多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:プロテスタント

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に
    司法、警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、
    1998年に結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに
    渡るプロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々が
    テロの犠牲になった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

    ukirland

    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教
    という『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪
    だと思わせる効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。
    そもそも、イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀に
    ローマ法王がイギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに
    始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住む
    カトリック系住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の
    武装蜂起が頻発したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、
    人口の60%に当たる500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して
    行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、
    プロテスタント系の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。
    1949年、アイルランド共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のまま
    だった。 危機感を抱いたのは北部に残された少数派のカトリック系住民だった。
    彼らは、イギリス自治権を要求したが、これを押し潰そうとする多数派の
    プロテスタント系住民と衝突した。

    img2m

    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めた
    ことに反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という
    武力組織を結成、イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団
    だとするイギリスと、イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの
    間で、一切の妥協はなく、犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなった
    とは言え、北アイルランドは紛争では、被害者が出なかった家族はないと言われる
    程癒しがたい傷を残した。

    住民達は今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ
    亀裂も深く、本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

    176166410138

    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

    Swissmap

    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1588年、若くて人気のあるクリスティアン4世が王位に就いた。 王は、
    コペンハーゲンの市街を拡張し、株式交換所や、フレゼレグスボア城など、多くの
    華麗な建築物を建造させた。 しかし、クリスティアン4世の領土的な野望は、
    やがてこの国の財政を重く圧迫することになった。

    1611年、クリスティアン4世は、スウェーデンと戦争を始めたが、敗北の
    連続で、経費ばかりがかさんだ。 1613年から1618年に至る5年間の平和により、
    デンマークの経済力は回復した。 1618年にドイツで三十年戦争が始まると、
    クリスティアン4世とその軍隊は、ドイツのプロテスタント勢力を助けて、
    カトリックの軍と戦った。

    1626年、デンマーク軍は、ドイツのハルツ地方で大敗北を喫した。 3年後、
    ドイツのカトリック諸侯軍は、ユトランド半島を占領し、クリスティアン4世は、
    和議を結ばなければならなかった。 1643年、スウェーデンがデンマークを攻撃し、
    デンマークは、またもや敗北した。

    helsingborg

    1648年に講和条約が結ばれ、デンマークは、ゴットランド島をスウェーデンに
    返還し、現在スウェーデンの中央部となっているイェムトランとヘレダーレンを
    割譲した。 デンマーク海軍は壊滅し、貿易は衰退して国力は傾いた。 元老院は、
    クリスティアン4世の息子フレゼレグ3世を国王に選ぶに先立って、王権に厳しい
    制限を付け、勝手に戦争をする事を禁じた。 それにも関わらず、フレゼレグ
    3世は、1657年、失われた領土を回復しようとスウェーデンに攻撃を加えた。

    1658年、スウェーデン軍は氷結したエーレ海峡を渡ってデンマークに攻め込み、
    フレゼレグ3世は、講和を余儀なくされた。 その結果、デンマークは、
    ノルウェーのトロンヘイム地方を割譲した他、スコーネとボルンホルム島を
    スウェーデンに譲渡した。

    1660年、スウェーデンとの戦争が再度勃発し、オランダと同盟したデンマークが
    有利となった。 講和条約によってスウェーデンは、トロンヘイム地方と
    ボルンホルム島をデンマークに返還したが、スコーネなどエーレ海峡東岸地域は、
    最終的にスウェーデンの領土となった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

    20080508

    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

    90753cbf04f

    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    貴族のグスタフ・エリクソン・バーサは、『ストックホルムの大虐殺』を免れ、
    軍隊を組織し、クリスチャン2世をスウェーデンから追い出した。 これにより、
    カルマン同盟は崩壊した。 1523年6月6日、グスタフは、スウェーデン国王に
    選出された。 スウェーデンでは、この日を建国記念日として、今も祝っている。

    グスタフは、君主制を強化し、軍隊も変えた。 それまでの軍隊はたいてい、
    戦争が起きると招集され、戦いが終われば家に帰された。 しかし、グスタフの
    軍隊は、戦争があろうとなかろうと、常に集団をなしていた。 ヨーロッパの
    キリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂した時、グスタフはルター派
    というプロテスタントの一派を選んだ。 カトリック教会の財産と土地支配権は、
    国のものとなった。

