多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:ベルギー

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    ベルギーと言えば、チョコレートとワッフルが非常に有名だが、最近では種類が
    非常に豊富なベルギービールも人気となっている。

    ベルギーが発祥とされるものの中でも、日本で最も馴染みがあるものと言えば、
    フライドポテトだが、このフライドポテトは、イギリス英語ではチップス、
    アメリカ英語ではフレンチフライズ、フランスやドイツではポム・フリット
    (ドイツではポンメスとも言う)、フライドポテト発祥の地ベルギーでは
    フリッツと呼ばれており、大人気の国民食となっている。

    日本では脇役のイメージが強いフライドポテトだが、ベルギーではレストランで
    料理を注文すると、パンでなく、フライドポテトが出て来るのが普通であるため、
    正に主食のような食べ物となっている。 国際連合食糧農業機関の統計データに
    よると、ベルギーの1人当たりのじゃがいも年間消費量は約76キログラムで、
    日本の3倍以上となっている。

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    ベルギー・フリッツは、元々は、魚を揚げたものだったが、17世紀のベルギー
    南部ワロン地域の都市ナミュールで、17世紀中頃に起きた大寒波の際、川が
    凍って漁が出来ないため、ナミュールの村人たちは、保存食のジャガイモを
    小魚のようなスティック状に切って揚げて食べたのがベルギースタイルの
    フリッツの始まりと言われている。

    第一次世界大戦時、ベルギーとフランスの国境近くにいたアメリカの兵士たちが
    じゃがいもを揚げたフリッツを食べた際、フランス語圏だったため、アメリカでは
    『フレンチ・フライ』という名前を付けて広まったとのこと。

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    ベルギーでは、フライドポテト特製ソースやマヨネーズを掛けて食べるのが一般的
    であり、ベルギーの人口は約1,120万人だが、フライドポテト専門店が5,500店舗
    もある。 ベルギー・フリッツは、2014年にベルギー国内で無形文化遺産として
    登録された。

    ベルギースタイルのフライドポテトの作り方は、スライスしたじゃがいもを、
    最初低めの温度の油でじっくりと揚げて、次に高温で二度揚げすることで、
    中はほくほく、外はカリッとした触感に仕上げる。 揚げ油は3回フィルターした
    牛脂でなければならない。 また、ポテトの太さは、10mmと12mm四方の
    決まりがあり、じゃがいもはビンチェ種のみを使用して作る。

    また、ブルージュには、世界初のフライドポテト博物館があるほど、ベルギーでは、
    フライドポテトが国民食として愛されている。

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    ベルギーの人口は、1,000万人を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国の
    ひとつとなっている。 人口は、都市や郊外に集中し、1平方km辺りの人口密度は、
    ブリュセルとアントウェルペンで1158.3人、アルデンヌの田園地域は50.2人以下
    である。

    出生率も地域圏によって、大きな差がある。 フラマン地域圏の人口増加率は
    高く、圏外に移住する者は、極めて少ない。 これに対して、ワロン地域圏では、
    人口増加率はマイナスであり、地元生まれの親から生まれる幼児の数は、減少
    している。 しかし、この地域圏に流入する外国人が多く、相対的な人口は安定
    している。

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    【民族グループと社会構造】

    フラマンとワロンは、この国の人種と言語の区分の核心である。 フラマン
    地域圏は、西部と北部で、西フラマン、東フラマン、アントウェルペン、
    リンブルフの4州と、ブラバンド州の北部である。 ワロン地域圏は、
    ブラバンド州の南部の他、エイノー、ナミュール、リエージュ、
    リュクサンブールの4州を含む。

    両地域圏の人種的背景は、殆ど同じで、どちらも、ケルト民族のベルガエ人と、
    ゲルマン民族のフランク人の子孫である。 フラマン地域圏では、ゲルマンと
    ケルトの両文化が混合し、ゲルマン系の言語であるオランダ語が使われるように
    なった。 ワロン地域圏では、ケルト文化的特徴が比較的強く、フランス語が
    使われて来た。

