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    タグ:ボヘミア

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    独立したチェコスロバキアは、ボヘミア王国の領土ボヘミアとモラビアの他、
    スロバキアと更に東に位置するルテニアも領土とした。 新国家は、ドイツ人、
    ハンガリー人などの少数民族が住む多民族国家であった。

    チェコスロバキアは、1920年に二院制議会を設立する憲法を採択した。
    マサリクが努力した、チェコとスロバキアそれぞれの政府を持つ連邦国家は
    実現しなかった。 選挙民に人気が高いマサリクは、1920年、27年、34年の
    大統領選挙で勝利をおさめた。

    同じ頃、議会各政党の議員数はしのぎを削っていた。 農民党は、農民を代表し、
    国営農場、国営企業を主張する共産党は、社会党に属していたが、1921年に
    独立した党となった。

    チェコスロバキア経済は、戦後の景気回復の恩恵を受けていたが、国内の
    民族間の問題はまだ解決していなかった。 スロバキア人は独立を求めていた。
    ハンガリー人は政府に忠誠心を持たなかった。 全人口の4分の1を占める
    ドイツ人は、ドイツとの結び付きを求めた。

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    ドイツ人の多くは、ポーランドとの国境にあるズデーテン山脈の麓に住んで
    いたことから、ズデーテン・ドイツ人と呼ばれ、住んでいた地域は総称して、
    ズデーテン地方と呼ばれた。

    チェコスロバキアの独立後、ドイツ人は、議会各党に代表を送るようになった。
    マサリク政府は、土地の所有を制限する土地改革を行い、大地主から土地を
    国が買い取り、農民に再分配した。 新しい税制改革も導入した。 多少の
    不満があるにせよ、大部分のドイツ人は、民主的なチェコスロバキア政府を
    支持していた。

    1930年代はじめに、世界規模の経済不況が広がり、深刻な不景気と失業に悩む
    隣国ドイツの不安が、チェコスロバキアにも影響を与えた。 ヒトラーが政権を
    取った1933年頃、民族戦線ズデーテン・ドイツ党が、チェコスロバキア議会に
    議席を持つようになり、ドイツ人が不当に差別されているという口実で、
    ヒトラーと結託しはじめた。

    ヒトラーは、ユダヤ人と共産主義は、ドイツの経済と政治を妨げるので、
    ユダヤ人、スラブ人などを絶滅して、ヨーロッパにドイツ民族国家を建設
    すると主張した。

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    【併合と占領】
    ドイツがオーストリアを併合した1938年春から半年後の9月、イギリス、イタリア、
    フランスは、戦争を避けるために、ヒトラーとミュンヘン会談で合意を結び、
    住民の半数以上がドイツ人であるチェコ領土を、ドイツが併合する許可を与えた。
    ドイツは280万人のドイツ人と75万人のチェコ人が住み、チェコ全国土の38%に
    あたるズデーテン地方を併合し、チェコ人は立ち退かされた。

    ドイツは、エドアルト・ベネシュ大統領に辞任を迫り、エミル・ハーハが後を
    継いだ。 ヒトラーは更に、ドイツ軍の兵器工場として、チェコスロバキアの
    占領を狙った。 ドイツとの衝突を避けるため、ハーハは、スロバキアと
    ルテニアの独立に同意した。 しかし、1939年3月、ヒトラーは、ボヘミアと
    モラビアの占領を宣言した。

    チェコスロバキア軍の抵抗もなく、ドイツ軍は容易にプラハへ侵攻した。
    ドイツはチェコスロバキアの工業を支配し、ボヘミアとモラビアはナチス・
    ドイツに占領された。

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    フランス革命のヨーロッパの人々に、社会変革に参加する勇気を与えた。
    1840年になると、チェコ人の作家や指導者たちは、政治改革とボヘミア、
    モラビア内部にあるドイツ権力に終止符を打つことを求めた。 パラツキーは、
    ボヘミア王国の歴史と文化を呼び覚ます『チェコ民族の歴史』を書いた。
    公立学校では、チェコ語を教え、詩人、作家、ジャーナリストはチェコ語で
    文章を書くようになった。

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    パラツキーは、有力な政治的指導者となり、1848年末、プラハ、ウィーンを
    はじめ、ヨーロッパ諸都市で革命が起こった。 しかし、ハプスブルグ皇帝、
    フランツ・ヨーゼフはスラブ民族会議の提案を拒否。 ハプスブルグ軍は、
    プラハの革命を鎮圧し、ボヘミアとモラビアに戒厳令を敷いた。 180年代に
    入ると、ボヘミア王国領であるボヘミアとモラビアは、オーストリア帝国に
    取って代わったオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入された。

