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    タグ:ペテルブルグ

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    ワールドカップのチケットはFIFA.comのチケッティングサービスにより発売され、
    2018年3月13日(火)、モスクワ時間の午後12時(日本時間午後6時)より
    第2フェーズでのチケットの販売が開始された。 第2フェーズのチケットの
    販売期間は3月13日から4月3日までとなっており、この期間では先着順での販売
    となる。 開幕間際での販売も予定されており、4月18日から決勝戦の行われる
    7月15日までオープンされることになっている。

    【予選リーグの組み合わせ】
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    FIFAはワールドカップのチケットを4種類のカテゴリーに分けて販売しており、
    カテゴリー1~3まではオンラインにより世界中へと販売されている。 カテゴリー
    4のチケットは通常よりも安価となり、最安値のものはおよそ17ポンド(約2500円)
    となっており、一方でカテゴリー1~3までの最安値のチケットは80ポンド
    (約1万2000円)となっている。 カテゴリー4はロシア在住者のみへの販売
    となり、少なくとも350,000枚のチケットが地元のファン向けに販売される
    ことになる。

    【各チケットの値段】
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    FIFA.comサイト内の対応言語は、FIFA公用語である英語、ドイツ語、フランス語、
    スペイン語の他、開催国であるロシア語での受付が可能とっているが、途中一部分の
    説明だけは日本語でも表示されるものの、上記の言語に余り自信がない場合は、
    Google翻訳も活用した方が良いかも知れない。

    【チケット購入方法】

    FIFA.comより、オンライン購入する。 アクセス状況によっては、数分から数時間
    待たされる。 順番での受付となっており、自分の順番が回って来ると、10分間だけ
    購入ページに入ることが出来るようになる。 購入ページ内では、それぞれの試合や
    カテゴリーごとに料金が表示されるため、クリックしてどんどん先に進むと、
    最後はカード決済の画面へとたどり着くため、それで決済を終えれば、チケットが
    入手出来る。 チケットは、申込み時に登録した住所へと無償で国際宅急便
    (クーリエ)で送付され、配達は2018年5月以降を予定している。

    【ログイン画面①】
    E-mailアドレスとパスワードを入力して、サイト内に入ります。
    SNSでの登録も可能。
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    【ログイン画面②】
    ここでは、表示されているパスワードを入力して先に進みます。
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    【ログイン画面③】
    ログインすると、以下の画面が表示されます。
    画面を下にスクロールして、開催日と希望の会場を選択します。
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    【ログイン画面④】
    下にスクロールすると、以下の画面が表示されます。
    色が付いている部分が入手可能なチケットです。 グレーアウトしている
    部分は、チケットの取扱いが終了しています。
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    【ログイン画面⑤】
    チケットの枚数を選択して、買い物かごに入れます。
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    【ログイン画面⑥】
    買い物かごに追加すると、以下の画像が表示されるため、
    このまま先へ進みます。
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    【ログイン画面⑦】
    必要事項を入力し、再度にクレジットカーで決済をします。
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    【ログイン画面⑧】
    無事に決済が完了すると、予約完了の画像が表示されます。
    次に、FAN IDを取得します。
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    【FAN IDの取得】
    チケット購入後は、必ずFAN IDの申請をしなければならない。 このFAN IDは、
    ロシアのビザを免除するための身分証明書代わりとなるもので、更には、この
    IDさえ持っていれば、モスクワから各会場までの特別列車(2等寝台車)の往復料金
    までもが全て無料となるため、航空券の購入は無用となる。 証明写真として、
    背景が白地で顔の周りに若干の余裕のある画像が必要となる。 画像に関しては、
    以下の画像を参照のこと。

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    2017年4月3日午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄
    車内で起きた爆弾テロの主犯格と見られる容疑者が逮捕された。 ロシア通信が
    伝えた声明によると、男は中央アジア出身のアブロル・アジモフ(Abror Azimov)
    容疑者で、モスクワ近郊のオジンツォボで拘束され、容疑者の身柄は、取り調べの
    ため、重大犯罪の捜査を担当する連邦捜査委員会に引き渡された。

    自爆攻撃の実行犯は、アクバルジョン・ジャリロフ(Akbarjon Djalilov)容疑者
    (22)と特定されているが、地下鉄車内で既に自爆しており、中央アジアの
    キルギス生まれで、ロシア国籍を取得していたと見られている。