    人々の約56%は、オランダ語だけを、32%がフランス語だけを話す。 両方を話す
    市民は、11%だけとなっている。 ドイツ語を母国語とする人は1%未満で、ドイツ
    との国境のリエージュ州東部に住んでいる。 どちらの地域圏でも、社会は複数の
    自立的な『柱』に分かれ、この『柱』が生活の殆どの分野の基本となる。 『柱』の
    それぞれに、独自の政党、労働組合、新聞、学校等の社会組織がある。 人々は、
    この『柱』のシステムを通して職業を見つけ、医療を受け、事業を営む。

    宗教や政治上の意見の似ている人々は、普通、同じ『柱』に属する。 ひとつの
    『柱』から別の『柱』に心を移すのは、単に、別の政党に籍を移す以上の大きな
    意味を持つ。

    この『柱』は、3つ存在し、その内訳は、カトリック、リベラル、社会主義と
    なっている。 カトリックの『柱』は、社会を横断していて、上流、中流、
    労働者の3つの階級を結び付けている。 この『柱』の中には、フランス語を
    話す人々の政党と、オランダ語を話す人々の政党が、それぞれひとつづつあって、
    両方の言語グループの利益を擁護する。

    リベラルの『柱』は、主として、中流階級の職業人が所属し、社会主義の『柱』は、
    労働者が権力を握っている。 リベラルと社会主義のどちらの『柱』にも、
    それぞれの政党内にオランダ語ブループとフランス語グループが存在する。 

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    【教育】
    言語の違いは、教育制度にも及んでいる。 教育に使われる言語は、フラマン
    地域圏では、オランダ語、ワロン地域圏では、フランス語である。 殆どの
    国民は、2つの民族言語のどちらかひとつを読み書き出来る。

    児童は、満16歳まで学校に通う。 政府は、公立、私立どちらの学校にも資金を
    支出し、教育は無料で行われる。 児童の57%は、私立学校に通い、私立学校の
    大部分は、宗教ブループが経営している。 初頭高等学校教育のための学校は、
    一般、技術、芸術、職業の各科目について教育を行う。

    大学は6つあり、職業教育の高等専門学校がいくつもある。 大学で最も古いのは、
    ルーヴァンのカトリックの大学で、1425年に創立された。 ここの図書館は、
    世界的に有名で、6世紀から16世紀におよぶ中世の資料を保管している。 元は、
    2つの民族語を併用していたが、1970年にオランダ語とフランス語に分割された。

    ブリュッセル自由大学は、1834年に創立され、宗教的な制約は全くないが、
    フランス語で教育が行われている。 その他の大学は何れも、19世紀以降に開設
    されたもので、ゲントにある国立大学は、1917年創立で、オランダ語で講座が
    開かれている。 リエージュとモンスにある大学では、フランス語で講座が
    行われている。

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    フラマンとワロンの両地域圏の対立は、地域的な小規模政党の発達を促した。
    現在の中央政府は、いくつかの政党で連立して国会内で多数を占めること
    によって成り立っている。 フラマン・キリスト教人民党は、フラマン地域圏
    では最大の政党で、これがワロン地域圏にある同じ考え方の比較的小規模な
    政党と提携して、カトリック投票ブロックを形作っている。

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    キリスト教人民党は、何人もの首相を出しており、その中には、レオ・
    ティンディマスとウィリフリード・マルテンスがいる。 マルテンスは、
    1979年に最初に首相になって以来、数回に渡り首相に選ばれた。 社会党は、
    ワロン地域圏で勢力が強く、オランダ語とフランス語をそれぞれ母国語と
    する人々の集団が、内部に作られている。 この点は、自由党の場合も同じで、
    自由党の強い支持基盤は、ブリュッセル地域圏である。

    1980年代には、失業率は増大し、物価は高騰していた。 この時期にも
    マルテンスは、首相となり、政府から緊急権限を与えられて、国の財政
    状態の改善にあたった。

    彼は、強力な経済政策を採用した。 公共投資と福祉予算を大幅に削って国家の
    負債を圧縮した。 労働者は、賃金の切り下げを強いられ、デモやストライキが
    多発した。 マルテンスは、企業への課税を減らして、生産の増大と職場の
    創設をはかり、世界市場での競争力を付けされた。

    その目的を達成するため、マルテンスは、数度に渡り、短期間、野党の地位に
    甘んじたが、いすれの場合も、新しい連立内閣を作るのに成功した。 1990年代
    初期までに、 この強力な政策は功を奏し始めたようで、ベルギーの経済情勢は、
    久しぶりに改善された。