    1800年代終わり、ボヘミアとモラビアに住むドイツ人と、チェコ人との間の
    長年の対立が深まっていたが、政府は、帝国内の諸民族の平等の権利を打ち出す
    政策を採り、チェコ人のためにチェコ語で法律を書くようになった。

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    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

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    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。
    東ハンガリー地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの
    侵略から守るために、西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝
    フェルディナントを国王に迎えた。 結果、強大なハプスブルグ王朝の一員である
    フェルディナントは、ハプスブルグの支配をスロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダから
    ブラチスラバへと移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、
    更にトルコのスルタンから課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ
    移り住んだ。 彼らは、トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、
    奴隷として拘束され、ハンガリー人の領地に残った。

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンの
    フリードリヒ大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。
    ハプスブルグ政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が
    進み、チェコ人もオーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の
    文化は息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、
    鉱業などの新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで
    経済力を高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も
    進んだ工業地域となった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。
    ボヘミアのプロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、
    チェコ人がチェコ語の新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。
    15世紀末以来、はじめてチェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、
    チェコの農民は農地と故郷を離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での
    仕事が、土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、
    フランス王朝を崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を
    握る、共和政府樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。
    ハプスブルグ家をはじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に
    及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに
    侵攻した。  彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)
    の戦いでハプスブルグ軍を破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は
    1806年に崩壊し、オーストリア帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、
    モラビア、ハンガリー、ポーランドとイタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    9世紀の終わりに、中央アジアからマジャール人が、大挙してヨーロッパに侵入
    して来た。 マジャール人は、906年にブラチスラバでスラブ人を破り、
    大モラビア帝国を滅亡された。 戦いの後、現代のハンガリー人の先祖である
    マジャール人は、スロバキアの都市や街を占領した。 一方、ボヘミアと
    モラビアは、ドイツの諸侯と同盟を結んだ。

    スロバキアの支配者となったハンガリー人は、村や都市を占領し、南の平原の
    彼方から指令を発して支配した。 スロバキアは今や、ハンガリー王国に属し、
    スロバキアの鉱山収入の権利はハンガリーに奪われた。

    大部分のスロバキア人は、法的に自由のない労働者、すなわち、農奴となった。
    マジャール王は、スロバキア人の奴隷を所有財産とみなし、貿易と鉱業で王や
    貴族は富を蓄えた。

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    1217年に、ハンガリー人支配者は、ブラチスラバをハンガリー王家から独立した
    都市として認める勅令を出した。 ドナウ川の通交税でブラチスラバは潤い、最も
    豊かな商業の中心地となった。 しかし、1241年にドナウ川流域は、東アジアから
    来たモンゴル遊牧民族の残忍な侵入に悩まされた。 モンゴル人は、中央
    ヨーロッパの街を焼き払い、略奪の限りをつくし、翌年撤退した。

    モンゴル人侵略の後、ハンガリー人は東から最侵入を防ぐ決心をした。 多くの
    地主は、中央スロバキアの川に沿った平野に要塞を建設した。 東スロバキアの
    人口のまばらな平野の守りを固めるため、ハンガリー王は、北ドイツから
    サクソン人を招いて、この地方に新しく建設した街に定住するよう求めた。
    国王は、コシツェに王発令の営業許可を与えた。 同時に24の新しい街と
    鉱山の街にも認可を授けた。 この許可のお陰で、鉱業と手工業から利益を上げる
    商人や、手工業者、貿易商などの豊かな階層の人たちが生まれた。

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    ドナウ川沿いの交易は、スロバキアにも、中央ヨーロッパ諸国にも大きな
    利益をもたらした。 ボヘミア王国オタカール2世は、兵力をスロバキアに進め、
    領土を地中海の内科医であるアドリア海まで広げた。 しかし、1278年、
    オタカールは、隣国オーストリア公国の統治者であるハプスブルグ家の
    ルドルフと戦って死んだ。 戦いの後、ハンガリーは、ブラチスラバと
    西スロバキアの支配権を取り戻した。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア
    国王として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。
    ボヘミアのチェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実な
    フェルディナンドは宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を
    鎮圧した。 ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】
    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックと
    プロテスタントの対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守る
    フェルディナンド2世が、1617年にハプスブルグ王家を継いだ。
    フェルディナンドは、プロテスタントを領地から一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、
    チェコ人の反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、
    ハプスブルグに対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦で
    チェコ軍を破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから
    追放された。 ビラー・ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックと
    プロテスタントの国々の間で三十年戦争が始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、
    ドイツ、デンマーク、スウェーデンからプロテスタント軍がボヘミアに侵入した。
    相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、街、農村は根こそぎ破壊された。
    フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ追放し、ボヘミア
    議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア
    王国領ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放された
    チェコ人貴族の領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人
    カトリック教徒の手に渡った。 ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、
    ドイツ語が政治、教育の公用語となった。

