ペテルブルグの郊外には、皇帝の離宮がいくつもある。 代表的なものは
ツァールスコエ・セロー(ソ連時代はプーシキン)、ペテルゴーフ(現在は
ペトロドヴァレツ)である。 ツァールスコエ・セローは、ペテルブルグから
南方約25kmのところにある。

1725年、ピョートルの死後からツァーリの離宮が置かれた。 エリザヴェータ
女帝時代、エカテリーナ2世時代に宮殿が整備された。 ピョートルの妃で、
女帝となったエカテリーナ1世のために建てられた宮殿がエカテリーナ宮殿である。
これがラストレッリによって拡張され、改築され、バロック様式の豪華絢爛たる
宮殿になった。 1756年にラストレッリの改築は完成した。

この宮殿の中で特に名高いのは、琥珀の間である。 1791年この宮殿の大広間で
日本からの漂流民である大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、日本帰国を
許されたのである。

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1800年には、第2の宮殿アレクサンドル宮殿が完成した。 これはクワレンギの
設計による古典主義的建築である。 エカテリーナ2世は、愛する孫の
アレクサンドルを身近に置こうと、アレクサンドル(後の1世)のためにこの
宮殿を建てたのである。 1811年エカテリーナ宮殿の右側に貴族男子の中高等
学校、リツェイが開校した。 ここに学んだのが、詩人のプーシキンである。

帝政最後の皇帝ニコライ2世は、妃アレクサンドラ・フォードロヴナが
ペテルブルグを嫌ったために、首都にいる時には基本的にツァールスコエ・セロー
のアレクサンドル宮殿で生活をした。 皇帝と皇后は、王女オリガ、タチヤーナ、
マリヤ、アナスタシヤ、血友病の皇太子アレクセイと共に、この宮殿に立て
こもっているがごとくであった。

皇后が信頼する女官アンナ・ビルボーヴァは、ツァールスコエ・セローの街の中に
家を借りて住み、皇后がラスプーチンと会う便宜を図った。 ラスプーチンは、
皇太子が出血する際の痛みを止めるのに不思議な力を発揮し、皇后の絶大な信頼を
得ていた。 皇太子の血友病は公式には全く秘密にされていたので、皇后、女官
アンナとラスプーチンの関係は疑惑を持って見られるに至った。 二月革命後、
皇帝の一家はこの宮殿に監禁される生活となった。 そして、シベリアに流刑に
なったのである。

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革命後、この街は、ジェツコエ・セローと改称されたが、1937年プーシキンの死後
100年を記念して、プーシキンと改称された。 独ソ戦争の際、ドイツ軍は、この
街を占領し、宮殿を完全に略奪した。 ドイツ軍が撤退した時、宮殿は壁だけが
残っていたに過ぎない。 戦後の困難な状態の中で、完全復元の決定がなされ、
途方もない努力によって、エカテリーナ宮殿は1959年に復元作業が終わり、公開
された。

ペトロドヴァレツは、ペテルブルグの西30kmのところにあって、フィンランド湾の
南岸に位置している。 エルミタージュの脇の船着場水中翼船で30分、鉄道なら
40分の距離である。 ここは元ペテルゴフと呼ばれ、1714年に早くも開かれた。

大宮殿は海に開かれた斜面の上に建てられたが、その後の1755年にラストレッリに
よって改築された。 大宮殿から下に噴水の階段が作られている。 夏の離宮
として皇帝達に愛された。 ペテルブルグを離れることを望んだニコライ2世は、
ここに来ると、大宮殿ではなく、その東の森の中の『農園』と名付けられた質素な
パビリオンで人と会うことを好んでいた。

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ペテルゴフもドイツ軍に占領された。 そしてここも完全な廃墟となった。
これを復元しようという努力は、戦争中の1944年から始まった。 ペテルゴフ
というドイツ風の名前をペトロドゥヴァレツというロシア風の名前に変えたのも、
ドイツ軍に対する怒りの表れであったかも知れない。 1947年には、最初の
噴水が水を出し始めた。 復元作業は60年代に終わった。

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