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    この間、ECを統一した貿易ブロックに作り変えようとする計画が策定された。
    その結果、1993年には司法等の面での結び付きを強めて欧州連合(EU)へと
    移行した。 EUの本部をブリュッセルに置くベルギーは、ヨーロッパ市場の
    大変革の中心に位置している。 1993年、国王ボードワン1世の死去に伴い、
    弟のアルベール2世が即位した。 その後、アルベール2世の長子である
    フィリップが国王に即位し、現在に至っている。

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    ベルギーの戦後は、大体において繁栄した。 外国の援助を受けてベルギーは、
    製造部門を現代的なものにした。 この改良は、フラマン地域圏でめざましく
    進み、国際的な投資によって、産業は近代化され膨張した。 しかし、ワロン
    地域圏では、産業活動の改善は余り行なわれなかった。

    1948年、女性が投票券を獲得した。 これは男性が1919年以来持っている権利
    である。 ベルギー政府は、この国の社会福祉政策を推進して、一般市民を
    経済的な困窮から保護するために、年金、健康保険制度、失業手当等を創設した。
    ボードワン国王と政治的指導者達は、国際強力と世界平和への努力を強め、
    ベルギーは、国連創設のメンバーとなった。 ベルギーは、オランダと
    ルクセンブルグの両国と通商協定を結んだ。

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    ベネルクス連合と呼ばれるようになったこれら3国の小国は、合体した事で
    経済力を強めた。 3国はまた、NATO、つまり、北大西洋条約機構に加盟した。
    これは、他の大部分の西ヨーロッパ諸国も加盟している軍事防衛組織である。
    NATOは、その人事管理部門の本部をブリュッセルに置いており、NATOの軍事
    本部もベルギーのモンス市近くにある。

    ベネルクス連合の成功によって、ヨーロッパの他の国々でも経済的強力を強め
    ようとの考え方が台頭した。 後に、ECと呼ばれるようになった共同市場が、
    1957年に発足し、ブリュッセルがその人事管理上の本部となった。 ECは、
    全ての加盟国の経済政策の強調をはかり、財政投資を行って、EC加盟国の間の
    経済発展を促進することを使命としていた。

    1960年代、国連の決議によって、ヨーロッパ各国は、それぞれの植民地に独立を
    認める方針を取ることになった。 ベルギー領コンゴ(現ザイール)で騒乱が
    勃発した後、ベルギーは、この地域の独立にいち早く同意し、1962年には、
    ルアンダとブルンディに独立を与えた。

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    植民地を放棄した後も、ベルギーの経済は順調な発展を続けた。 しかし、1970年
    までに経済的な格差(特にフラマンとワロン)は、一層深刻なものとなった。
    オランダ語を話すフラマン人達は、1970年代に多国籍企業が多くの地域に近代的な
    製造工場や新しい通信網をこの地域に建設したため、めざましい発展を遂げた。

    これに対して、フランス語を言語とするワロン地域圏では、重工業が老朽化し、
    石炭の埋蔵量が底をついたため、衰退し始めた。 ワロン地域圏には戦後、外国の
    援助も資本の投資も余り行われなかったのである。

    自分達の要求が無視されていると感じたワロン地域圏の人々は、ベルギーを2つの
    独立した地域に分割する案を提起した。 ワロン地域圏に対して、財政的な責任を
    負うのを望まないフラマン地域圏の人々も、この分割案を支持した。

    ベルギー人は1970年代と80年代に、数回の国民投票を行って、憲法を改定した。
    この憲法の改定によって、地域議会が創設され、行政委員会が任命されて、財政
    資金を主要な言語地域の間で分割することが定められた。 1989年の憲法改正に
    よって、ベルギーは、フラマン、ワロン、ブリュッセルの3つの地域圏から成る
    連邦国家となり、この3つの地域圏は、これまで中央政府の有していた権限の
    多くを獲得した。

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    1930年のドイツ軍事力増強は、ヨーロッパの脅威だった。 1936年、
    ベルギーは再び中立を宣言した。 イギリス、フランス、そして、ドイツが
    ベルギーの中立の立場を承認した。 しかし、ドイツが周辺諸国を次々に併合
    したため、摩擦は避けられないものとなり、1939年に第二次世界大戦が勃発した。
    1940年5月10日、ベルギーの中立を尊重すると誓約していたにも関わらず、
    ドイツは、再度ベルギーを侵略して、フランスに攻め入った。