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    9世紀の始めにスラブ人の領主モイミールは、西スロバキアからモラビア
    (現在のチェコの東部)に掛けて新しい国、大モラビア帝国を樹立したが、
    ボヘミア(現在のチェコの西部) 、ポーランド、ハンガリーの一部も
    支配下に治めた。 ブラチスラバとニトラは、帝国の政治、経済の中心と
    なった。 833年にニトラの貴族プリビナは、西スラブ人定住地域に、初めて
    キリスト教の教会を建てた。

    大モラビア帝国の支配者は、その規模と実力に自信を持っていたが、それでも、
    西に位置する更に強大なドイツ諸国の侵略を恐れていた。 ドイツ諸侯は、
    ローマからの伝道者によって洗礼された後、キリスト教徒となっていた。
    ドイツ諸国は、ローマ・カトリックの首長であるローマ教皇と同盟を結んでいた。

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    モラビア帝国支配者であったラチスラフ公は、ドイツの影響に対して、人々を
    改宗するために、東のキリスト正教会の中心地コンスタンティノープルから
    伝道者を招いた。

    863年にキリルとメトディウス兄弟が、東方正教会の布教にやって来た。
    キリルとメトディウスは、スラブ語で布教し、アルファベットから新たに
    グラゴール文字を作り出し、キリスト教の教義をスラブ語に書き換えた。
    スラブ語を使った布教活動で、ボヘミア、モラビア、スロバキアのキリスト教
    伝道が進んだ。

    しかし、ラチスラフの甥であるスヴァトプクは叔父を裏切り、ドイツの諸侯と
    手を結ぶため、ラチスラフを幽閉し、大モラビア帝国を西ローマ教会に帰属
    させた。 ローマ教皇は、ニトラにドイツ人の司教を送り込み、ニトラは、
    帝国の文化と宗教の中心となった。 他のヨーロッパ諸国でもキリスト教が
    受け入れられていたので、間もなく西ローマ教会は、ヨーロッパ大陸の財力と
    権力を誇る組織となった。

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い
    定住者が確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、
    前史時代にわずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の
    洞窟にも人間が居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り
    住んで来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に
    要塞の町を築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地で
    ドナウ川を横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。
    ボイイは、スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の
    大規模な侵略に悩まされた。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森から
    やって来た。 チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを
    破り、スロバキアにあったケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や
    他のチュートン人が、ドナウ川流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いた
    フランク人は、南ヨーロッパを支配していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】
    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、
    チュートン人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、
    川に沿っていくつかの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南に
    ある首都ローマから統治するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ
    帝国は、ローマを首都とする西と、コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に
    分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ
    平野から追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系の
    アヴァール人がスロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、
    何千というスラブ人がやって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通って
    スロバキアの平野になだれ込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェ
    という小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住
    していたチェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、
    皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。
    スラブ人のリーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。
    アヴァール人を破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、
    637年のヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、
    支配することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。
    その後2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。
    各地で衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な
    中央政府がないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大の
    ために戦った。

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    1300年代頃、ボヘミアの宗教指導者は、カトリック教会と法王の、膨大な
    権力と財力に疑いを抱くようになった。 ボヘミアのカトリック聖職者の多くは、
    宗教改革運動に賛同した。 チェコ人は、聖職者を支持したが、ボヘミアにいる
    殆んどのドイツ人は、法王を支持した。

    1378年のカレル4世の死後、チェコ人とドイツ人の間に衝突が起こった。
    プラハ大学総長ヤン・フスは、法王の権威に反抗した。 フスは、チェコ人に
    とって、神聖ローマ帝国とドイツ権力からの解放の象徴であった。 しかし
    1415年、カトリック側は、フスを捕らえて裁判に掛け、火あぶりの刑に処した。

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    フス処刑は、その後20年におよぶ宗教と民族戦争の切っ掛けとなった。
    チェコ人のフス派(ヤン・フス支持派)は、カトリック教会派に対して、
    プラハをはじめ、各地で戦った。 フス派軍を率いたチェコ人将軍ヤン・
    ジシュカは、ドイツの街や修道院、教会を破壊した。 ジシュカの戦闘が
    原因で沢山のドイツ人がボヘミアから逃げ出した。