    連邦捜査委員会によると、アジモフ容疑者は1990年生まれで、「自爆テロリストの
    ジャリロフ容疑者の訓練を行った」としており、首謀者の一人と見なしている。

    14人が死亡、数十人が負傷したこの爆破事件をめぐっては、これまでにモスクワと
    サンクトペテルブルクで8人の身柄が拘束されており、8人全員が中央アジア出身と
    明らかにしている。

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    【キルギス共和国外務省の表明】
    キルギス共和国外務省は、一連のマスメディアを賑わせた2017年4月3日のサンクト
    ペテルブルグ地下鉄テロの容疑者であるジャリロフ・アクバルジョンがキルギス
    共和国民であるとの情報は事実とは異なることを正式に表明する。
     
    キルギス外務省が有する報告によると、A.ジャリロフは、1995年4月1日、キルギス
    南部のオシュ市に生まれ、民族的にはウズベク人であり、中等教育を満了して
    いない。

    A. ジャリロフが、かつてキルギス共和国国籍のパスポートを取得した事実はない
    ことを明言しておかねばならない。 2011年、16歳に達したジャリロフはロシア
    国籍の父の請願と共に申請書を提出し、ロシア国籍のパスポートを取得して以来、
    常にロシア連邦領内に居住していた。

    現在、キルギス共和国当局は、事件の捜査に関しロシア連邦の法執行機関への
    全面的な協力を行なっている。

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    ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルクの地下鉄で起きた爆破テロ事件で、地元
    メディアは実行犯とみられる男がキルギス共和国出身でロシア国籍の男だと報じた。

    実行犯と見られる男は、1995年生まれのキルギス共和国出身、ロシア国籍の
    アクバルジョン・ジャリロフと報じられた。 この爆破テロ事件は、2017年4月3日
    午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄車内で起きた。
    タス通信によると、これまでに14人が死亡、更に49人が現在も入院中であると
    発表した。



    ソ連時代は、民族対立や人種差別が全くと言っていいほどなかったロシアだが、
    最近は、中央アジアや、ウクライナからの移民や難民が増え過ぎた関係で、
    ロシアと中央アジアとの関係が緊迫している。 そういうところに、このような
    中央アジア出身者によるテロ事件が起きると、アジア人やウクライナ人に対する
    差別が目に見えて増えるため、暫くは情勢不安定になると見るのが妥当。

    180を超える超多民族国家のロシアでは、誰が何人とはハッキリと言えない位に、
    色々な民族が入り混じって生活をしているため、一度争いが起きると、歯止めが
    掛からない。 特に、キルギスは、ロシアにとって、カザフスタンと並んで、
    最も仲が良い国なので非常に残念。

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    近年、モスクワなどでも、移民が増え過ぎて、ロシア人でも仕事がなかなか
    見つからないという話を時折耳にする。 キルギス人は、本来、皆真面目で
    温厚な人が多いが、どうして、こうなってしまったのか? ここ数年、
    中央アジア人は、かなり差別をされており、なかなか仕事が見つからないため、
    こうなってしまったのか。。

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    海軍省と冬宮との間の通りを進むと、ネヴァ川に掛かる宮殿橋に出る。
    最初の橋は1856年に完成した。 現在の橋は、開閉式で、1912年に作られた。
    橋を渡ると、ヴァシリエフスキー島である。

    ヴァシリエフスキー島は、一時期ピョートルがペテルブルグの中心地にしようと
    考えたところであった。 しかし、貴族たちは、海軍本部からネフスキー大通りの
    方面に住むことを望み、この島に住もうとしなかったので、ピョートルの思惑は
    実現しなかった。 とはいえ、ピョートルの重要な機関をこの島に作った。

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    橋を渡ると、大ネヴァ川に沿った大学河岸通りとなる。 まず最初の塔のある
    緑の色の建物が文化人類学博物館である。 これは、ピョートルがヨーロッパ
    旅行の際に、入手したさまざまな品物を収容展示するために1714年に作られた
    最初の博物館が基になっている。 建物は1734年にゲオルグ・マッタルノーヴィの
    設計によって作られたバロック風のものである。 17世紀には色々な学術研究
    機関が入っていたが、その後、元の博物館に戻り、今日に至っている。

    次の建物は、旧科学アカデミーの建物である。 科学アカデミーは、1724年、
    ピョートルが死の直前に設立を決定した学術機関である。 科学アカデミー
    会員は、最初は外国人ばかりであったが、1742年にロモノーソフが最初のロシア人
    会員となった。 現在の建物はクワレンギが設計し、1785年に完成した。
    科学アカデミーは1934年までここを本部とし、その年モスクワに移転した。
    建物2階にロモノーソフが建設したモザイク画『ポルタヴァの戦い』が掛け
    られている。