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    激しい戦闘が18日間続いた後、レオポルド3世は、ベルギー軍を降伏させる手順を
    取った。 ナチの軍隊が国土を占領してから後、ドイツは、ベルギーから金銭と
    商品と労働力を奪い取った。 ベルギー人達は、地下の抵抗運動を組織し、
    ベルギーの武装兵力の一部は、イギリスに逃れ、ドイツ軍に対抗する連合軍と
    合流した。

    ドイツの占領は継続されたが、1944年の夏、連合軍がフランス北部に大挙して
    上陸し、やがてベルギーは開放された。 1944年12月、退却を続けていた
    ドイツ軍は、アンデンヌで最後の大攻撃を敢行した。 これは、バルジの戦いと
    呼ばれている。 1945年5月、ドイツは降伏した。

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    レオポルド3世が戦争初期にドイツに降伏したため、ベルギーは、ヨーロッパの
    他の一部の国々が被った程の破壊を受けずに済んだ。 しかし、多くの
    ベルギー人達は、国王がヒトラーに対して、協力的であり過ぎたと感じた。
    その問題は、フラマン人とワロン人の間の分裂を深め、フラマン人は、一般に
    君主制を擁護するのに対して、ワロン人は、国王は王位を捨てるべきだと要求した。
    レオポルドは、戦後の混乱期をベルギー国外で過ごし、1951年に王位を放棄した。
    息子のボードワン1世が後を継承した。

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    20世紀初頭までに、ベルギーは、社会的に安定して来たが、政治的、宗教的、
    言語的な面では、分裂した社会でもあった。 人々は何らかの宗教グループか
    政治的党派に属していた。 宗教的グループであるカトリックと、政治的党派で
    ある自由党は、『柱』と呼ばれる制度を採用して、それぞれ別個のグループを組み、
    平等の立場で社会生活を営むようになった。

    『柱』は、あくまでも自立したもので、教育制度、文化施設、労働組合、言語、
    医療サービス、社会サービス等の機関を別個に持っていた。 それぞれの『柱』の
    中では、別個の政党が組織されて、政府に影響力を行使し、『柱』同士の紛争を
    解決した。 これによって、『柱』のメンバー達の要求は処理され、政府に対する
    民衆の不満は大幅に回避する事が出来た。

    大部分のベルギー人は、経済的な安定を望み、そのためには、ヨーロッパでの
    平和が不可欠だと考えていた。 さまざまな国家間条約が結ばれて、列強の
    間での勢力の均衡が図られた。 戦争の危機を避けるため、ベルギーは、
    ヨーロッパの他の幾つかの小国と同じように、中立国を宣言していた。 これは、
    どんな戦争にも加担しない事を意味した。 しかし、このやり方は失敗し、
    1914年に戦争が始まった。

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    【第一次世界大戦】
    第一次世界大戦では、イギリス、フランス、イタリア、ロシア等の連合軍が、
    ドイツ、オーストリア等の同盟国と戦った。 1914年8月、ドイツ軍は、
    フランスに攻め込む過程で、ベルギーを侵略した。 戦争の全期間を通じて、
    ベルギー側の手に残っていたのは、西部の細長い地域だけだった。 占領された
    地域は、戦争により、徹底的に破壊された。 イーペルだけでも、3回もの
    激戦場となった。 ベルギー南部とフランス北部の長期の戦闘で、何十万人
    もの兵士が命を失った。 それでも、数千人ものベルギー兵が、1918年の
    ドイツの敗北まで連合軍と共に戦い続けた。

    戦後、ベルギーは、国際連盟の創設に力を貸した。 これは、世界的な国際
    組織で、戦争の防止を目標としていた。 国際連盟は、アフリカにあった
    ドイツの植民地ルアンダとウルンディ(現在のブルンディ)を、ベルギーの
    委託統治領とした。 ベルサイユ条約によって、第一次世界大戦は、正式に
    集結し、サンヴィット(現在は、何れもリエージュ州東部に所属)を獲得した。

