横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ポルトガル

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や殖民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が暮らしていた。 北にはアラワク族とカリブ族が、東にはトゥピー・
    グアラニー族がおり、南にはジェー族、西にはパーノ族が住んでいた。 人々は
    豊かな森林で狩りを行い、海辺や川で漁をして暮らしていた。 亜熱帯地方の
    人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、キャッサバ芋を
    栽培していた。

    集落もあり、かやぶき屋根の小さな長屋が集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、
    一家族だけではなかった。 これらブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも
    言われる。 彼らは、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。
    彼らは、工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からかごや壷や装飾品を作っていた。

    【カブラルによるブラジルの発見】
    6d6c8

    【ブラジルの発見と初期の殖民】
    一方、ヨーロッパでは、15世紀に航海と探検の時代が始まった。 航海者たちは、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を探す
    冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民たちは、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人から
    インディオ(スペイン語・ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。 コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルと
    スペインの間に、新しい領土の獲得競争が始まった。

    この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に防ぐため、1493年、法王
    アレクサンディル6世は、ヴェルデ岬諸島の西およそ560キロの大西洋上に南北に
    通る想像上の線を引き、両国の領土境界線とした。 この線から西の全ての
    新しい領土はスペインに、東はポルトガルに帰属することになった。

    両国はこの取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが不満を持ち、境界線を
    1500キロほど西に移すように主張した。 この第二の境界線は、1494年に
    スペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。 この境界線は、
    ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが主権を主張する
    根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督ペドロ・
    アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由してインドに
    行く途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、今の
    バイア州の海岸だった。 彼らは、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は土地譲渡の制度を創設し、領土を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部ではオリンダ
    (レシフェの近く)や、サルヴァドールに、もっと南では、サンヴィセンテ
    (今のサントス付近)に、立派な植民地が誕生した。 1548年、カピタニーアは
    統一され、国王が任命する総督の支配を受けることになり、サルヴァドールが
    首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期、ブラジル北東部を武力で占領し、ポルトガルの
    統治は途絶えた。 1630年、オランダはペルナンブコとオリンダを占領し、
    マラニュン島からサンフランシスコ川下流の流域までの一帯を支配した。 しかし、
    1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、支配権を奪い返した。
    オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いたのは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビのプランテーションを
    作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産するプランテーション農業は、
    多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民のインディオを奴隷とした。
    沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気で死んだり、反抗して殺され
    たりした。 このために、インディオに代わる労働力が必要となり、植民者達は、
    アフリカからおびただしい数の黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、サルヴァドールと
    レシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの都市は、アフリカに
    近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

    483992c

    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

    rekishieu30

    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、ポルトガルの
    通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、アルブケルケは、マレー半島の
    主要貿易港、マラッカも占領してしまった。 貿易協定によって、アジアの品物は
    ポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、アフリカ
    からの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培をはじめた
    ポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国にはワイン、
    オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は海外の植民地から
    吸い上げていたのである。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    残る14世紀の発展は、カスティーヤ王国との戦いが何度かあって、中断の憂き目に
    あった。 やがて、ガリシア、アラゴン、ナバラという新しい王国が、現在の
    スペインの中に形成されたが、カスティーヤ王国は、ずば抜けて大きく、強力な
    権力もあった。

    1383年、アルフォンソ王朝最後の王、フェルディナンド1世が死ぬと、夫人が後を
    継いだ。 夫人は、カスティーヤ王国のもとに嫁いでいる自分の娘に子供が出来る
    まで統治を続ける意向だった。 しかし、人望のある南部の地主で、アビス騎士団の
    団長でもあるジョアンに反対され、ジョアンは強力な軍を使ってフェルディナンド
    女王を追放してしまった。

    これに呼応して、カスティーヤ王国も王位を狙ってポルトガルに軍隊を差し
    向けたが、結局1385年、ジョアンがコルテスでポルトガルの王に選出された。

    ポルトガルにとって、主要な貿易相手国であるイギリスは、このアビス王家を支援、
    1386年、両国間の永久同盟を内容とするウィンザー条約が実現した。 この
    条約は、その後1387年に、ジョアン王がイギリスのフィリッパ妃と結婚する
    ことによって、一層堅固なものとなった。

