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    タグ:ベルリン

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    Institut für Forschung und Entwicklung von Sportgeräten (FES研究所)

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    対応競技:
    陸上競技、自転車競技、カヌー、ボート競技、トライアスロン、セーリング、
    アーチェリー、水泳、そり競技(スケルトン、ボブスレー)、スピードスケート、
    スキー、障害者スポーツ(セーリング)

    東ベルリンに本拠地を置くスポーツ器具を専門的に開発するためのFES研究所は、
    旧東独のナショナル委員会によって設立された「ドイツ体育スポーツ学院」
    研究センター内のスポーツ器具開発部門として1963年3月1日に設立された。

    その研究設立目的は、当時の産業界では、このようなスポーツ器具を生産する事が
    出来なかったためで、国際レベルでのトレーニングや競技用スポーツ器具を東独
    選手のためにカスタマイズ、開発することであった。 その後、スポーツ器具の
    開発と生産ばかりではなく、人材と素材が連携する事により、抜本的な見直しが
    必要である事が認識された。

    1963年から1965年に掛けて、ボート、カヌー、セーリングの開発事業が始まり、 
    1965年3月1日、ベルリンのシェーネヴァイデにスポーツ器具研究開発拠点が
    創設された。 FES研究所が開発したスポーツ器具が最初に国際的な評価を受けた
    のは、木材密度ポリマーを代用する事により、ボート、カヌー、ヨット競技に
    軽量素材技術を導入した事であった。

    1968年から1970年に掛けて、FES研究所では1人乗りと2人乗りのソリの開発が
    始まった。 1972年の札幌大会では、FES研究所が独自に開発した競技用具が
    初登場し、この時に旧東独で最初のソリ競技の代表チームが立ち上げられた。
    ほぼ同時期には、スポーツ競技器具開発に加えて、第2の柱である、コンピュータを
    用いた測定技術部門が立ち上げられた。 測定と情報技術の進歩により、ボートに
    初めて計測機器が取り付けられた。 セーリング競技では、オリンピックの
    フィン級、フライングダッチマン級、後に、470級でも開発が開始された。
    測定技術におけるもう一つの目玉は、セーリング競技における徹底した再測定
    であった。

    1970年代、FES研究所は、テニス、クロスカントリースキー、陸上競技などの
    スポーツにおける様々なテストを行い、柔道マットの製造においては、最先端の
    合成ゴムを使用した。

    また、1970年にFES研究所は、現在ケムニッツ市にある旧産業コンビナートである
    「Textimaforschung Malimo 有限会社」と協力して、1984年から自転車競技の開発
    事業を開始した。 まず、繊維強化プラスチックの使用量を増やしたディスク
    ホイールの研究開発が行われ、1987年からは独立事業として、炭素繊維を
    使用した強化フレームの開発に取り組んだ。 1988年のソウルオリンピックに
    おいて、ドイツ自転車競技チームは、FES研究所が独自に開発した器具を用いて
    100kmのロードレースにおいて金メダルを獲得した。

    1988年の最大時には、センター内に合計で5施設が設置され、約180名の
    スタッフが雇用されたが、ドイツ統一後の1992年5月、現在のDOSB、連邦内務省、
    スポーツ連盟の後援により、FES研究所内の全面的な組織再編が行われた。
    現在、FES研究所内には50名のスタッフが働いており、そのうち25名が
    エンジニアと技術職員、20名が研究職員、5名が社内外の管理業務を行っている。

    1992年、ボブスレーにおける開発は、2人乗りボブスレーから開始され、続いて
    4人乗りボブスレーの開発が始まった。 1996年からは、アチェリーのト
    レーニング時に使用するカーボン繊維強化プラスチックを用いたシャフトの開発、
    1997年からは、スピードスケート用の技術器具もFES研究所が扱うようになった。
    2001年からは、スケルトン用の競技機器とソリの開発も行なっている。

    ドイツ統一後、FES研究所は、ライプツィッヒのIAT研究所と共に、予算制度が
    継続され、連邦政府によって資金提供されている。 法的には、FES研究所は、
    ライプツィヒの応用トレーニング科学調査研究所と共に、DOSBを代理して、
    直接予算提供を受けている。  スポンサー団体には、24の競技連盟、6連邦州の
    スポーツ連盟、ケルン・トレーニングアカデミー、DOSBが含まれている。

