多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:ペトログラード

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
    ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
    会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
    レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
    メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
    レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
    あった。

    ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
    言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
    中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
    ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
    掲げられている建物である。

    ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
    赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
    兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
    十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
    ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
    政府の公式行事、パレードの場となった。

    広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
    功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
    始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
    アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

    革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
    モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
    外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
    された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
    極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
    のである。

    375131648

    革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
    出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
    ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
    実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
    建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
    この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
    からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
    この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

    『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
    KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

    ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
    ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
    1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
    この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
    この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

    1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
    運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
    1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
    スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
    された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
    人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
    トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ロシアでの革命には、多くの要因があった。 1905年には、民衆の間で不満が吹き出し、
    ストライキ、暴動、反乱が起こった。 食糧不足、皇帝ニコライ二世の指導力の弱さ、
    第一次世界大戦でのロシア軍の惨憺たる戦いぶりなどが更に不安を強め、戦争を
    終結させられなかったことなどが、兵士や農民の怒りを招いた。

    41101220748

    【怪僧ラスプーチン】

    ニコライ二世と皇后アレクサンドラに多大な影響力を持っていたのが、怪僧グリゴリー・
    ラスプーチン。 彼がそれほど信頼されたのは、皇太子アレクセイの血友病を治療した
    ためだった。 第一次世界大戦中、皇帝が前線に出ている間は、ラスプーチンがロシアを
    支配した。 1916年、評判の悪かったラスプーチンは、皇帝の親族によって殺された。

    1905年1月9日、若い僧であるガポンは、皇帝に請願するため、労働者と共に冬の宮殿に
    向かって行進していた。 そこへ兵士が発泡し、女性や子供をも含むデモ参加者が
    何百人も殺された。 この虐殺が、皇帝に対する国民の忠誠心を揺るがすこととなった。

    1914年、ロシアは、フランスやイギリスと共に、第一次世界大戦に参戦した。 ロシア軍は、
    最初のうちは、オーストリアとドイツに対して、勝利を収めたが、補強が十分ではなく、
    やがて負け戦となって、多くの損害や脱走兵を出した。 そのあたりから、国民の熱狂は、
    幻滅と厭戦気分に変わったのである。 

    そして、1917年2月、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)で暴動が起こった(2月革命)。
    これを切っ掛けに、ニコライ二世は退位し、臨時政府が後を引き継いだ。 1917年10月
    には、ウラジミール・レーニンが指導するボリシェビキ(共産)党が権力を握った(10月革命)。
    レーニンは、臨時政府を解体し、ウクライナを含む広大な領土を譲って、ドイツと講和を
    結んだ。

    QINCUAEzfut

    1917年の革命は、ペトログラードがほぼ無血のクーデターだったのに対し、モスクワでは
    暴力的なものとなった。 戦闘的な労働者は、臨時政府に忠誠を尽くす強力な士官学校と
    激しく戦った。 ボリシェビキが、このロシア第二の首都で勝利を収めたのは、クレムリン
    周辺での激戦が10日間続いた後のことだった。

    1917年3月、巡洋艦オーロラ号の水兵達が反乱を起こし、ボリシェビキに加わった。
    10月25日、ペトログラードの中心部のネヴァ川に怒りを降ろしたオーロラ号が1発の
    空砲を発射した。 これが、殆ど無防備の冬の宮殿で会議を開いていた臨時政府の
    メンバーを襲撃する合図だった。

    hqdefault

    【ウラジミール・レーニン】

    ウラジミール・レーニンは、学生時代からの革命家で、1897年にシベリアに流刑になった。
    『労働者は既成権力に対して立ち上がり、公正な社会を作らなければならない』と信じる
    レーニンは、1900年に外国で逃亡者のロシア社会民主労働党の支配権を獲得した。
    党は、ボリシェビキ(多数派)のレーニンのグループと、それに対立するメンシェビキ
    (少数派)に分裂した。 ボリシェビキは、革命を指導した。

    【レオン・トロツキー】
    レオン・トロツキーは、精力的な革命家で、1905年の革命で投獄されて流刑となったが、
    国外に逃亡して、1917年にボリシェビキに参加した。 トロツキーは、レーニンと共に、
    10月革命の中心的な役割を担った。 外務人民委員や国防人事委員を努め、内戦の
    時は、赤軍を組織して、これを指揮した。

    ボリシェビキ革命後は、帝政ロシアの数々のシンボルが破壊された。 1918年には、
    ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の巨大な像が倒された。 破壊を命じた
    レーニンは、彼の兄がアレクサンドル暗殺を計画して処刑されたことを決して忘れては
    いなかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ピョートル大帝は、湿地の広がるネヴァ川の両岸に、新しいロシアの首都である、
    サンクト・ペテルブルグを建設した。 ロシアには、海への出入口と『西欧への窓』が
    必要と考えたからだった。 数千人の人命を犠牲にしながら、1712年頃には、新しい
    首都の街並みは、おおよそ完成した。

    peter

    宮殿群と尖塔の街並みは、ヨーロッパ古典様式を反映したもので、多数の外国人
    建築家らによって建設された。 第二次世界大戦では、ドイツ軍が3年間に渡って
    この街を封鎖したため、100万人以上が死んだ。