    次は、ピョートルが作った12参議会の建物である。 トレジーニの設計で
    1722年に建設が始まった。 参議会というのは、省にあたる。 ピョートルが
    1719年から1721年に掛けて作った。 この建物だけで政府の機能を果たすことは
    すぐに難しくなったであろう。 省の建物は、ペテルブルグの色々なところに
    作られたが、結局、この建物は、ペテルブルグ大学に渡された。

    ここから大学の建物が始まる。 ペテルブルグ帝大は、1837年にこの場所に
    引っ越して来たのである。 この大学の創立年については、意見が分かれる。
    1724年に科学アカデミーが設立される時の発令には、大学と中学校を共に創る
    ということが含まれていた。 科学アカデミーの一部として、大学と中学校が
    創られたと見ることが可能である。 しかし、これは大学とは言えなかった。

    ロモノーソフは、モスクワ帝大の創設に尽力したのだが、ペテルブルグ大学に
    ついては、大学創設をハッキリさせるために開学式を行ってはどうかと提案した。
    しかし、エリザヴェータ女帝もエカテリーナ女帝もペテルブルグに大学を創る
    ことには関心を示さなかった。 結局、1819年になって、アレクサンドル1世
    によって、サンクト・ペテルブルグ大学の正式発足が決定されたのである。

    ペテルブルグ大学は、人文・東洋言語学部、物理・数学部、法学部、医学部
    から成っていた。 人文・東洋言語学部は、大学河岸通りに面したところにある。
    1935年にキーロフが暗殺されると、ペテルブルグ大学は、キーロフ名称という
    言葉が付された。 つまり、キーロフ名称国立サンクト・ペテルブルグ大学
    というのが正式名称である。

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    ペテルブルグにある中心的な建物と言えば、海軍省を挙げることが出来るが、
    その金色の尖塔は、今日のペテルブルグの目抜き通り、ネフスキー大通り、
    ゴローホヴァヤ通り、ヴェズネセンスキー大通りから見える。 つまり、海軍本部の
    建物から放射線状に3本の大通りが三方に延びているのである。

    海軍本部は、1704年に海軍造船所として造られた。 造船所は、1844年に閉鎖
    されるまで、バルト海艦隊のために256隻の軍艦を建造した。 この造船所の
    背後に海軍本部の建物が出来た。 1802年に海軍本部は海軍省となり、これを
    機会に建築家ザハーロフの設計で改築が進められ、金色の尖塔を持つ建物が
    1923年に完成した。 海軍省の建物は、幅406mもある巨大なものであり、ロシア
    帝国にとっての海軍の特別な重要性を表している。 金色の尖塔は、ペテルブルグの
    都市のシンボルとなった。 海軍省の前の庭園は、アレクサンドル庭園と名付け
    られている。

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    海軍省の東隣に、ヴァシリエフスキー島への橋に通じる通りを挟んでそびえるのが、
    冬宮、現在のエルミタージュである。 薄緑色の美しい宮殿は、皇帝の宮殿である。
    現在のものは、最初から数えて5番目の冬宮である。 冬宮は、広い広場に面して
    正面玄関があり、2階部分が皇帝一家の居住部分となっていた。 玄関の上には、
    白の間があり、そのバルコニーから、皇帝が広場に集まる臣民に挨拶したのである。

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    冬宮前は、ペテルブルグ最大の広場となっており、広場の反対側は、弓なりに
    連なる建物であり、その中央部分にアーチがある。 アーチの上には、勝利の女神の
    女神ニケーの馬車が置かれている。 アーチの右側が本来の参謀本部で、現在も
    レニングラード軍管区令部がある。 アーチの左側は、大蔵省と外務省である。

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    1704年から、フィンランド湾内のコトリン島に海軍基地クロンシュタットの
    建設が始まった。 更にウサギ島の対岸、ネヴァ川の左岸には海軍造船所が
    作られた。 これが後の海軍本部となる。

    ピョートルは国の統治を引き続き、モスクワのクレムリンから行っており、
    戦争のため各地に転戦した。 スウェーデン国王軍との決戦は、遠くウクライナの
    地ポルタヴァで1709年春に戦われた。 ピョートル軍は、カール12世軍を
    撃滅した。 戦争はなお12年続くが、ポルタヴァの勝利以後は、ロシアは
    バルト海沿岸でスウェーデンを圧して行った。