    FES研究所が最も成功した競技は、ボブスレーとそり競技であり、その多くは、
    現在も開発中である。 2014年ソチ冬季オリンピックの際、ドイツのボブスレー
    チームは競争力がなかったため、FES研究所は批判された。 その後、2018年の
    ピョンチャンオリンピック大会に向けて、ナショナルチーム監督であるレナ・
    スパイズ氏が、男子チームの競争力向上のため、FES研究所と共に新しい
    ボブスレーの開発を押し進めた。 2018年の冬季オリンピックでは、FES研究所が
    開発した器具を用いたドイツチームは、金メダル3つと銀メダル1つを獲得した。

    【ボブスレー 国別メダル獲得数】

    順位

    国・地域

    1

    ドイツ

    3

    1

    0

    4

    2

    カナダ

    1

    0

    1

    2

    3

    韓国

    0

    1

    0

    1

    アメリカ合衆国    

    0

    1

    0

    1

     

    合計

    4

    3

    2

    9

     
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    オリンピック・サポート拠点(Olympiastützpunkt 以下OSP)ベルリンでは、
    現在30以上のオリンピック競技から、約500名のA-C級のナショナル選手を
    総合的にサポートしている。 OSPベルリンでは、ベルリンの主要な
    ナショナル選手のサポート事業に加えて、ベルリン市内5カ所の施設、並びに、
    キーンバウムでの協力協定に基づき、約20のスポーツ競技において、
    ナショナル選手をサポートしている。

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    【重点競技】
    オリンピックセンターにおける重点競技の決定は、DOSBのハイパフォーマンス
    スポーツ専門部門と各オリンピック競技連盟とが連携して決定する。
    ベルリンでは、現在以下の23のオリンピック競技が主要なスポーツとして
    認定されている。

    バスケットボール男子、ビーチバレーボール、アーチェリー、ボクシング、
    ホッケー、ハンドボール、フィギュアスケート、スピードスケート、ホッケー、
    フェンシング、ウエイトリフティング、柔道、カヌー、空手、陸上競技、
    近代五種競技、自転車競技、ボート、水泳、セーリング、体操、バレーボール、
    水球男子

    【その他の競技】
    バドミントン、サッカー、レスリング、新体操、ラグビー、射撃、テニス、卓球

    【障害者スポーツ】
    カヌー、体操、車椅子バスケットボール、車椅子テニス、車椅子卓球、水泳、
    セーリング

    【OSPベルリンの主な施設】 
    ① Sportforum Berlin ④ Sportkomplex Olympiapark
    Fritz-Lesch-Str. 29 Berlin Friedrich Friesen Allee Berlin
    ② Sportkomplex Europasportpark ⑤ Sportkomplex Hohenzollerndamm
    Paul-Heyse-Str. 29 Berlin Jungfernheideweg 80 Berlin
    ③ Sportkomplex Grünau ⑥ Bundesleistungszentrum Kienbaum
    Sportpromenade 3 Berlin Puschkinstraße 2 Kienbaum

    2010年以来、連邦内務省は年間約3,000万ユーロの基金を拠出していおり、
    2016年、OSPベルリンは最も多くの援助額である428万ユーロを受けた。
    OSPバイエルンは403万ユーロ、OSP内で最低の補助金は、OSPフライブルグ・
    シュワルツヴァルトで71万ユーロであった。 2016年度は、18拠点合計で
    3,115万ユーロの資金調達が行われた。

    OSPベルリンでは、ベルリンのナショナル選手全員に対して、スポーツ医療、
    理学療法、科学トレーニング、スポーツ心理学、社会福祉サービスを提供している。
    約35名の常勤スタッフと10名を超える名誉職員が、アスリートとコーチの競技力
    向上のために最も適した方法を見つけられるようにします。 OSPベルリンでは、
    20人以上のコーチが直接雇用されており、日々最高レベルのトレーニング方法に
    より、アスリートを支えている。

    ベルリン郊外にあるキーンバウム連邦トレーニングセンターは、ナショナルチームに
    とって、特別な意味を持っている。 多くの場合、トップアスリート達は主要
    競技大会の数週間前に「最終調整」を行う。 エリート選手、トレーナー、
    アーチェリー選手、カヌー選手など、これらの競技には、OSPベルリンが主に
    関与している。

