東京通詞 ~多言語のススメ~

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    タグ:ボイイ

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い
    定住者が確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、
    前史時代にわずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の
    洞窟にも人間が居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り
    住んで来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に
    要塞の町を築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地で
    ドナウ川を横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。
    ボイイは、スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の
    大規模な侵略に悩まされた。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森から
    やって来た。 チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを
    破り、スロバキアにあったケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や
    他のチュートン人が、ドナウ川流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いた
    フランク人は、南ヨーロッパを支配していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

    img50

    【ローマ人とスラブ人】
    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、
    チュートン人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、
    川に沿っていくつかの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南に
    ある首都ローマから統治するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ
    帝国は、ローマを首都とする西と、コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に
    分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ
    平野から追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系の
    アヴァール人がスロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、
    何千というスラブ人がやって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通って
    スロバキアの平野になだれ込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェ
    という小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住
    していたチェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、
    皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。
    スラブ人のリーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。
    アヴァール人を破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、
    637年のヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、
    支配することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。
    その後2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。
    各地で衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な
    中央政府がないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大の
    ために戦った。

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    山間部や川の流域の洞窟に人が住み始めた先史時代に、今のチェコにあたる
    地域、ボヘミアとモラヴィアにも人類が住んでいた。 紀元前500年頃、
    ヨーロッパの北と東から遊牧民ケルト人がやって来た。

    ボイイと呼ばれるケルト人がボヘミアに定住し、その地域とボイイと名付け、
    それがボヘミアの由来と言われている。 ケルト人の集落や最大の都市
    ボイオヘムームは、交易で栄えた。

    czech-map

    しかし、ボイイ人は、西の地域に定住していたチュートン人(ドイツ系)と
    敵対関係にあった。 紀元前12年には、マルコマーニと呼ばれたチュートン人が
    ボイイを征服した。 ボヘミアとモラヴィアは、その後数世紀に渡って争いが
    続き、不穏な情勢にあった。 侵入する遊牧民と、土地や交易をめぐって衝突が
    絶えなかったからだ。

    別のチュートン人一族がマルコマーニ人を征服して、南の盆地に定住したところ、
    アヴァール人とスラヴ人が東から移動して来た。 ローマ帝国軍の兵士達も、
    ヴァルタヴァ川の流域に前線基地を造るために、ボヘミアの森を通って前進して
    来た。

    ローマ人は、3世紀までにイタリア半島を基地に広大な帝国を築いていた。
    しかし、外部からの侵入と政治的な内乱はローマ帝国を弱体化させ、ローマ
    帝国は、4世紀には東と西に分裂した。

    東西分裂の後、コンスタンティノープル(イスタンブール)は、東ローマ帝国の
    首都となった。 しかし、ローマは、依然として西ローマ帝国の首都であった。
    ふたつの首都共、ローマ帝国が公認したキリスト教の拠点としての地位を持った。

    175611

    4世紀に入ると、チュートン人が南ヨーロッパとイタリアに侵入し、西ローマ
    帝国は滅亡した。 その後、スラヴ人の大集団が移動し始めた。 スラヴ人は
    東、南、西のグループに分かれていた。 東スラヴ人はロシアに、南スラヴ人は
    南東ヨーロッパのバルカン半島に、西スラヴ人は中央ヨーロッパ北部の川の
    流域と平野に集落を作った。

    なかでも、現在のポーランド、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアにあたる
    地域に定住した西スラヴ人は、最も大きな民族集団であった。 この民族
    大移動の時期に、ボヘミアとモラヴィアに到達したスラヴ人集団のひとつが、
    チェコ人の先祖である。

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