    Gustav

    それまで、スウェーデン国王は、貴族から選出されていた。 1544年、議会で
    法律が変えられ、国王の子孫が王位を継ぐことになり、グスタフの一族による
    バーサ王朝が1818年まで続いていた。 1600年代には、グスタフ2世アドルフを
    はじめとする王たちが、バルト海周辺の土地を征服し、スウェーデンをヨーロッパ
    屈指の強国にした。 しかし、1709年、スウェーデンは、ロシアに敗れた。
    その10年後、国王の権限の多くが議会に移された。

    1700年代、ヨーロッパの思想家たちは、人間は理性を用いることによって、知識と
    自由を探求するべきだと主張した。 この啓蒙思想と呼ばれる考え方を持つ人達の
    中には、植物学者のリンネウスや物理学者のアンデルス・セルシウス等の
    スウェーデン人もいた。 国王グスタフ3世は、芸術の黄金時代を支えた。 グスタフ
    3世は、議会から権力を奪い返したが、敵も多く、1792年に舞踏会で暗殺された。

    1805年、国王グスタフ4世は、フランスに対抗するヨーロッパ諸国の同盟に
    加わった。 当時、フランスを率いていたのは、ナポレオンと同盟を結んだ
    ロシア軍が、13世紀からスウェーデンの領土になっていたフィンランドの大部分を
    占領した。 この敗北の後、グスタフ4世は、王位を退くことを余儀なくされた。

    新国王カール13世には子供がいなかった。 スウェーデン議会は、フランス軍人
    ジャン=バティスト・ベルナドットを皇太子に選出した。 彼の率いるスウェーデン
    軍とその同盟軍は、1813年にナポレオンを破った。 和平調停の中でノルウェーは、
    スウェーデンの支配下に置かれることになり、スウェーデンとノルウェーの同君
    連合が1905年まで続いた。 ベルナッドは1818年、カール14世として即位した。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

    d8836f6413

    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

    d8920a

    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    エリザベス1世には、子供がなかった。 女王が死ぬと、いとこで
    スコットランド王のジェームズ6世が王位を継ぎ、イングランド王ジェームズ1世
    となった。 これによって、イングランドとスコットランドが初めて統一された。
    しかし、この国は不安定だった。 ヘンリー8世がローマン・カトリック教会を
    離脱したことで、宗教問題が起きていたのだ。

    国教は、プロテスタントだったが、多くの人々は、カトリックのままでいたいと
    思っていた。 また、プロテスタントの中にも、拝礼の方法について、異を
    唱える派があった。

    201586

    その中の有力なグループが、清教徒だった。 彼らは、神以外の全ての影響を
    排除して、宗教を純粋なものにしようとした。 清教徒の中には、信仰の自由を
    求めて、イングランドを離れる人達も居た。 その多くは、オランダやアメリカに
    移住した。

    イングランドでは、宗教の違いによって、王と立法機関である議会との間に争いが
    生じた。 内乱が起き、議会派が勝利した。 1649年に議会の命によって、
    チャールズ1世が打ち首に処せられ、議会が国の実権を握った。 1660年になって
    ようやく、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が次の王位に就くよう要請された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【宗教改革と反乱】
    ハプルブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民たちは、
    領主から強制される過酷な労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を
    構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に
    分散したハプスブルク家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。 この頃、ドイツ北部やスイスでは、
    ルター等の主張する宗教改革の運動が盛んで、プロテスタントと呼ばれる新しい
    宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、この運動を教会の領地や
    財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と考えていた。

    kaikakugo

    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応集結した。
    この和議で、ドイツの君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認め
    られた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。 神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール
    5世は、この和議に不満で、翌年退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。
    ハプスブルク家の大領土は、これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに
    分かれることとなる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックとの対立関係は、なおも続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、大半の住民や聖職者は、強力な君主制とカトリック教会に
    好意をよせた。 ハプスブルク家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