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    ドイツ国内には、連邦政府が運営するナショナルチームのための
    オリンピック・サポート拠点(Olympiastützpunkt 以下OSP)が18ヶ所ある。
    以下、国内の主な施設の内容。

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    OSPバイエルンは、1989年にミュンヘンに設置され、冬季競技を中心とした
    ナショナルチームのアスリートやトレーナーのための専用施設である。
    OSPミュンヘンは、1972年に開催されたミュンヘンオリンピックのオリンピック
    パーク内にあり、オリンピックパークGmbHからの資金提供により設立された。
    OSPバイエルンは現在、ドイツ最大のナショナルトレーニングセンターであり、
    900人以上のアスリートが在籍している。

    【対応競技】
    冬季オリンピック競技中心、陸上競技、水泳、柔道、テコンドー、レスリング、
    ホッケー、射撃、カヌースラローム、テニス、卓球、乗馬、バレーボール、
    バスケットボールエリートスポーツ学校が付属


    OSPベルリンは、OSPベルリン協会の後援により1987年に設立され、
    30以上のエリートスポーツの競技に対応しており、現在約500名が在籍している。
    OSPベルリンでは、現在23のオリンピック競技が主要な競技として認め
    られている。

    【対応競技】
    バスケットボール男子、ビーチバレーボール、アーチェリー、ボクシング、
    ホッケー、ハンドボール、フィギュアスケート、スピードスケート、ホッケー、
    フェンシング、ウエイトリフティング、柔道、カヌー、空手、陸上競技、
    近代五種競技、自転車競技、ボート、水泳、セーリング、体操、バレーボール、
    水球男子、バドミントン、サッカー、レスリング、新体操、ラグビー、射撃、
    テニス、卓球

    【障害者スポーツ】
    カヌー、体操、車椅子バスケットボール、車椅子テニス、車椅子卓球、水泳、
    セーリング


    ③【OPS ブランデンブルグ
    OPSブランデンブルグは、ブランデンブルグ州のコットブス市、フランクフルト
    ・アン・デア・オーデル市、ポツダム市の3施設に大きく分かれている。
    この施設での科学サポートは、特にカヌーレースとサイクリングに特化している。
    フランクフルト(オーデル)とポツダムには、低酸素トレーニングルームがあり、
    主に水泳、柔道、自転車競技の選手が使用している。

    【フランクフルト(オーデル)】
    フランクフルト(オーデル)のスポーツ施設は1973年に設置され、ドイツ統一後に
    完全に改装された。 旧東独地域にあるOPSは、このフランクフルト(オーデル)の
    施設が基になっているとも言われている。

    【コットブス】
    自転車競技に特化しており、BMXや自転車競技への参加人数の増加により、
    2014年に新たに陸上競技場が完成し、旧トレーニングホールは、自転車競技専用
    競技場として改修された。

    【ポツダム】
    カヌー、ボート競技、レスリング、陸上競技、水泳のトレーニングに特化しており、
    水泳は、低酸素トレーニングが可能。 旧東独時代からトップアスリートが
    トレーニングを受けていた。

    【対応競技】
    障害者スポーツ、ボブスレー、ボクシング、サッカー、体操、ウエイトリフ
    ティング、ハンドボール、柔道、カヌースプリント、陸上競技、近代五種競技、
    自転車競技、レスリング、ボート競技、水泳、射撃、トライアスロン、
    バレーボール、水球


    1988年設置。 本部はハンブルクにあるが、キールとラッツェブルクにも
    支部がある。 オリンピック競技25種目、約300名のアスリートが在籍している。
    エリートスポーツ学校は2006年設立。 エリートスポーツのトレーニングの他にも、
    キャリアアドバイス、陸上競技トレーニング、スポーツ理学療法、スポーツ医学、
    スポーツ心理学、栄養カウンセリングを主な活動の中心としている。

    【競技種目】
    重点競技は、ビーチバレーボール、ホッケー、水泳、ボート競技、セーリング

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    1988年にOSPフランクフルト・アム・マインとして設立され、2008年に
    OPSヘッセンへと名称が変更された。 本部はフランクフルト・アム・マインに
    位置し、オリンピック種目20競技から約250名のアスリートが在籍している。
    DOSBの公式な分析では、監督の質の高さから、ドイツで最も重要な3つの
    拠点うちの1つとなっている。

    OPSヘッセンは、スポーツクリニック・フランクフルトと協力して、スポーツ
    医療、理学療法、キャリアコーディネート、キャリアガイダンス、住宅援助、
    栄養アドバイス、スポーツ心理ケアを行っている。