    20160714

    【航海王子エンリケ】

    ジョアンとフィリッパとの間には5人の息子が出来、長男ヂュアルテが王位を継承、
    弟たちのうち、次男はアビス騎士団長を継いだ。 3男は広くアジア、アフリカへ
    航海に出掛け、4男はムーア人の牢の中で死んだ。

    このうち、最も有名なのが、航海に出掛けたエンリケ。 科学と探検を大いに
    奨励し、航海王子として名声を高めた。

    若い時、エンリケは1415年のセウタ攻略でその猛勇ぶりを見せ、ムーア人の要塞で
    北アフリカの貿易中心地でもあったセウタを占領した。 その後引退して、
    ポルトガル南西のサグレスに引っ込んだ。 エンリケは経験、知識に富んだ航海士や
    地図の専門家、数学者などを王室に連れて来て、航海学の向上を図った。
    エンリケはまた、自分の収入を増やすためにも海洋を利用しようと考えたのである。

    エンリケの兄のポルトガル国王は、セウタ攻略での功績を称えてアルガルベ地方
    からの収入を彼に与えた。 これらの資金を基にして、エンリケ王子は航海学校を
    運営した。 また、兄弟の中には、エンリケ王子以外にも広く航海に出て行った
    者もいて、それがまたエンリケ自身にとっての励みにもなった。

    ポルトガルの船乗りたちはリスボンやサグレスから出掛け、まず1419年に
    マディラ、1427年にアゾレス諸島にそれぞれ上陸した。 また、船乗りたちは、
    アフリカ大陸のガンビア川とセネガル川を探検、こうした航海によって、
    ポルトガル人は世界地理への知識を広め、金や塩を手に入れ、そしてアフリカの
    人たちを労働力として確保するようになって行った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    初期ポルトガルの国王たちは、権力の強化にはローマ・カトリック教会と裕福な
    地主たち支持が不可欠と知って、1211年にアルフォンソ2世は、高位の宗教指導者と
    貴族たちをコインブラに集めた。 これが後のコルテスと呼ばれるポルトガル
    身分議会の始まりである。

    アルフォンソ2世とその後継者、サンチョ2世の時代は、教会と諸王が土地や収入、
    権限を取り合って争い、その結果、ローマ・カトリックの法王は1245年、サンチョ
    2世の王位を与えることを拒否、代って弟のアルフォンソ3世を王位に就かせた。

    227211330

    アルフォンソ3世の下、ポルトガル軍は、アルガルベからムーア人を追い出し、
    ポルトガルの領土を現在の広さにまでしたのだった。 ムーア人はこれで、
    イベリア半島のポルトガル側に持っていた最後の砦を失ったことになる。
    アルフォンソ3世は更に、1253年コルテスを創設し、初めて商人や町人も、
    牧師や貴族と同席出来るようになった。

    ポルトガルは、アルフォンソ3世の息子、ディニス王(1279~1325年)の長い
    時代を通じて繁栄した。 ディニス王は、初めて大学を創設し、農業の開発、
    造船工業の育成にも力をつくした。 漁業と貿易も発展し、外国から金属類や
    武器、繊維がリスボンに入るようになった。 一方、ポルトガルからは、ワインを
    始め、ロウ、みつ、オリーブ油が北ヨーロッパに向け出荷されて行った。

    941346

    リスボンは、その富と重要性から、当然のように新しい首都になり、1298年までに、
    政府の所在地は、コインブラからリスボンに移った。 ところが、1340年代、
    リスボンに停泊中の船の中に居たネズミがペストをポルトガルにもたらすことに
    なり、ポルトガル国民の3人に1人がこの伝染病に掛かって死んで行った。 この
    結果、労働人口の減少から農業生産はガタ落ちとなり、その後数十年もの間、
    政府は、荒地となった農地の再開発に取り組まなければならなかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キリストとイスラムの戦闘が続き、数百年に渡って、両勢力の境界線は常に
    流動的だった。 11世紀半ばの記録によると、ポルトガルはミーニョ川と
    テージョ川の間に位置したキリスト教勢力下の地だった。