    1710年、ピョートルの軍はペテロパブロフスク要塞の北のスウェーデンの要塞
    ヴイボルクを占領した。 更にこの年、スウェーデン軍からレーヴェリとリガ
    という重要な港湾を奪った。 これによって、バルト海の南岸かがロシアの
    占領地域に入った。

    ペテロパブロフスク要塞は最前線の要塞ではなくなり、この要塞の周りに生まれ
    つつある都市の安全性は強固なものとなった。 この年ピョートルはネヴァ川が
    南の方角に曲がっているところ、かつてのスウェーデンの砦ニエンシャッツがあった
    ところの対岸にアレクサンドル・ネフスキー公の名を冠した修道院を建てさせた。

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    1240年、ノヴゴロドの公アレクサンドルがネヴァ川の流域でスウェーデン軍を
    打ち負かした勝利を讃えて、その戦闘があったと考えられた場所を選んだのである。
    これが後のアレクサンドル・ネフスキー修道院の基である。 更に同じ年、
    ピョートルは海軍造船所の近くにイサーク寺院を建立した。 正教の暦では、
    ダルマチアのイサークという聖人の日が5月30日と定めされていたが、この日が
    ピョートルの誕生日であった。

    1711年には、ピョートルのための最初の宮殿、冬宮がネヴァ川のほとりに建て
    られた。 これは5年後に建て直しになる程度の建築だったが、今やピョートルの
    住居は小屋から宮殿になったのである。

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    この要塞と海軍造船所のある北辺の拠点について、ピョートルは1704年9月28日に
    メンシコフに送った手紙の中に3、4日後に首都ペテルブルグに行くと書いている。
    これがピョートルがペテルブルグについて首都と述べた最初の例外的なケース
    であった。 だからと言って、ピョートルがこの時ペテルブルグを首都にすると
    既に決めていたことにはならない。 いずれにしても、スウェーデン海軍の攻撃は
    1705年夏までは続いていたのである。

    1709年のポルタヴァでの勝利の後、1711年ピョートルはモスクワに元老院を
    設置し、9名の議員を任命した。 貴族会議に代わって、皇帝の命令を遂行し、
    重要案件については皇帝に代わって仮の決定を下す中央統治機関とした。
    この機関が1712年にペテルブルグに移ったのは、翌1713年だが、これは重要な
    決定であった。

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    ペテルブルグの郊外には、皇帝の離宮がいくつもある。 代表的なものは
    ツァールスコエ・セロー(ソ連時代はプーシキン)、ペテルゴーフ(現在は
    ペトロドヴァレツ)である。 ツァールスコエ・セローは、ペテルブルグから
    南方約25kmのところにある。

    1725年、ピョートルの死後からツァーリの離宮が置かれた。 エリザヴェータ
    女帝時代、エカテリーナ2世時代に宮殿が整備された。 ピョートルの妃で、
    女帝となったエカテリーナ1世のために建てられた宮殿がエカテリーナ宮殿である。
    これがラストレッリによって拡張され、改築され、バロック様式の豪華絢爛たる
    宮殿になった。 1756年にラストレッリの改築は完成した。

    この宮殿の中で特に名高いのは、琥珀の間である。 1791年この宮殿の大広間で
    日本からの漂流民である大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、日本帰国を
    許されたのである。

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    1800年には、第2の宮殿アレクサンドル宮殿が完成した。 これはクワレンギの
    設計による古典主義的建築である。 エカテリーナ2世は、愛する孫の
    アレクサンドルを身近に置こうと、アレクサンドル(後の1世)のためにこの
    宮殿を建てたのである。 1811年エカテリーナ宮殿の右側に貴族男子の中高等
    学校、リツェイが開校した。 ここに学んだのが、詩人のプーシキンである。

    帝政最後の皇帝ニコライ2世は、妃アレクサンドラ・フォードロヴナが
    ペテルブルグを嫌ったために、首都にいる時には基本的にツァールスコエ・セロー
    のアレクサンドル宮殿で生活をした。 皇帝と皇后は、王女オリガ、タチヤーナ、
    マリヤ、アナスタシヤ、血友病の皇太子アレクセイと共に、この宮殿に立て
    こもっているがごとくであった。

    皇后が信頼する女官アンナ・ビルボーヴァは、ツァールスコエ・セローの街の中に
    家を借りて住み、皇后がラスプーチンと会う便宜を図った。 ラスプーチンは、
    皇太子が出血する際の痛みを止めるのに不思議な力を発揮し、皇后の絶大な信頼を
    得ていた。 皇太子の血友病は公式には全く秘密にされていたので、皇后、女官
    アンナとラスプーチンの関係は疑惑を持って見られるに至った。 二月革命後、
    皇帝の一家はこの宮殿に監禁される生活となった。 そして、シベリアに流刑に
    なったのである。