    【主な対応種目】
    ホッケー、体操、新体操、トランポリン、レスリンググレコローマン、射撃、
    卓球、ボート競技、バスケットボール、バレーボール、陸上競技


    旧東独のメクレンブルク=フォアポンメルン州内のロストック、
    ノイブランデンブルク、シュヴェリーンの3拠点に大きく分かれている。
    スポーツ医学、理学療法、科学トレーニング、スポーツ心理のサポートを
    行っている。

    【対応競技】
    ● ロストック(ボート、飛び込み、トラックスピードスケートショート、
       セーリング)
    ● ノイブランデンブルク(陸上競技、カヌー、トライアスロン)
    ● シュヴェリーン(ボクシング、バレーボール、自転車競技)


    1986年ニーダーザクセン州ハノーバー市に設置。 スポーツ医学、理学療法、
    科学トレーニング、心理学、栄養科学ケア、キャリアガイダンスに対応。

    【対応競技】
    水球、水泳(男子)、陸上競技、柔道、体操(男子)、ホッケー(女子)、
    トランポリン、射撃、ボクシング、テニス、卓球、ボート競技、バイアスロン
    その他、パラリンピック、デフリンピック(聴覚障害者)アスリートをサポート。

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    【ベルリン】
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    ドイツ北東の平原にある人口346万人のベルリンは、1200年代にベルリンとケルン
    (ライン川沿いにあるケルンとは無関係)という2つの街に分かれていた。
    これらはシュプレー川の両岸に位置し、それぞれが商業の中心地であったが、
    1397年に合併し、1701年にはプロイセン王国の行政上の中心地となる。 1871年に
    ドイツ帝国が建設されて以来1945年まで、ベルリンはドイツの首都であった。

    第二次世界大戦でドイツが敗北した後、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、
    ソ連がベルリンを占領する。 後にベルリンは東西に分断され、東ベルリンは
    共産主義である東ドイツの首都となり、西ベルリンは本土から切り離されはしたが、
    西ドイツの一部として残った。

    東ドイツの共産党政権は、国民が西ドイツに逃亡するのを防ぐため、1961年に
    西ベルリンの周りに強固な壁を造った。 1989年に東ドイツ政府が国境を開くと、
    ベルリンの壁は壊され、ほどなく2つのドイツは再統合、連邦政府を西ドイツの
    ボンからベルリンに戻す計画が始まった。

    第二次世界大戦の爆撃でベルリンは大被害を被ったものの、いくつかの建物は戦災を
    免れた。 例えば、国立オペラ劇場や国立図書館は18世紀にまで遡ることが出来、
    帝国議会は19世紀後半にドイツの議会場として建築された。 西ベルリンのメイン
    ストリート、クーアフェルテンダム通りの近くには、ヴィルヘルム皇帝記念教会が
    たっている。 爆撃で一部破壊されたこの教会の残骸は、戦争をいつまでも忘れない
    ようにとそのまま残された。

    ベルリンは製造業の中心地でもある。 エレクトロニクス、機械、化学製品、
    鋼鉄、衣類、繊維、ゴム製品などが作られており、シュプレー川の工業港は北海、
    バルト海と運河で結ばれている。 ベルリンは重要な民間空港、軍事空港を備え、
    また、北ヨーロッパにおける鉄道網の中枢を成している。

    【その他の都市】

     1800年代に新しい産業が始まると、地方から仕事を求めてやって来る人々に
    よって、ドイツの都市は急速に発展した。 第二次世界大戦中には、多くの都市の
    中心部が損害を被ったが、戦後の復興によって大都市は再建された。 現在8,057
    万人の人口のうち、85%が都市に住んでいる。 これはヨーロッパでも随一の都市
    集中率である。

    【ハンブルグ】
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    人口170万人のハンブルグは、エルベ川のほとりに位置する北西ドイツの都市
    である。 810年にカール大帝により建設された時には『ハマブルグ』と呼ばれて
    いた。 12世紀には、北ヨーロッパの貿易共同体であるハンザ同盟に加盟し、
    これが解散した後も、ドイツの主要港として、『自由ハンザ都市ハンブルグ』
    という歴史的名称を名乗り続けている。