    1096年、当時イベリア半島の皇帝を称していたレオン・カスティーヤ王、
    アルフォンソ6世がポルトガルを準独立国にし、自分のムコにあたるフランス人、
    ブルガンティー王国のエンリケにその領土を与えてしまった。 エンリケは、
    その地にローマ・カトリック教会の権限を強化、フランスの修道士を呼び寄せて
    ブルガ、コインブラの宗教区の運営を任せた。

    3884162801

    エンリケが死ぬと、ポルトガルは、その未亡人であるアルフォンソ6世の娘で
    あるテレサの手に任されたが、テレサは父親の友人たちにかなりの権限を与る
    ようなことをしたため、ポルトガル貴族たちの反感をかった。

    そしてついに、テレサの息子、アルフォンソの軍隊を破った。 アルフォンソ・
    エンリケスは、こうしてポルトガルを支配下に置いたが、レオン・カスティーヤ
    新王国でいとこに当たるアルフォンソ7世のなお支配下にあった。

    王子のアルフォンソ・エンリケスは、独立を求めてアルフォンソ7世を相手に
    およそ10年間も戦った。 ところが、ムーア人から領土を取り上げる好機を
    到来と見るや、その戦いをあっさりとあきらめてしまった。 1130年代末の
    ことである。 その頃、ムーア人も内部抗争で領土が分割、ポルトガル南部への
    統治力は弱まっていた。

    アルフォンソ・エンリケスは1140年代、サンタレンとリスボンを攻撃、敗北した
    イスラム側は、貢物として、現金と品物を供出させられた。 ムーア人は、
    領土境界線をテージョ川から最南端のアルガルベまで後退をせざるを得なく
    なった。

    戦いに勝ち、貢物を受けるに連れ、王子の権力はますます強くなり、1139年から
    ポルトガル国王アルフォンソ1世を名乗るようになった。 1143年、アルフォンソ
    1世の即位を正式に認めた。 ポルトガルのアルフォンソ王朝誕生である。

    12世紀半ばまでに、ポルトガルは、コインブラを首都に独立国となった。 しかし、
    ムーア人の脅威は去らず、1185年までのアルフォンソ時代を通してイスラムとの
    戦いは続いた。 その後、息子のサンチョ1世が後を継ぐと、ムーア人と戦い、
    貿易と農業が盛んになって行った。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

    fd9833980

    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

    【お勧めの一冊】

    >>トップページも戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    700年代はじめに、西ゴート勢力内部分裂を起こし、反乱派は、北アフリカから
    戦術に長けてい軍隊を呼び寄せ、西ゴートを統治していたロデリック王に対して
    謀反を起こした。 この反乱軍がムーア人と呼ばれ、アラブ人とバーバル人の
    混成である。 彼らの宗教は、イスラム教と呼ばれる一神教で、アラビアで
    生まれ、後にイスラム教として知られるようになった。

    このイスラムによる、イベリア半島侵攻がスペインで始まったのが711年。
    ムーア人はロデリック王の軍隊を蹴散らし、王は戦死した。 侵攻したムーアの
    軍は北アフリカには帰らずに、コルドバやトレド(現在はスペインの都市)など
    豊かな街を次々と占領して行った。

    376919559

    ロデリック王を倒した西ゴートの反乱勢力もムーア人の進撃を阻止出来ず、18世紀
    半ばまでに、北部の山岳地帯を除くイベリア半島の大半がムーア人の支配下に
    入った。

    ポルトガル北部のカトリック教徒たちは、イスラム教のムーア人たちに抵抗した。
    キリスト教軍は、侵攻して来たムーア人を50年以内にドウロ川の南に追いやり、
    現在のポルトガルにあたる街とその周辺の領土を取り返した。

    11世紀半ばまでには、キリスト教軍は更に、コインブラの南にまで勢力を広げて
    行った。 貴族達はこうして、スペイン北部の広大な土地も含めてキリスト教の
    勢力下におさめた。 ポルトガル、および、コレインブラ周辺の一帯は、
    ガリシア地方として、レオン・カスティーリャと呼ばれる北イベリア王国の
    領土になった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    紀元前3世紀、当時の北アフリカの主要な通商国家カルタゴ(現在のチュニジア北東部
    沿岸、半島の先端につくられた都市国家)から、貿易商人や軍隊がポルトガルにやって来た。
    これらの新参者たちは、ポルトガルの南岸に拠点をつくり、地元の住民を相手に商売を
    はじめ、沿岸地域はこれらの貿易商人たちによって支配されるようになった。

