東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:プロイセン

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    モスクワ発ビリニュス経由の特急琥珀号でロシアの飛び地カリーニングラードへ。
    ロシアの列車の全車両には、必ず、お茶のセットが付いており、1両づつそれぞれ
    担当の車掌が付くシステム。 ヴィリニュスから1時間半程度でロシアとの国境へと
    到着した。

    リトアニアの国境駅であるキバルタイ駅での出国手続きは、何故か30分程度も
    掛かり、その後、ゆっくりとロシア側へと移動し、国境駅である
    チェルヌィシェフスコエ駅で再度ロシアへの入国手続きが行われたが、ロシアでの
    入国手続きは15分程度と比較的スムーズに行われた。 国境から20分程度で、
    州都のカリーニングラードへと到着した。

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    この日のカリーニングラード市内は、ベルギーVSイングランドの試合の日だけ
    あって、市内の至る所で渋滞だらけ。 ロシアでは値段交渉制が当たり前の
    タクシーも、料金がバラバラ過ぎて相場がつかめず。 ロシアは、『搾り取れる
    ところから搾れるだけ搾り取る』というシステムの国であるため、この日だけは
    仕方ないと諦め、通常200ルーブルぐらいだろうなと思っていたところに、
    1000ルーブルとか言われ、多少ビックリしたものの、渋滞だらけで車が進まない
    からこんな値段なんだと言われて諦めた。 その後、アプリで呼ぶYandex
    タクシーの方が安いことが判明したものの、こちらは渋滞のため、全く捕まらず。

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    カリーニングラード・バルチカスタジアムへは、試合開始3時間前に到着したため、
    ほぼ一番乗りに近い4番目での入場となったものの、何故かWiFiの持込が禁止されて
    おり、コインロッカーへ預けることとなった。 場内にある無料WiFiもロシアの
    電話番号を持っていないと利用登録が出来ないため、全く使えないという、
    矛盾をはらんでいた。

    スタジアム入場後、まずは、公式グッズを購入し、腹ごしらえをした。 会場内は、
    公式グッズ以外の販売はないため、何もかもが高い。 肝心の席は、ゴールの
    目の前で、第2期の販売開始時刻と共に購入したため、かなり良い席を確保出来た。

    試合は、ベルギーVSイングランドのため、予選大会なのに関わらず、ベルギー
    チームの大応援団が駆けつけていた。 ベルギーは、オランダ語圏とフランス語圏に
    パックリと2分されているが、何故か、オランダ語圏からの応援団が非常に多く、
    フランス語は余り聞こえて来なかった。

    試合は、2対1でベルギーの勝利だったのだが、混雑を避けるため、試合終了30分前
    には、スタジアムを後にしたため、無料のシャトルバスを使って、かなりスムーズに
    カリーニングラード北駅(カリーニングラードのメインは南駅)までたどり着く事が
    出来た。 カリーニングラードは、元々は、プロイセン建国の地であるため、一部の
    建物がドイツ風なのだが、戦争時に、かなり多くの建物が破壊され、その後再建
    された建物が多いため、そこまで、ドイツ風という感じは受けなかった。

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    カリーニングラードには、南駅と北駅があるのだが、南駅がメインの駅。
    ワールドカップ開催期間中は、至る所で手荷物チェックが行われていた。
    南駅構内にあるのは、巨大なコップホルダー(ロシア語では「ポドスタカンチク」)
    で、ロシアの列車には、必ず、サモワールとこのコップホルダーが常備されており、
    いつでも、熱いお茶を飲むことが出来る。

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    近代化に伴ってヨーロッパでは、領土や貿易をめぐる対立が激化していた。
    この対立が戦争になりかねないことを見て取ったヴェルヘルム2世は、1888年、
    権力の座に就くと、強力、かつ、近代的な海軍の組織作りを命じた。 既に、
    ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでおり、戦争になれば協力する
    ことで合意していた。 また、ドイツの戦力を恐れたロシア、フランス、イギリスは
    後に三国協商を結成、この2つの対立するブロックは、それぞれ軍隊を整備し、
    全ヨーロッパを巻き込む戦争に備えた。

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    1914年6月、オーストリア皇太子が、ヨーロッパ南東のセルビアで暗殺されるという
    事件が起きる。 これに対してオーストリアは、セルビアに宣戦布告をした。
    一方、セルビアはロシアの同盟国であったので、三国協商の国々はセルビア救済の
    ために軍隊を終結した。 ドイツもオーストリアとの同盟の下、戦時体制を敷き、
    8月、ヴィルヘルム2世はフランスへの進軍を命じた。 こうしてヨーロッパの
    国々の対立は、第一次世界大戦(1914~1918年)へと広がって行った。