    ハンブルグの工業地帯では船舶、鉄製品、鉄鋼品、化学製品、光学機器、材木などが
    製造されている。 工業地域が広範囲に及び、また、大規模な港の設備があるにも
    関わらず、年の半分以上は緑で覆われ、公園も多い。

    【ミュンヘン】
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    バイエルン州の州都であるミュンヘンは、人口123万人で、芸術的な活気であふれた
    都市で、コンサートホール、劇場、美術館などは市の後援を受けている。 また、
    ドイツの巨大なビール産業の中心地であり、年に1度のビール祭り『オクトーバー・
    フェスト』は、世界各地からやって来る人々で賑わう。 この他、ミュンヘンでは
    自動車、飛行機、電子機器などが製造されている。

    【ケルン】
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    ドイツ最古の都市のひとつである人口100万人のケルンにまず移り住んだのは、
    古代ゲルマン民族のウビィー人であった。 現在ケルンで最も有名な建造物は、
    完成までに600年もの年月を要したケルン大聖堂である。 主な産業は化学製品、
    繊維、自動車、チョコレートであり、有名な香水『オーデコロン(ケルンの水)』は
    18世紀にこの地で初めてお目見えした。

    【フランクフルト】
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    ハプスブルグ家出身の多くは、フランクフルトの大聖堂で戴冠式をあげた。
    また、マイン川沿いのこの街は、ドイツで始めて選挙によって議員が選出された
    地でもある。 商工業の中心地であるフランクフルトには、皮革製品、薬剤、
    化学製品の工場があり、金融の中枢として、ドイツの中央銀行や証券取引所の
    本部が置かれている。 また、毎年開かれる国際書籍市には、多くの作家、
    編集者、出版業者が訪れている。

    【ドレスデン】

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    10世紀に開発が始まった人口50万人のドレスデンは、後にドイツの強力な国家
    ザクセン王国の首都となる。 美しい教会や人目を引く宮殿があるこの都市は、
    1800年代後半に製造業の中心地となった。 しかし、1945年の空襲により、
    建物のほとんどが瓦礫と化してしまい、現在建築家たちが教会や記念碑の再建に
    務めている。 また、近くにある街マイセンでは、1713年にヨーロッパ初の
    白色硬質磁器が作られた。

    【ライプツィヒ】
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    ドレスデンから北東およそ100km行ったところには、人口50万人のライプツィヒが
    ある。 河川や鉄道で巧みに連携されているこの街は、かつてはドイツの出版業の
    中心地であった。 現在は、多くの見本市が開催され、世界中の製造業者が訪れて
    いる。 ライプツィヒの工業には鉄鋼、化学製品、プラスチック、繊維、衣類など
    がある。

    【お勧めの一冊】


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    ドイツの首都ベルリンでクリスマス・マーケットにトラックが突っ込み、これまでに
    12人が死亡し、48人が重軽傷を負った。 ベルリン警察は、トラックが意図的に
    突っ込んだ事件だと断定し、現在調査を行っている。

    事件があったのは2016年12月19日午後8時頃で、クリスマスを控えて最も
    にぎわう時間帯だった。 地元メディアなどによると、トラックは人ごみの中を時速
    60キロ以上で突き進んだという。



    警察はトラックを運転していたとみられる男の身柄を拘束して取り調べている。
    地元メディアによると、男はパキスタン国籍の男とみられている。 ドイツの南部を
    経由して今年の2月に入国した難民とみられ、その後、微罪を犯した履歴が残って
    いるという。 警察は男が難民登録をしていたとみられる収容施設を20日朝から
    捜索しているという。

    更に、このトラックの助手席からは、1人の遺体が発見された。 地元メディアに
    よると、遺体はポーランド人で、トラックに付けられていたのも、ポーランド
    ナンバーで、運送会社は、『ベルリンに資材を運ぶ予定だったが、運転手と連絡が
    取れない』という。

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    ドイツのメルケル首相は、この事件をテロ攻撃と見なして、各当局が作業を進めて
    いると明らかにし、加害者に裁きを受けさせるため法を全面的に行使すると
    宣言した。 メルケル首相はベルリンで全国向けのテレビ演説を行い、19日夜に
    発生した『恐ろしく、想像を絶する』事件によりドイツ全土が悲しみに暮れて
    いると発言。 20日午後に現場を訪れる計画だと語った。 更に『犯人が、保護・
    難民認定を求めていた者だとしたら、皆にとって特に耐え難いことだと認識して
    いる」と語った。