    カルタゴ人たちは、ポルトガルの北にまで足を伸ばさなかったが、ハンニバル将軍は、
    戦いにルシタニア人たちを借り集めた。 ハンニバル将軍は、地中海を舞台に通商権を
    求めてローマ共和国と戦った。 紀元前218年、ハンニバル将軍は、軍を率いて現在の
    スペイン、フランスを超え、イタリアのローマ軍の前に現れ、交戦した。 紀元前201年、
    ハンニバル将軍が敗北すると、カルタゴはイベリア半島をローマ共和国に奪われた。

    hannibal01

    【ローマの支配】

    ローマの軍隊は、ポルトガル南部をおさえた。 当時既に、この辺りはヨーロッパとの
    貿易が盛んで、外国の影響に慣れていたポルトガル南部の人々は、ローマによる支配を
    安易に受け入れた。 しかし、ポルトガル北部では、攻防戦が繰りかえされてローマ軍に
    よる征服が遅れた。 紀元前2世紀、ローマ軍は北進してルシタニア人と戦ったが、地元の
    抵抗が強く、ローマ軍側は、しばらく進軍を阻まれていた。 しかし、紀元前139年、地元の
    指導者が戦いに敗れると、抵抗は弱まった。

    紀元前1世紀、ローマ軍はついにイベリア半島を征服して政府を樹立、港や基地の町を
    次々と造って行った。 現在のポルト、リスボン、ブラガなどの街は、いずれも当時建設
    された都市で、新政府は道路を延ばし、大規模な農場を作り、ローマの法律を適用した。
    地元の人々は、ローマの言語であるラテン語を採用、ローマ人の衣服を身に付け、
    ローマの習慣を取り入れて行った。 ローマ宗教の神々への信仰も広まった。

    紀元前27年、ローマ人はイベリア半島を三分割した。 現在のポルトガルの大半は、
    そのうちのルシタニア地方に相当する。 当時、このルシタニア地方の代表的な都市は
    アウグスタ・エメリタ(現在のスペイン・メリータ)だった。 4世紀までに、宣教師たちに
    よってルシタニアにキリスト教が伝えられたが、このキリスト信仰は、その後、ローマン・
    カトリックと呼ばれ、ローマ帝国東部に発祥したものである。 カトリック司教たちは当時、
    オッソノバ(現在のファロ)やアウグスタ・エメリタを本拠地にしていた。

    【ゲルマン侵攻】

    ローマのルシタニア統治は5世紀まで続いた。 ゲルマン民族によるイベリア半島攻撃が
    始まっったのである。 ゲルマンのさまざまな集団がそれぞれ別個に攻め入っては
    領土を征服して行った。 例えば、ルシタニアを抑えたのは、アラン、ガリシアに侵攻した
    のはスエビ、ポルトガル南部とスペイン南部はバンダル、といった具合に。

    しかし、これらの領土支配は長続きせず、6世紀半ばには、ゲルマン系のスエビ人が
    アランとバンダルを占領してしまった。 その後、間もなくゴート人と呼ばれる別の
    ゲルマン人集団が侵攻し、今度はスエビ人を倒して、585年までにスエビ王国を西ゴート
    王国に併合してしまった。 こうして、西ゴート王国がイベリア半島のローマ人の領土の
    大半を支配下におさめ、ゲルマン法による統治体制を敷いたのである。 選挙によって
    対抗する派閥勢力も生まれ、6~7世紀に掛けて互いに覇を争った。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。 かつては
    1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土にそれぞれ分かれた
    ところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が住んでいたことが分かっている。
    ポルトガル西部の古代の塚からは、陶器類や武器が発見されている。