    ローマ法王は、ボヘミアを異教徒の地と見なして、十字軍をボヘミアに向かわせた。
    十字軍を率いたのは、ハンガリー王であると同時に、ボヘミアの王位を継ぎたいと
    望んだシギスムンドである。 しかし十字軍は、優れた戦略家のジシュカの軍に
    敗れた。

    数年間、ボヘミアでは、激しい戦闘が続き、ボヘミアの王位は事実上、空白と
    なった。 あまりに酷い破壊に、フス派内部は戦闘的な急進派と、平和主義の
    穏健派に分かれた。 フス派の分裂を利用して、穏健派と組んだローマ法王は、
    急進派を一気に破った。

    戦争と破壊に失望したボヘミアの人たちは、1458年に穏健派の指導者である、
    イジー・ポジェブラドをボヘミア王に選び、法王と和解しようとした。 イジー
    王は、後継者もなく1470年に亡くなった。 その後、ポーランドから国王を
    迎えたが、王の力は弱く、権力ある土地貴族は、都市や農村に支配権を及ぼした。

    1487年に土地貴族たちは、農奴制をつくり、この制度の下、チェコ人の農民は、
    領主の合法的な所有物として土地に縛りつけられた。

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    1037年のヴラチスラフの死後、プシェミスル家は、ボヘミアの王冠を取り戻した。
    王家の争いを終わらせるために、ブレティスラフ王は、勅令を発布し、一家の
    最年長者だけが王位を継承する宣言をした。 ブラティスラフはまた、ドイツ人の
    ボヘミアへの移住を奨励した。 国王は、都市の外国商人と手工業者層を強化して、
    地方の領主達の力を弱めたいと考えた。

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    ドイツ人移住者は、主にボヘミアの西部と北部一帯に定住した。 ボヘミア王国は、
    ドイツ法を取り入れて、ドイツの諸都市と交易を続けた。 ドイツの影響力を強める
    ために、神聖ローマ帝国は、ドイツ人の教会関係者をボヘミアに送り込んだ。
    やがて彼らは、教会で支配的地位を占め、チェコ人との争いの原因を作った。

    13世紀になると、プシェミスル家の国王オタカル2世は、領土を南に広げ、
    ハプスブルグ家のルドルフと、神聖ローマ帝国皇帝の地位を争って、オーストリアを
    征服し、バルト海沿岸にまで及ぶ広大なボヘミア王国を築いた。 オタカル2世は、
    ルドルフとの戦いで1278年戦死した。

    1306年、ボヘミアのプシェミスル家は、突然に断絶した。 1310年、
    プシェミスルの王妃と結婚していたルクセンブルグのヤンが、ボヘミア王を
    名乗ったが、ヤンの時代に王国内部は荒廃した。 しかし、ヤンを継いだカレル
    4世は、プシェミスル家の国王としての自覚が強く、ボヘミア王国の黄金時代を
    築き上げた。 カレルは、巧みな外交政策で王国を拡張し、ボヘミア、モラヴィア、
    シュレジア(現在のポーランド南部)の3地方は、それ以後、ボヘミア王国の
    伝統の地と総称された。

    カレル4世は1355年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて、ボヘミア王国の首都
    プラハは、今や帝国の首都として建物や橋、大聖堂、教会などが次々に建造された。

    プラハ城もボヘミア王の居城として作り変えられ、1348年に、プラハ大学が学問の
    拠点として創設された。 カレル4世は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の
    選挙候(ボヘミア、ケルン、マインツなど)を規定した金印勅令を発布し、選挙候の
    ひとつボヘミア王国は、中央ヨーロッパで最高権力を持つ国となった。

    【チェコお勧めの一冊】


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    2016年9月29日(木)~10月1日(土)まで、東京駅前のKITTEにて、
    記念すべき第一回目のチェコフェスティバルが開催された。 同じ東欧の
    ポーランド祭は、数年前から開催されているものの、東欧の中でも人気の
    高いチェコのフェスティバルがこれまでなかったのは、かなり意外かも
    知れない。

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    この日は、ピアノ、プレゼンテーション、民族舞踊、民族音楽他のイベントが
    行われ、スラブの文化を満喫することが出来ました。 同じスラブの国でも、
    ロシアとは、似ているようで全然違うチェコの魅力とは、中世の古い街並みが
    そのまま現在まで残っているところと、カトリック教会であるところなのでは?
    言語的には、ロシア語とチェコ語はかなり似ており、そのまま喋っても大体意思
    疎通が出来るレベル。 

    チェコは、大きく分けると、ボヘミアとモラヴィアに分かれるが、今回は、
    ボヘミアよりもモラヴィア色が強く、民謡も民族舞踊もモラヴィアが中心であった。



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