    トラックの前にいる警察官と比較すると、かなり大型であることがわかる。
    トラックは12月19日夜、突然、ベルリン中心部のクリスマスマーケットに
    突っ込み、屋台や店舗などを次々となぎ倒した。

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    その後、過激派組織『イスラム国』が、犯行声明を出している。 警察は、
    事件が計画的犯行である見方を示し、その解明を急いでいる。

    【お勧めの一冊】


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    2016年6月20日、ドイツ連邦共和国の首都がそれまでのボンからベルリンへ
    移転してから25年が経過した。 第2次世界大戦後、ドイツは東西に分断され、
    西側はドイツ連邦共和国、東側はドイツ民主共和国となった。

    東西分断前の首都であるベルリンは、旧ソ連の統治下である旧東ドイツ領内
    にあり、飛び地である西ベルリンに西ドイツの首都を置くことは到底不可能
    だった。 そのため、西ドイツは議論を重ね、1949年5月10日の議会代表会議に
    おいて、首都機能を暫定的にボンに置くことを決めた。

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    それから約41年の長い年月を経て、1990年にドイツは再統一を果たした。
    そして、今からちょうど25年前の今日1991年6月20日に、ボンの連邦議会に
    おいて、ベルリンにドイツ連邦共和国の連邦政府を置き、再び首都とする
    ことを、338対320の18票差で決議した。

    1994年には、『ドイツ統一の完成のための1991年6月20日の連邦議会決議の
    実施に関する法律』(ベルリン・ボン法)が制定され、多くの省庁が
    ベルリンへと移転した。

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    最も印象的だったのは連邦議会の移転で、ベルリンの国会議事堂の大改修
    工事を終えて、ベルリンへ移転したのは、首都決定から8年後の1999年の
    ことであった。

    ベルリン・ボン法には、長らく暫定首都を務めたボンには、適切な補償が
    行われる旨が明記されており、ボンはドイツで唯一の『Bundesstadt(連邦市)』
    と定められた。 首都がベルリンに戻された現在でも、ボンには連邦国防省、
    連邦教育・研究省など6つの省が置かれている。

    【首都機能移転の経緯】
    1990年 東西ドイツの統一
    1991年 連邦議会ベルリン移転決議
    1994年 ベルリン・ボン法の制定(首都機能移転の基本法)
    1999年 ベルリン移転の実施(9月1日)

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    ドイツの首都ベルリンで、イラク難民のザイドさん(23)はスプーンとしゃもじを
    手に、グヤーシュ(ハンガリー風シチュー)とジャガイモがいっぱい入った大鍋の
    ふたを持ち上げた。 仕事のシフトの始まりだ。

    午後6時半から8時まで、ザイドさんはベルリン市に雇用され、スポーツセンターの
    ホールに集まるシリアやイラク、アフガニスタン、モルドバ出身の難民152人に
    夕食の配膳を行っている。 このスポーツセンターは、新たにドイツに到着する
    人々向けの緊急宿泊施設に様変わりした。

    ザイドさんはこのビーフシチューに何が入っているのか、いぶかしむような目で
    集まった人々に対して説明を試みていた。ザイドさんは『非常にドイツ的』な
    シチューだと言う。

    自転車の修理や植木の剪定、歩道の清掃といった業務をわずか1ユーロ(約120円)
    余りの時給で請け負っているザイドさんのような難民は数千人に上る。 この
    いわゆる『1ユーロジョブ』制度は、ドイツの労働市場に新たに加わろうとする
    人々の足掛かりとなるとうたわれているが、識者らは以前からその有効性を
    疑問視している。

    食卓を整え、パンを切り、料理を皿に盛り、そして片付ける。ザイドさんの時給は
    1.05ユーロ(約130円)だ。 就労が許されているのは週20時間までと制限されて
    おり、月給は頑張っても84ユーロ(約1万300円)にしかならない。 難民申請の
    審査結果が出るのを待つ間、当座の生活費として支給される143ユーロ
    (約1万7600円)のわずかな足しになる程度だ。

    イラクの首都バグダッドから南へおよそ100キロに位置するヒッラ(Hilla)から、
    父親と妹と共に半年前に逃れてきたというザイドさん。 月収はドイツ人の平均
    賃金に比べればごく少額だが『ドイツ人の配膳ボランティアと触れ合えるので、
    ドイツ語を話す機会にもなる』と、喜んで取り組んでいる。 

