イワン4世が没した時、息子が2人居た。 長子のイワンは、雷帝が崩御の2年前、
自ら自殺してしまった。 次男のフォードルが帝位に就いたが、生来の病身で
知能の発達が遅れていた。 政治の実権を握ったのは、ツァーリの后の兄に当たる
ボリス・ゴドゥノフである。

ボリスは、有能な政治家で、総主教座を創設して、ロシア正教会の地位を向上
させたり、モスクワの城壁を2重、3重に固めたりするのに成功した。 そして、
結局フョードルが子を残さずに世を去ってリューリク王朝が断絶した時、周囲に
推される形でボリス自身が1599年にツァーリの位に昇った。

しかし、ボリスの正当性に疑問を抱く者が少なくなかった。 フョードルの皇子が
8年前に不審な状況の中で変死を遂げていたからである。 ボリスの差金で暗殺
されたのだという噂が立った。 1601年から1603年に掛けては、凶作が続き、
飢餓民が村や町に溢れた。 モスクワにも施しを求めて数万人が押し掛けたので、
ボリスは救貧院を市内の数カ所に設けたが、対応し切れなかった。 国内の治安が
極端に悪くなった。

KREML

折も折、ドミトリー皇子と名乗る人物がポーランドに現れた。 先年亡く
なったのは、別人で、自分こそ雷帝の血を引く帝位の後継者であると主張
したのである。 本当は、クレムリンの中のチュードフ修道院から逃げ出した
グリゴリーという元修道士だったため、歴史上は、偽ドミトリーと呼ばれている。

偽ドミトリーは、ポーランドの有力貴族の支持を受けてロシアに攻め込んで来た。
やがて、国内では、元農奴のボロトニコフが下層民や辺境のコサックから成る
反乱軍を組織してモスクワに迫って来る。

戦闘が始まる前にボリスは急死し、その息子のフョードルは殺された。 代わって
偽ドミトリーがポーランド軍を率いてクレムリンに入ったものの、万事カトリック
風に振る舞うため人気がなく、翌年の1606年には、モスクワの民衆が暴動を
起こして、彼を殺してしまう。 こうした中で、名門貴族の家柄のワシリー・
シュイスキーが新たにツァーリに選ばれたものの、騒ぎは一向に収まらなかった。
偽ドミトリー2世が現れたり、ポーランド王やスウェーデン王がロシアに軍隊を
派遣してロシアの西部や北部地方を荒らし回ったりした。

ボロトニコフの乱は何とか鎮めたが、コサックの部隊は、各地に出没して乱暴
狼藉を働いた。 ボリス・ゴドゥノフの即位に始まる大動乱に終止符を打ったのは、
1612年にミーニンとポジャールスキーが組織した『国民軍』だった。 民衆の
中から自発的に作られたロシア人の軍隊が、モスクワをポーランド軍の手から
奪い返すことに成功した。 ミーニンは、モスクワの東にあるニージニー・
ノブゴロドの町の長老で、職業は、肉屋であった。 一方、ポジャールスキーは、
戦闘の経験を積んだ中級貴族であった。 彼等は、今でも祖国の危機を救った
英雄として尊敬されており、2人の銅像が赤の広場の聖ワシリー大聖堂の前に
建立されている。

pozdnee

混乱が収まったモスクワで、新しいツァーリを選ぶ全国会議が開かれた。 全国約
50の都市と国民軍の代表の他、コサックや農民を含めた5,000人から成る大会議で
あった。 ポーランド王の息子やスウェーデン王の弟のカール・フィリップも候補に
挙がったが、最終的に選出されたのは、16歳のモスクワ貴族ミハイル・ロマノフで
あった。 ロマノフ家は、イワン4世の最初の妻で民衆の間で人気のあった
アナスタシアの実家であり、ミハイルの父のフョードルは、ポーランドで抑留されて
いた。 こうして、ロシア革命まで300年余り続くロマノフ王朝が発足した。

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