    街の名称も、時代と共に変わり、1914年から1924年までは、ペトログラード、その後、
    1991年までは、レニングラードと呼ばれたが、その後、再びサンクト・ペテルブルグに
    戻された。

    bridge14

    【都市の構造】

    サンクト・ペテルブルグは、ネヴァ川につながる細い川や運河の周りに造られて
    いる。 ネヴァ川の左岸には、中心部と向き合う形でヴァシリエフスキー島や
    ペトロパブロフスク要塞がある。 ネフスキー大通りには、ネヴァ川から南へ放射状に
    伸びる数本の大通りの中でも、最も主要な通りとなっている。

    2022766

    【ペトロパブロフスク要塞】

    ペトロパブロフスク要塞は、1703年に建設され、 サンクト・ペテルブルグで最初の
    建造物で、その中央には、ペトロパブロフスク大聖堂がそびえ立っている。 細く高く
    伸びたその斜塔は、モスクワの聖ワシリー大聖堂と同じく、この街のシンボルに
    なっている。

    py5

    【ペトロドゥヴァレツ】

    フィンランド湾に面したペトロドゥヴァレツは、ピョートル大帝がとでも気に入っていた
    夏の宮殿だった。 フランスのベルサイユ宮殿や庭園をモデルにしたこの宮殿は、
    1714年に造られ、その後、ラストレリによって、更に増築された。 噴水の大滝は、
    その後、多数の彫刻で飾られた。 宮殿と庭園は第二次世界大戦中に荒廃したが、
    その後、美しく修復された。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブログネタ
    ロシア語 に参加中!

    5月27日は、サンクト・ペテルブルグ建市の日。 これは、ピョートル大帝によって
    1703年5月27日(昔ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた
    人工都市である事に由来しており、現在でも5月27日は建市記念日として市の
    祝日となっている。

    Petropavlovskaia

    ロシアでは、『母なるモスクワ』、『父なるサンクト・ペテルブルク』と呼ばれる事が多い
    両都市だが、モスクワが『大地信仰』を根底とするロシアを象徴する土着の都であった
    のに対し、ペテルブルクは西欧に開かれた窓、いわゆる、人工的に建設された西欧的、
    キリスト教的な支配を象徴する都と考えられているため、このように呼ばれている。

    Horseman002

    この周辺は、ルーシの北端に位置しており、キエフ公国がモンゴル襲来により分裂
    すると、ノヴゴロド公国の辺境地帯となった。 その後、ノヴゴロドを併合した
    モスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがこの地を奪取し、以後
    ピョートル大抵の時代に至るまで、約90年間この地域はスウェーデン領のイングリアと
    なっていた。
     
    stpetemap02

    大北方戦争の結果、スウェーデンから奪取したフィンランド湾沿岸部に新たに都が
    建設される事となったのだが、造営前のペテルブルク一帯は、荒れ果てた沼地であり、
    ネバ川河口付近には、同時並行でペトロパヴロフスク要塞も建設されたが、荒れ
    果てた沼地の上に新都市を建設したため、その作業は過酷を極め、約1万人が命を
    落としたとも言われており、『屍の上に築かれた都市』との異名を持っている。

    rimg0666

    新しい都の建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう、歴代の
    皇帝が整備を行い、1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が
    完成。 ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが
    作られて行った。 1757年には演劇アカデミーが創設され、エカテリーナ2世時代の
    1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。

    saintp4_1

    サンクト・ペテルブルグの都市名は、都市の設立時から1914年まで用いられた後、
    ドイツとの戦争時に、一時的にロシア的な名称である『ペトログラード』と改称されたが、
    ロシア革命後の1924年、レニングラードと改称、1991年のソ連崩壊後、再びドイツ語の
    サンクト・ペテルブルグに戻った。

    saintp3

    バレエや文学が盛んな芸術都市としても知られ、5月下旬から7月中旬には、太陽の
    沈まない白夜の町としても有名。 ピョートル大帝は、ロシアの近代化のための窓口
    として莫大な費用を掛けて建設し、後のエカテリーナ2世によって、芸術都市としての
    礎が築かれて行った。 19世紀にはロシア文学が花開き、世界最高峰の名作が
    次々に生み出されて行った。 天才と謳われた詩人・プーシキンや、『罪と罰』の
    作者ドストエフスキーなど、著名な人物もこの都市を拠点に活動していた。

    112599

    ペトロハヴロフスク要塞やエカテリーナ宮殿など、歴史を刻んだ多くの建築物が、
    周辺の歴史地区と共に世界遺産に登録されている。

    【サンクト・ペテルブルグの主な見どころ】
    9583-01
    9583-03
    Bernsteinzimmer01
    7191580
    3455
    10870070
    T3
    016
    map_russia


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