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    ■ベルリン市は約3,900人を雇用
    難民申請の審査には、数か月とはいわずとも、数週間はかかるケースが多い。
    その間、普通の就業は認められていないため、難民申請者らの多くは待ち時間に
    うんざりしている。 この問題を回避しようと、当局が活用を決めたのが、この
    1ユーロジョブ制度だ。

    元は10年前、長期失業者の再就職を後押しする目的で発案されたもので、昨年
    110万人という記録的な数に上った難民の受け入れにつながればと活用されている。

    ベルリン市は現在、75か所のセンターで生活する3,925人の難民を雇用している。
    今後はホームレス支援団体やアルコール依存症のリハビリ施設など、公共サービスを
    提供する機関での雇用にも適用を広げたい考えだ。

    一方、中部ハノーバー市では新たに同市に来た人々に対し、自転車の修理や寄付
    された服の仕分け、幼稚園児の送迎補助といった仕事と引き換えに、ドイツ語教室を
    受講できる制度を導入している。

    アンドレア・ナーレス(Andrea Nahles)労働社会相は、難民向けにこうした雇用
    10万件分を創出すると約束。こういった仕事が、労働市場に参入していくための
    『トランポリン』の役目を果たすと説明している。

    同国RWI経済研究所の経済学者、ロナルド・バッハマン(Ronald Bachmann)氏は
    AFPに対し『難民がこういう形でなければ働けないことを鑑みれば、短期的には理に
    かなっている』と述べた。 記録的な数の難民が流入していることに伴い、反移民の
    ポピュリズムが台頭する中『彼らに仕事をさせれば、良い政治的シグナルにもなる』
    と述べている。

    とはいえ、バッハマン氏は、この1ユーロジョブ制度が本来の狙いである長期
    失業者の再就職支援で功を奏してきたとは言えない点を指摘し『こういう仕事から
    学べることはほとんどなく、労働市場へ戻る一助になることはごくごくまれだった』
    と述べている。

    出典:AFP

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    ドイツの現在の首都であるベルリンは、冷戦時代には、この地を巡って
    アメリカを中心とする西側グループと、旧ソ連をリーダーとする東側
    グループが対立していた。 この対立が発展した事件が、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)である。

    ベルリンは、ドイツの北東部にあり、約340万人の人々が住んでいる
    ドイツ最大の都市。 ドイツは、第二次世界大戦に敗れ、戦争に勝った、
    アメリカ、フランス、ソ連の4カ国によって占領された。 東はソ連に、
    西はアメリカ、イギリス等に占領された。 ドイツの首都であった
    ベルリンは、東ドイツの中にあったが、首都であったため、4つの区域に
    分けられて、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連が、それぞれの担当
    区域を管理した。

    ドイツをどのように管理するのかについては、アメリカとソ連は、当初
    から対立していたが、1948年3月20日、ソ連は、アメリカやイギリスの
    主張に反発して、話し合いの場から脱退してしまった。 その後、アメリカ、
    イギリス、フランスの軍隊が東ドイツを通って、西ベルリンへ陸上移動
    する際には、ソ連は、それを検査する権限があると主張し、西ドイツ地域
    からベルリンへ送られて来る郵便や品物を制限した。

    MapGermany

    ソ連によるベルリン封鎖
    1948年、アメリカ、イギリス、フランスが、西ドイツでの通貨改革を
    西ベルリンでも行おうとしている事に対して、ソ連は猛反発し、鉄道や
    道路、河川を通じて西ベルリンを行き来出来ないようにした。 更に、
    ソ連は、西ベルリンに向けての食料、燃料、衣料品、電力の供給も停止した。
    こうして、ベルリンは封鎖された。

    これに対して、アメリカ、イギリス、フランスは、当時約200万人居た
    西ベルリン市民への全ての物資を空輸によって補給した。 ベルリンの
    封鎖が解かれる1949年5月まで、この空輸は約27万回、空輸した物資は、
    総計200万トンを超えたと言われている。 1949年3月、国連の場で
    アメリカとソ連がベルリンの問題について話し合いを行い、5月、1年間
    続いたベルリンの封鎖がようやく解かれた。