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    革命後、この街は、ジェツコエ・セローと改称されたが、1937年プーシキンの死後
    100年を記念して、プーシキンと改称された。 独ソ戦争の際、ドイツ軍は、この
    街を占領し、宮殿を完全に略奪した。 ドイツ軍が撤退した時、宮殿は壁だけが
    残っていたに過ぎない。 戦後の困難な状態の中で、完全復元の決定がなされ、
    途方もない努力によって、エカテリーナ宮殿は1959年に復元作業が終わり、公開
    された。

    ペトロドヴァレツは、ペテルブルグの西30kmのところにあって、フィンランド湾の
    南岸に位置している。 エルミタージュの脇の船着場水中翼船で30分、鉄道なら
    40分の距離である。 ここは元ペテルゴフと呼ばれ、1714年に早くも開かれた。

    大宮殿は海に開かれた斜面の上に建てられたが、その後の1755年にラストレッリに
    よって改築された。 大宮殿から下に噴水の階段が作られている。 夏の離宮
    として皇帝達に愛された。 ペテルブルグを離れることを望んだニコライ2世は、
    ここに来ると、大宮殿ではなく、その東の森の中の『農園』と名付けられた質素な
    パビリオンで人と会うことを好んでいた。

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    ペテルゴフもドイツ軍に占領された。 そしてここも完全な廃墟となった。
    これを復元しようという努力は、戦争中の1944年から始まった。 ペテルゴフ
    というドイツ風の名前をペトロドゥヴァレツというロシア風の名前に変えたのも、
    ドイツ軍に対する怒りの表れであったかも知れない。 1947年には、最初の
    噴水が水を出し始めた。 復元作業は60年代に終わった。

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    1764年、エカテリーナ2世は、ベルリンで225点の絵画を買い付けた。
    オランダ、フランドル地方の画家の絵で、レンブラントの絵が多く含まれて
    いた。 この絵が運び込まれた冬宮の一部がエルミタージュ(隠れ家、草庵)と
    呼ばれるようになった。

    エカテリーナは、1764年から冬宮の隣に収集美術館を建設し始め、1975年に
    完成させた。 これが小エルミタージュと名付けられた。 1774年には、買い
    集めた絵の総枚数は、2080枚に達していたので、すぐに次の建設が始まった。

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    1987年には、河岸側に旧エルミタージュが建設された。 ここには、ルネッサンス
    期のイタリアの絵画が集められた。 レオナルド・ダ・ビンチの『聖母子像』は
    特に有名である。

    更に、エカテリーナは、1787年に旧エルミタージュの隣にエルミタージュ劇場を
    建設した。 設計者は、クヴァレンギである。 400人を収容する堂々たる劇場
    である。

    次のニコライ1世の時代、1839年に旧エルミタージュの内側に文字通り新しい
    美術館の建設が始められ、1952年に完成した。 レオ・フォン・クレンツェの
    設計した新エルミタージュである。 ここには、レンブラント・コレクション、
    ヴァン・ダイクやルーベンス等のオランダ・フランドル絵画もある。

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    新エルミタージュは1852年の完成と共に公開され、1866年には一層自由に見る事が
    出来るようになった。 冬宮は、二月革命後、臨時政府の建物となり、十月革命で
    革命派の兵士水兵に占拠された。 十月革命後、皇室所有の美術品は大貴族の
    宮殿から没収された美術品で更に膨大なものとなった。

    1922年エルミタージュは、冬宮の中にも拡張された。 今やエルミタージュは、
    市民に開放される美術館となったのである。 途中所蔵の絵画が西側に売り飛ば
    される時期もあったが、1946年、ついに冬宮全体がエルミタージュとなったので
    ある。 そして1948年、モスクワの資本家達が集めた現代西欧の絵画が運び
    込まれた。

    1311011

    旧冬宮の新しいスペースにモスクワの商人セルゲイ・シチューキンが集めた
    マチスの大作『踊る人』と『音楽』、それに青の時代のピカソの絵が展示された。
    シチューキンはフランスに亡命していたが、自分がソビエト政権に渡して来た
    コレクションについて、次のように語ったと記録されている。

    『私は自分のためではなく、それよりは自分の国のため、自分の国民のために
    収集したのである。 わが国に何があろうと、私のコレクションはあの地に残ら
    なければならない』

    【お勧めの一冊】


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