多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ポラニエ人

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ポラニエ人は最初、およそ20の共同体を作って定住していたが、やがて
    ヴィスワ川とオドラ川流域の盆地に新しい都市を幾つも作った。 そのうち、
    南のクラクフと西のポズナニ近くに、比較的大きなポラニエ人国家が建設された。

    バルト海沿いには、交易の中心地も出現した。 ポラニエ人達は、堅固な城を
    築いて、ドイツのカトリック系十字軍からの攻撃を防いだ。 十字軍は、
    宗教戦士の集団で、スラブ人を力ずくでカトリック教に改宗させようとしていた。

    je09051

    この侵略に対抗して、ポラニエ人達は、9世紀半ばにピアストの下に集結した。
    ピアストは、ポーランドの民話や伝説に登場する民族の英雄である。 10世紀
    までにピアストの一族は、平原部や湖沼地域、それにバルト海沿岸に掛けての
    地域の人々を支配下に治めた。 966年、ミエシュコ1世は、初代の
    ポーランド公として、ポズナニに近いグニエズノを国家の首府と定めた。

    ミエシュコは、ドイツ系十字軍からの攻撃を止めさせるため、現在のドイツに
    あった神聖ローマ帝国と同盟を結んだ。 ミエシュコは、また南方のスラブ人
    国家チェコとも同盟して、そこの王女と結婚した。 そして、新妻の宗教である
    キリスト教に改宗して、伝道師をポーランドに招いた。

    1025年、カトリック教会の指導者であるローマ教皇は、ミエシュコの息子で
    後継者のボレスワフ1世に王冠を授け、ポーランドが主権国家であることを
    公式に認めた。 ポーランド人達は、カトリック教会で使われているラテン文字を
    取り入れて、自分達の話しているスラブ系のポーランド語を記録し始めた。

    BorderPoland

    ボレスワフ1世は、勇敢で野心的な支配者で、ドイツに攻め入り、また、王国の
    領域を東のドニエプル川流域まで広めた。 この川は、南のウクライナに流れて
    黒海に注ぐ。 こうして、ドニエプル川を通じてポーランドは、黒海の諸港と
    交易が出来るようになり、王国はますます繁栄した。

    同じ頃、教会の指導者間の争いが基で、ヨーロッパのキリスト教世界は、2つに
    分裂した。 11世紀には、東ヨーロッパにギリシャ正教会が創設され、
    コンスタンティノープルが中心地となった。 ヨーロッパ東部のスラブ人達の
    多くは、ギリシャ正教徒となったが、ポーランドとチェコは、ローマ教皇と
    結んで、カトリック教会内に留まった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

    img1110

    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