    封鎖されている間に、ベルリンでは、東と西に2つの異なる行政組織が
    出来上がった。 1949年3月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ
    (ドイツ民主共和国)が建国された。 そして、この時点で、東と西の
    2種類の通貨が出回っていた。 ドイツは、第二次世界大戦後、西ドイツと
    東ドイツに分断されただけではなく、この事件によって首都ベルリンも
    東西に分割されてしまった。 この一連の出来事を、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)と呼ぶ。

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    東西ベルリンの問題は、ベルリン危機以降も、冷戦の最前線となった。
    1961年には、東西ベルリンの境界線上に、43キロメートルにも渡る
    ベルリンの壁が作られた。 1970年代に入ると、東西ベルリンの緊張関係は、
    和らぎ始め、東ドイツも少しづつ西側に開かれた社会となった。 すると、
    東ドイツでは、社会主義体制に不満を持つ人々が増えて行った。 その後、
    1989年には、東ドイツ市民が西ドイツへ大量に流出し始め、ついに、11月、
    ベルリンの壁が崩され、東西冷戦は終わりに向けて、大きく進んだ。

    1990年に、ドイツが統一した事によって、ベルリンも統一され、統一
    ドイツの首都となった。 その後、しばらくは、分断の影響が強く残って
    いたが、それらの問題も次第に克服され、EU内でのドイツの地位は不動の
    ものとなった。

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    ドイツを代表する『パンクの母』こと、ニーナ・ハーゲンは、有名女優のエヴァ・
    マリア・ハーゲンと脚本家ハンス・オリヴァ・ハーゲンの娘として、ベルリンで
    生まれた。

    父方の祖父は、ユダヤ人の銀行家・経済学者であったが、1942年にユダヤ人強制
    収容所で死去している。 ニーナの養父となったのは、母親と一時同棲していた事の
    ある高名な詩人、ヴォルフ・ビーアマン。 裕福な家庭の令嬢が、何を理由に、
    エキセントリックで過激なパンクを歌うようになったのかは、本国ドイツでも謎と
    されている。



    元々は、旧東ドイツで女優を志していたが、演劇学校の入学試験であえなく不合格
    となった。 この時期から、ポーランドでバンドのボーカルとして活動を開始し、
    1974年に歌手養成コースを修了した後は、ドイツ国内のバンドである『
    アウトモビール』に参加。

    その後、アウトモビールは、彼女のバックバンドと化して行く。 1975年に
    アウトモビールを脱退した後は、別のバンドでの活動を開始するものの、1976年に
    音楽家のヴォルフ・ビーアマンが、旧東ドイツ政府により市民権を剥奪されると、
    公然とビーアマン支持を行い、国外での演奏活動の帰りに旧東ドイツから再入国を
    拒否されたため、そのまま西側へと亡命し、イギリスへと渡った。



    1977年の秋には、イギリスから旧西ドイツに帰国後し、ニーナ・ハーゲン・
    バンドを結成。 世界的なヒットを飛ばすも、4人のバックミュージシャンとの
    間に埋めようのない確執が生じた。 この時、 レコード会社とは既に二枚目の
    アルバムの契約が締結されていたため、アルバムのレコーディングは、バックの
    演奏とは別に、歌の追加録音という不規則な形で行われた。 80年代には、
    独自のUFO論を前面に押し出し、1985年3月には、日本での公演も実現している。

    1998年、演出家ベルトルト・ブレヒトの生誕100年に際し、ようやく生まれ故郷の
    ベルリンへと戻った。



    ニーナ・ハーゲンの特長は、エキセントリックでスピリチュアルな感性、歌詞の
    メッセージ性、並びに、並外れた歌唱力だが、ドイツ国内では、絶大な人気を誇る
    ものの、それ以外の国々では、本国ほどの成功を収められていない。



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    1989年のベルリンの壁崩壊から、25年が経過した。 統一直後のベルリンは、旧東独に
    入った途端、急に暗い雰囲気になったものだが、ここ数年間の大々的な再開発事業により、
    その見た目も西側とさほど変わりがなくなった。
    img_554
    ベルリンには、元々『中央駅』はなく、東西分裂時には、『動物園駅』が西側の終点駅
    だったが、今では、単なる通過駅になってしまった。 見た目は変わってしまったが、
    東西の統一後も、心情的な壁はまだ残されたままで、分断されていた時間が長かった
    分だけ、真の統一までには、それと同じ長さの時間が必要なのかも知れない。

    ベルリンの壁崩壊から25年


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