    560102

    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、北アフリカや地中海
    東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり着くと間もなく、小さな集団ごとに
    分かれて、ポルトガルの各地方に散って行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と
    呼ばれた遊牧や農業を営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別のグループが
    集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから自分の村むらを守って
    戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人たちは、北ヨーロッパのケルト人
    たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。 ケルト人たちは、
    金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルにもたらした。 ケルト人と
    ルシタニア人は、数百年に渡って結婚により血を分け合い、外界とほとんど接触
    しなかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    他のヨーロッパ諸国に比べて、ポルトガルは人口が少なく、1058万人となっている。
    そのうち30%は、リスボン、ポルトなどの都市部に住んでいる。 地方は、農漁村で、
    それぞれ近くには中規模の市場が開かれている。



    【リスボン】


    大西洋岸に位置し、ポルトガルの首都、かつ最大の都市。 ポルトガルの主要港
    でもある。 リスボンの人口は、約80万7,000人で、周辺を含めた首都圏には、
    約200万人が住んでいる。 丘の斜面には新旧さまざまな建築様式が見られる。
    市の中心部には、広い18世紀時代の広場に面して近代的なビルが立ち並ぶが、
    1988年の大火で焼けたものもある。

    リスボンはその長い歴史を通して、多くの征服者たちが到達したところでもあった。
    ローマの軍隊や北アフリカからやって来たムーア人にリスボンを占拠されたことも
    ある。 1100年代にポルトガルは、このムーア人たちからリスボンを取り戻し、
    約150年後に、リスボンはポルトガルの正式な首都になった。

    15~16世紀には、ポルトガルが世界の探検と植民地化を進めた時代で、冒険家
    たちはリスボンの波止場から世界各地へと航海の旅に出て行った。 リスボンは、
    そうして海外へ築き上げた広大な帝国の中心地となった。 1775年、リスボンは
    地震で崩壊し、地震後に起こった津波と火災で更に大きな被害を受けた。 よって、
    リスボンの建物には、首都が再建された18~19世紀以来のものが多い。

    第二次世界大戦(1939年~1945年)以来、リスボンは港を広げ、製油所や貯蔵
    施設、造船所、修理工場、その他の産業コンビナートを作っていた。 ポルトガルの
    工業製品の多くは、このリスボン港から世界に出荷されて行ったのである。

    lisboa44

    【地方の中小都市】

    ドウロ川沿いのポルトは、ポルトガル北部の代表的な港町で、工業の中心地。
    首都リスボンに次ぐ大きな都市で、人口32万7,000人を超えている。 広域では
    約15万人が住んでいる。 1700年代以来、ポルトは、イギリスのワイン商人相手に
    貿易をし、ポートワインの生産、出荷の中心地となって来た。 ドウロ川沿いにざっと
    80軒のワイン貯蔵庫が立ち並んでいる。 更にポルトには、食品加工、石油精製、
    繊維加工、タイヤ、陶器類の製造など、各種工場が集まっているポルトガルの一大
    工業地となっている。

    リスボンの南、半島になった沿岸には、港町、セトゥーバル(人口約7万8,000人)が
    あり、セトゥーバル湾への出入口として栄えている。 この湾には、サド川が流れ込む。
    1966年には、この半島とリスボンを結ぶ橋が完成し、そのお陰でセトゥーバルにも
    何種類かの重要な産業が発展した。 造船施設、魚の缶詰工場、その他の企業が
    年中、忙しくしている。 毎朝、船体を明るい色に塗ったパトロール船が港に戻って
    来ては、採って来た魚で地元の魚市場はひとしきり賑わう。

    中西部、モンデゴ川沿いにあるコインブラ(人口約7万4,000人)は、歴史にとんだ街で、
    ローマ人によって造られたが、11世紀までは、ムーア人に占領されていた。 12~
    13世紀の間は、ポルトガルの首都になり、権力を持ったローマ・カトリック司祭の
    所在地でもあった。 ポルトガル最古の大学、主な図書館や美術館があるのも、
    このコインブラとなっており、歴史関係の建築物が市内に散在している。 小規模
    ながら、産業もあり、地元の人たちの仕事になっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

    e227c65

    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと遠く
    航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化もなく、
    国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模ながら、
    家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、コルクを
    作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との輸出入
    貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

    fportugal

    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思っている
    人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ不安が
    残っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポルトガル語は、イタリア語やフランス語と同じロマンス語系統の言語で、
    イベリア半島では、ガリシア語やスペイン語と国境を接している。 ガリシア語
    とは近い関係にあり、少し離れたスペイン語でもネイティブ同士であれば、
    相互理解可能な言語となっている。

