17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

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1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
他ならなかった。 

もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
領域に入ることが決定された。

ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
失ったのではないという解釈もある。

フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
ことが出来る。

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