多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:プロテスタント

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    フランスの人口ち経済は15世紀の後半になって、長年の疫病、飢え、戦争の
    痛手から回復した。 シャルル7世の後継者ルイ11世は、フランス貴族の力を奪い、
    租税を徴収し、王領を広げ、常備軍をつくった。

    平和と国王たちの経済政策によって、16世紀初頭には既に、商人や銀行家の中産
    階級が育っていた。 ルネサンス(文芸復興運動)がイタリアで起こり、フランソワ
    1世がフランス人の芸術家を奨励したので、フランスにも広まった。

    カトリック教に対する新教徒(プロテスタント)の宗教改革も、16世紀初頭に、
    スイスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを通してフランスにもたらされた。
    フランスのカルヴァン派新教徒ユグノーは、多くの追随者を獲得した。

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    フランスの国王とカトリック教徒は、ユグノーを王権への脅威とみなした。 国王は
    ユグノーを滅ぼそうと企て、16世紀後半には、宗教をめぐる内戦が始まり、沢山の
    死者が出た。 ローマ・カトリック教会は1572年、パリで新教徒の群集を攻撃し、
    2,000人も殺した。

    フランソワ1世の3人の孫は、母親であるアンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシス
    の強い指示で次々と王位に就いた。 最年少の孫が1589年、直径の継承者を残さ
    ないで暗殺されると、聖王ルイ9世の子孫でユグノーの指導者のアンリ・ド・
    ナヴァールが王位を継ぐ。

    これが、ブルボン朝第1代国王のアンリ4世で、新教徒の王を嫌うカトリック教徒を
    なだめるために1593年、カトリックに改宗し、1598年には信仰の自由を認めた。

    フランスは、アンリ4世時代に、再び力を盛り返した。 国王は道路と運河を建設、
    平民の税金を軽くし、貴族の土地所有を減らした。

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

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    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

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    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

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    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。 東ハンガリー
    地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの侵略から守るために、
    西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝フェルディナントを国王に迎えた。 結果、
    強大なハプスブルグ王朝の一員であるフェルディナントは、ハプスブルグの支配を
    スロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダからブラチスラバへ
    移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、更にトルコのスルタン
    から課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ移り住んだ。 彼らは、
    トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、奴隷として拘束され、ハンガリー人
    の領地に残った。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア国王
    として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。 ボヘミアの
    チェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実なフェルディナンドは
    宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を鎮圧した。
    ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】

    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックとプロテスタントの
    対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守るフェルディナンド2世が、
    1617年にハプスブルグ王家を継いだ。 フェルディナンドは、プロテスタントを領地から
    一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、チェコ人の
    反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、ハプスブルグに
    対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦でチェコ軍を
    破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから追放された。 ビラー・
    ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの国々の間で三十年戦争が
    始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、ドイツ、デンマーク、スウェーデンから
    プロテスタント軍がボヘミアに侵入した。 相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、
    街、農村は根こそぎ破壊された。 フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ
    追放し、ボヘミア議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア王国領
    ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放されたチェコ人貴族の
    領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人カトリック教徒の手に渡った。
    ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、ドイツ語が政治、教育の公用語と
    なった。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化して行った。
    フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の民族と同一だとみなしていた。
    この間に、スウェーデン語を話すフィンランド生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で
    権力を持つようになった。 地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、
    フィンランド領内の城を管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に
    最高官吏として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢のフィンランド人が
    スウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

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    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を布教し、多神教の
    フィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。 まだ大学がなかった
    16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の教育、宗教の中心地に留学
    させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・アグリコラ(1510年~1557年) は、
    ドイツのウィッテンベルグの大学で学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人にマルティン・ルターの
    革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この運動は、ローマカトリック教会の
    権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ各地で、プロテスタントのルター派が
    広まった。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

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    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、その
    世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と旧教の
    対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは中立の
    立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、スイスの独立と
    中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、国会と
    呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は定期的に
    召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、各州の重要な
    決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、ローマカトリックか
    プロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』と
    呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、フルブール、
    ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い都市州では、富裕な
    地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じだったが、
    支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、国家として
    団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか安定を保ち、
    紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の変化も
    重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、ローマカトリックの
    忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合うものが出て来る。
    それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の運営について改革を求めた。
    その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身のツウィングリという
    カトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツとフランスの改革者と共に、カトリック
    教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰のもとにするより簡素な宗教、つまり、
    プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏のスイス都市に
    伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、自分達の信仰を攻撃
    するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。 スイスは、カトリック教徒と
    プロテスタントに二分され、両者は戦いによって、その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、グラールス、
    ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒのカッペルでツウィングリの一派
    と戦った。 ツウィングリは戦死するが、後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が
    認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人のカルバンが、
    自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。 カルバンは、教会と
    政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがてジュネーヴの有力者達は、
    カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と宗教を
    組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から独立した市参事会に
    与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン(すごろくに
    似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止された。 カルバンは
    また、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学になった。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、領主から
    強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を構成する
    ドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に分散した
    ハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、トルコからの脅威に
    絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、
    この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と
    考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。 この和議で、
    ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認められた。 フェルディナント
    1世も、オーストリア領内にカトリック教会の権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年退位して、
    スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土はこれ以後、オーストリア
    系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントとカトリックの
    対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの貴族達は、プロテスタントの
    教会や大学を支持した。 だが、チロルのようないくつかの州では、カトリック教会に
    好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威の脅威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、フェルディナントは、
    ベーメン王となった。 しかし、1619年にフェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に
    選出されると、ベーメンのプロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。 ハプスブルグ
    家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来るプロテスタント教徒軍と戦った。
    戦争末期には、スウェーデン軍が勝利をおさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を
    引くことになった。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の
    宗教を選択する権利を再確認した。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に司法、
    警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、1998年に
    結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに渡る
    プロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々がテロの犠牲に
    なった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教という
    『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪だと思わせる
    効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。 そもそも、
    イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀にローマ法王が
    イギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住むカトリック系
    住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の武装蜂起が頻発
    したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、人口の60%に当たる
    500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、プロテスタント系
    の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。 1949年、アイルランド
    共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のままだった。 危機感を抱いたのは
    北部に残された少数派のカトリック系住民だった。 彼らは、イギリス自治権を要求
    したが、これを押し潰そうとする多数派のプロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めたことに
    反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という武力組織を結成、
    イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団だとするイギリスと、
    イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの間で、一切の妥協はなく、
    犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなったとは言え、北アイルランドは紛争
    では、被害者が出なかった家族はないと言われる程癒しがたい傷を残した。 住民達は
    今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ亀裂も深く、
    本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

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    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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