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    1930年代の世界恐慌は、経済を再建しようとするベルギーの努力に水をさした。
    失業率は増加し、法と秩序と経済的安定を看板に掲げた政治運動が、いくつも
    起こった。 その中で、最も強力だったのが、ナチスで、アドルフ・
    ヒットラーの指導の下に、ドイツで勢力を振るった。 この頃、ベルギーでは、
    1934年にレオポルド3世が国王となり、安定した君主制が続いていた。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

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    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    反乱軍の勝利に抵抗し、スペイン軍は、1576年にアントウェルペンを略奪した。
    ベルギーを含む全ネーデルランドは、カトリックもプロテスタントも協力して
    スペインからの独立を決意した。 まず、内部の宗教的な対立を解決する必要上、
    1576年、各州の代表達は、ゲント盟約を結び、宗教の自由を法的に定めた。

    1577年、ネーデルランド諸州は、満場一致で、フェリペ2世が全スペイン軍を
    撤退させて、宗教的自由を認めない限り、スペイン側の新しい総督、
    オーストリアのヨハンを認めないと宣言した。 フェリペはこの条件に同意した。
    しかし、各州の連合は短命に終わった。 主にカトリック教徒の多い南部諸州の
    指導者達は、北部諸州を支配下に収めたカルヴァン主義者達に対して、根強い
    不信感を持っていた。 1579年、南部のカトリック系諸州のいくつかが、アラス
    同盟を組織してスペイン王の権威を受諾した。 南部諸州の分裂は、2、3週間後、
    北部諸州がスペインからの独立を宣言するに至って、ますます深くなった。

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    1580年代には、新任のネーデルランド総督アレッサンドロ・ファルネーゼが、
    ネーデルランド諸州での宗教的分裂を利用して、ゲント、ブリュッセル、
    アントウェルペンの3市を征服した。 3市のいずれにもフォルネーゼは、
    プロテスタント達が自発的にその都市を出て、北に移住することを認めた。
    しかし、スペインの北部諸州を再占領しようという試みは成功せず、北部諸州は、
    ネーデルランド独立連合諸州を名乗るに至った。 これが、後のオランダ
    である。

    独立連合諸州の産業は繁栄し、オランダのいくつかの港湾都市は間もなく、
    交易の中心地としてのアントウェルペンの地位を奪った。 その間に、スペインは、
    オランダとの戦争の経費を調達するため、南部諸州に重い課税を課したので、
    諸州の経済状態は、悪化した。

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    【戦争の被害】
    こうして、ネーデルランド南部諸州は、オランダとは異なった道を歩むこと
    となり、これが、現在のベルギーの成立に繋がった。 ベルギー領域は、
    スペイン系ハプスブルグ家の領土として残り、1633年、国王フェリペ4世の
    統治下に入った。 フェリペ4世は、30年戦争(1618~1648)の最終段階で、
    ベルギー領域を戦乱に巻き込んだ。 フランスは、オランダ等と協力して、
    最終的にスペイン軍を敗北させた。

    この勝利によって、オランダは、戦後の平和条約で有利な条件を獲得した。
    スヘルデ河口を含むブラバンド州都フラマン州の一部は、オランダに与えられた。
    オランダは、地域の商業上の優位を確保するため、アントウェルペンの港を
    封鎖し、ベルギー領域の経済は、更に衰退した。 30年戦争が終わっても、
    領域内のフランスとスペインの敵対関係が続いた。

    17世紀の後半、フランスは、ベルギー領域を南部から少しづつ併合して行った。
    1678年、フランスは、イーペルとゲントの両都市を占領した。 1697年、
    ライスワイク条約によって、フランス軍のベルギー占領は、最終的に集結した。
    50年間、フランスとスペインの戦場となったベルギー南部の広い地域は、廃墟と
    なってしまった。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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    1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
    ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
    代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
    ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
    この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
    影響力は衰えた。

    1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
    代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
    掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
    ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
    これを鎮圧した。

    1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
    カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
    1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
    植民地等、広大な領地を継承するに至った。

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    【カール5世とカルヴァン主義】

    カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
    交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
    ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
    植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
    この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

    カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
    これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
    大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

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    この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
    始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
    スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
    しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

    16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
    呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
    ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
    厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
    アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
    組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
    カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

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