。

    ローマ・カトリック教会は、異教、ないし、非キリスト教的信仰の疑いのある者は
    全て罰しようとし、異端審理のための宗教裁判所を作った。 冷酷な措置と厳しい
    裁判のため、一部のポルトガル人キリスト教徒さえも含む多くの非キリスト教徒達が
    異端のそしりを受け、投獄、あるいは、処刑の憂き目にあった。

    【お勧めの一品】


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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や殖民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が暮らしていた。 北にはアラワク族とカリブ族が、東にはトゥピー・
    グアラニー族がおり、南にはジェー族、西にはパーノ族が住んでいた。 人々は
    豊かな森林で狩りを行い、海辺や川で漁をして暮らしていた。 亜熱帯地方の
    人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、キャッサバ芋を
    栽培していた。

    集落もあり、かやぶき屋根の小さな長屋が集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、
    一家族だけではなかった。 これらブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも
    言われる。 彼らは、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。
    彼らは、工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からかごや壷や装飾品を作っていた。

    【カブラルによるブラジルの発見】
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    【ブラジルの発見と初期の殖民】
    一方、ヨーロッパでは、15世紀に航海と探検の時代が始まった。 航海者たちは、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を探す
    冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民たちは、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人から
    インディオ(スペイン語・ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。 コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルと
    スペインの間に、新しい領土の獲得競争が始まった。

    この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に防ぐため、1493年、法王
    アレクサンディル6世は、ヴェルデ岬諸島の西およそ560キロの大西洋上に南北に
    通る想像上の線を引き、両国の領土境界線とした。 この線から西の全ての
    新しい領土はスペインに、東はポルトガルに帰属することになった。

    両国はこの取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが不満を持ち、境界線を
    1500キロほど西に移すように主張した。 この第二の境界線は、1494年に
    スペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。 この境界線は、
    ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが主権を主張する
    根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督ペドロ・
    アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由してインドに
    行く途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、今の
    バイア州の海岸だった。 彼らは、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は土地譲渡の制度を創設し、領土を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部ではオリンダ
    (レシフェの近く)や、サルヴァドールに、もっと南では、サンヴィセンテ
    (今のサントス付近)に、立派な植民地が誕生した。 1548年、カピタニーアは
    統一され、国王が任命する総督の支配を受けることになり、サルヴァドールが
    首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期、ブラジル北東部を武力で占領し、ポルトガルの
    統治は途絶えた。 1630年、オランダはペルナンブコとオリンダを占領し、
    マラニュン島からサンフランシスコ川下流の流域までの一帯を支配した。 しかし、
    1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、支配権を奪い返した。
    オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いたのは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビのプランテーションを
    作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産するプランテーション農業は、
    多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民のインディオを奴隷とした。
    沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気で死んだり、反抗して殺され
    たりした。 このために、インディオに代わる労働力が必要となり、植民者達は、
    アフリカからおびただしい数の黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、サルヴァドールと
    レシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの都市は、アフリカに
    近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

    【お勧めの一品】


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    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、
    ポルトガルの通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、
    アルブケルケは、マレー半島の主要貿易港、マラッカも占領してしまった。
    貿易協定によって、アジアの品物はポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ
    各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、
    アフリカからの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培を
    はじめたポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国には
    ワイン、オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は
    海外の植民地から吸い上げていたのである。

    【お勧めの一冊】


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    残る14世紀の発展は、カスティーヤ王国との戦いが何度かあって、中断の憂き目に
    あった。 やがて、ガリシア、アラゴン、ナバラという新しい王国が、現在の
    スペインの中に形成されたが、カスティーヤ王国は、ずば抜けて大きく、強力な
    権力もあった。

    1383年、アルフォンソ王朝最後の王、フェルディナンド1世が死ぬと、夫人が後を
    継いだ。 夫人は、カスティーヤ王国のもとに嫁いでいる自分の娘に子供が出来る
    まで統治を続ける意向だった。 しかし、人望のある南部の地主で、アビス騎士団の
    団長でもあるジョアンに反対され、ジョアンは強力な軍を使ってフェルディナンド
    女王を追放してしまった。

    これに呼応して、カスティーヤ王国も王位を狙ってポルトガルに軍隊を差し
    向けたが、結局1385年、ジョアンがコルテスでポルトガルの王に選出された。

    ポルトガルにとって、主要な貿易相手国であるイギリスは、このアビス王家を支援、
    1386年、両国間の永久同盟を内容とするウィンザー条約が実現した。 この
    条約は、その後1387年に、ジョアン王がイギリスのフィリッパ妃と結婚する
    ことによって、一層堅固なものとなった。

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    【航海王子エンリケ】

    ジョアンとフィリッパとの間には5人の息子が出来、長男ヂュアルテが王位を継承、
    弟たちのうち、次男はアビス騎士団長を継いだ。 3男は広くアジア、アフリカへ
    航海に出掛け、4男はムーア人の牢の中で死んだ。

    このうち、最も有名なのが、航海に出掛けたエンリケ。 科学と探検を大いに
    奨励し、航海王子として名声を高めた。

    若い時、エンリケは1415年のセウタ攻略でその猛勇ぶりを見せ、ムーア人の要塞で
    北アフリカの貿易中心地でもあったセウタを占領した。 その後引退して、
    ポルトガル南西のサグレスに引っ込んだ。 エンリケは経験、知識に富んだ航海士や
    地図の専門家、数学者などを王室に連れて来て、航海学の向上を図った。
    エンリケはまた、自分の収入を増やすためにも海洋を利用しようと考えたのである。

    エンリケの兄のポルトガル国王は、セウタ攻略での功績を称えてアルガルベ地方
    からの収入を彼に与えた。 これらの資金を基にして、エンリケ王子は航海学校を
    運営した。 また、兄弟の中には、エンリケ王子以外にも広く航海に出て行った
    者もいて、それがまたエンリケ自身にとっての励みにもなった。

    ポルトガルの船乗りたちはリスボンやサグレスから出掛け、まず1419年に
    マディラ、1427年にアゾレス諸島にそれぞれ上陸した。 また、船乗りたちは、
    アフリカ大陸のガンビア川とセネガル川を探検、こうした航海によって、
    ポルトガル人は世界地理への知識を広め、金や塩を手に入れ、そしてアフリカの
    人たちを労働力として確保するようになって行った。

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