    4f135ae2e

    他のロマンス語に比べ、ポルトガル語は、仮定表現の条件説に、接続法未来形が
    依然として残っていることや、フランス語やイタリア語で顕著である複合過去が
    発達せず、ラテン語の完了形に起源する単純系を過去の表現に使い続けている
    ことなどが特徴として挙げることが出来る。

    また、不定詞に統語上の主語に対応する人称語尾が付いた人称不定詞と呼ばれる
    形式は、近隣のロマンス語には見当たらない珍しい特徴となっている。

    Vou preparar umas sandes para voces levarem.『君達が持って行くようにサンド
    ウィッチを用意しよう』という文では、para(~のために、前置詞)、voces
    (君達、主語代名詞3人称複数)、levarem(原型の不定詞levarに3人称複数の
    人称語尾emが付いたもの)という構成で、『誰が持って行く』のかという点を
    強調した文にすることが出来る。

    同じ内容をVou preparar umas dandes para que voces levem.として文接続詞の
    queを挿入し、動詞をlevem(接続法現在3人称複数)にして従属文を用いた表現
    にも出来るが、後半部分をpara levarと語尾なしの不定詞にしてしまうと、単に
    テイクアウトの意味にしかならない。 人称不定詞は、法と時制と人称(と数)を
    備えた動詞の定形とそれに関して中立的な不定詞の中間に位置するもので、
    準定詞と呼ぶべきであるという主張がある。

    音声面では、鼻母音の多いことが特徴で、5つの単鼻母音の他に、ポルトガル語に
    特有の二重鼻母音(ポルトガルで4つ、ブラジルで5つ)がある。 音節の構造が
    比較的単純で、日本人には学習しやすい言語と考えられているが、実際には、
    無強勢母音の弱化現象をはじめとして、聞き取りが難しい他、日本語の音体系から
    来る干渉もあり、日本人には致命的な落とし穴が少なくない。



    【ポルトガル語の古今】
    ポルトガル語が話されるようになる地域が独立して歴史に姿を現すのは、
    1096年で、この年、レオンとカツティーリャの王アルフォンソ6世が、
    ブルゴーニュの騎士エンリケにポルトガル北部かあコインブラ辺りまでを
    伯爵領として譲渡した。 レコンキスタと呼ばれるイスラム教徒側に対する
    キリスト教の側からの国土回復戦争を通じて、南に領土が拡大する中、
    エンリケの子、アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王(1143年~)
    となる。

    当時の言語で書かれたテキストが現れるのは12世紀後半だが、この頃の
    ポルトガル語は北のガリシア語との区別がまだはっきりとせず、書き言葉も
    ラテン語が主体だった。 ポルトガル語が現在の形となって来たのは、国の
    中心がリスボンからコインブラ辺りの中南部に移り、ルネッサンスの影響を
    受けて、言語規模が徐々に確立して行く16世紀になってからである。

    1572年に出版された長編叙事詩の『ルタニアの人々』は、ギリシャやローマの
    古典的作品に範を取りながら、バスコ・ダ・ガマのインド航海やポルトガルの
    歴史を優雅な文体で詠いこんだもので、古典期のポルトガル語が結晶した
    ものと言える。

    この頃、ポルトガル語は、アフリカ沿岸からインドやアジアに至る広い地域で
    通商目的に用いられており、日本が最初に直接接触したヨーロッパの言葉でも
    あった。 日本人でポルトガル語を最初に習得したのは、フランシスコ・
    ザビエルの通訳を務めた鹿児島の弥次郎(生没年不明)と言われている。
    1822年にブラジルが独立した後もポルトガル帝国の版図はアフリカからインド、
    中国のマカオまで広がっていた。

    1974年にクーデターで本国の独裁政権が打倒され民主化した後、アフリカの
    旧植民地は独立したが、公用語にはポルトガル語を採用している。 アフリカ
    諸国では、ポルトガル語はますます普及する傾向にあり、アンゴラのポルトガル語、
    モザンビークのポルトガル語という変種が認められるのもそう遠くはないのかも
    知れない。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