    16世紀、当時のハプスブルク家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ボヘミア王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ボヘミアの
    プロテスタント達は、別の領邦の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にべーメンの反乱軍を打ち破った。
    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い反乱が続いた。

    ハプスブルク家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント2世の後継者、フェルディナント3世は、紛争から
    手を引くことにした。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの
    君主達が領邦内の宗教を選択する権利を再確認した。

    【領土拡張と内政改革】
    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲した
    ので、ハプスブルク家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、
    オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺から、トルコ
    軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリー等の東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルク家の繁栄に対して、スペイン系ハプスブルク
    家は、血統が途絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫を
    スペインの王位に据えようとしたため、オーストリアとフランスとの間に
    戦争が始まった。 スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に
    終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド等を
    勝ち取った。

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を
    消耗させた。 その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と
    経済的弱体が著しかった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、
    カールは、それをうまく支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの
    意志に反抗し、ハンガリーとボヘミアの自治を求める動きは、彼の権威を
    損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機に
    さらされた。 カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘であるマリア・
    テレジアをハプスブルク家の後継ぎとして宣言した。 1740年にカールが
    死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。 その直後、ドイツ北部の
    プロイセン王国のフリードリヒ2世は、ボヘミアの富裕な属州シュレージエンの
    割譲を要求して、オーストリアに攻め込んで来た。 フランス、スペイン
    等の諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    mariateresia

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは、
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアは、
    その後シュレージエンの回復を図って七年戦争を起こしたが、この戦争も
    1763年にフリードリヒの勝利に終わった。

    七年戦争の結果、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが、彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアは、また、法律を改革し、カトリック教会の
    資産を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられるようにし、
    義務教育を導入した


    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を多閉鎖し、侵攻と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は、更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから開放した。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成した。 その集団の中でも、
    最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、800年から1806年
    まで存続した。

    神聖ローマ帝国は、ローマ教皇によって、カール大帝が西ヨーロッパ全域に
    またがる帝国の皇帝として戴冠した時に始まる。 数世紀に渡る歴史の中で、
    神聖ローマ帝国の領土が現代のドイツと重なる時期が何度かあった。
    神聖ローマ帝国は、15157年、改宗に続いて、プロテスタントがドイツで誕生
    した後、カトリックを保護するために力を尽くした。

    最後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は、1806年に退位した。 フランスの
    ナポレオン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は、解体された。

    【1756年の神聖ローマ帝国】
    537993800

    【統一ドイツの誕生】
    人類が北ヨーロッパに定住し始めたのは、およそ1万年前、最後の氷河期が
    終わった後のことだ。 約5,000年前には、現代のドイツ語に似た言語を話す
    最初の人々がこの地域に住んでいたと考えられる。 しかし、ドイツという国が
    出来るまでには、それから何千年という年月が掛かった。 1871年になるまで、
    ドイツは、国王や諸侯が治める小さな領邦国家の寄せ集めだった。 これら
    領邦国家の多くは、神聖ローマ帝国の一部でもあったが、国民全員がドイツ語を
    話し、多くの伝統を共有しているとは言え、それぞれがハッキリとした独自性を
    保っていた。

    領邦国家の間には、しばしば戦争が起こり、特に宗教改革後は、それが増加した。
    宗教改革を切っ掛けに、キリスト教の新しい宗派が生まれ、ドイツを、そして、
    ヨーロッパ全体を2つに引き裂いた。 ドイツの領邦国家のうち、プロテスタントに
    改宗した者もあれば、そのままカトリック教会に従う者もあった。

    【1871年のドイツの国境】
    d0550

    1871年に、ドイツででは大幅な変化が起きた。 領邦国家の中の強国
    プロイセンの政治家オットー・フォン・ビスマルクが、いくつかの同盟と
    戦争によって、他の国々をまとめ上げた。 こうして出来た統一国家は、
    ベルリンを首都として皇帝ヴィルヘルム1世により、統治された。

    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。
    これは、これまでに世界が経験したことのない悲惨な戦争であった。

    何百万人という兵士と市民がこの戦争で生命を失った。 戦後のベルサイユ
    条約によって、ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に
    割譲させられた。 戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊された
    ものを修復する費用として、多額の賠償金を課せられた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