    ドイツは東部戦線でロシアを破るなど、初めは優勢であった。 ところが、
    1917年にはアメリカがイギリスなど連合国側に参加する。 また、北フランスでも
    ドイツはイギリス、フランス、アメリカとにらみ合っていたが、海上封鎖を受け、
    ヴィルヘルム2世下の軍隊にとって、次第に形勢は不利になって行った。 こうして
    1918年11月、ドイツは遂に降伏した。

    これに対し政府の政策や上官の命令に不満を抱いていたドイツの労働者や軍人達は、
    国中で暴動を引き起こした。 このためヴィルヘルム2世は退位を迫られ、
    社会民主党は新しい民主的な政府の設立を宣言することになる。 ヴェルサイユ条約
    (第一次世界大戦後の講和条約)の下、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに
    返還、プロイセンの大部分をポーランドに割譲することを余儀なくされた。 また、
    連合国はドイツに多額の賠償金を要求し、ラインラントとザール地方を占領し、
    産業を摂取した。

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    【ナポレオン戦争】
    1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
    自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
    フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
    1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
    侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
    ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
    神聖ローマ帝国は崩壊した。

    しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
    フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
    ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
    集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
    南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
    自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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    【ドイツ連邦】
    ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
    それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
    独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
    関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
    刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

    1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
    民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
    オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
    フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

    この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
    フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
    反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
    次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

    【統一】
    1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
    フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
    統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
    プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

    同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
    ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
    増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
    1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
    フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
    政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

    その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
    1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
    新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

    19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
    経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
    国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
    厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
    権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
    促進し、社会党への支持は高まった。

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    ヴェストファーレン条約によりザクソン、バイエルン、ブランデンブルグ、
    プロイセンなど、ドイツの主な領邦国家は支配力を強め、これらの諸侯は、
    ヨーロッパの貿易や領土をめぐる対立において、重要な役割を果たすようになる。
    一方、ハプスブルグ家の領地は『オーストリア』と呼ばれるようになっていたが、
    その権力は次第に下降線をたどっていた。

    18世紀初頭までにホーエンツォレルン家は、北ドイツにあるプロイセン、
    ブランデンブルグ両地域を支配するようになり、無駄のない優れた政治組織と、
    強力で精鋭な軍隊を誇った。 1740年にはプロイセン王国フリードリッヒ2世
    (大王)が、ハプスブルグ家の支配下にあった、豊かな鉱山を有する
    シュレージエンを侵略、占領した。

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    このシュレージエンをめぐる抗争は1756年、オーストリアとプロイセンの新たな
    対立に繋がり、フリードリヒ大王は、オーストリアとその同盟国ロシア、フランス、
    バイエルン、ザクセンに攻撃を仕掛けた。 この7年戦争で大きな犠牲を払った末、
    ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは1763年、講和を申し入れ、
    ブベルトゥスブルグ条約によって、プロイセンのシューレジエン条約によって、
    プロイセンのシュレージエン領有が確定した。 その後、ホーエンツォレルン家は
    北ドイツに版図を広げ、ドイツにおける最大で最強の王国に発展して行った。

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    19世紀の終わりまで、ドイツは、沢山の小さな国家の集まりだった。 しかし、
    これらの国家は、団結して、より大きな集団を結成し、領邦国家となった。
    その集団の中でも、最も強大だったのは、神聖ローマ帝国で、形を変えながら、
    800年から1806年まで存続した。  元々、この地域では。ドイツ語を話す集団と
    して、ある程度のまとまりは見せていたものの、それぞれの小国家にハッキリと
    分かれていたため、それぞれの独自性は維持された。

    その後、フランスのナポレン・ボナパルトによって、神聖ローマ帝国は解体
    されたが、当時のドイツ北東部にあった強国、プロイセンによって、いくつかの
    同盟と戦争を経て、他の国々をまとめ上げたため、初めてのドイツ民族による
    統一国家が1971年に建国された。



    19世紀の終わりになると、ドイツは、他のヨーロッパ諸国と争うように、
    アフリカやアジアに植民地を建設した。 ヨーロッパの強国同士の対立は、
    ついに、1914年~1918年の第一次世界大戦へと発展した。 ドイツとその
    同盟国は、イギリス、フランス、アメリカとその連合国に惨敗した。

    ドイツは、海外植民地を失い、自国の領土の一部を近隣諸国に割譲させられた。
    戦争を引き起こした責任を取らされ、戦争中に破壊されたものを修復する費用
    として、多額の賠償金を課せられた。

    ドイツ国民の中には、ドイツを再び偉大な国家として蘇らせてくれる指導者を
    待望する動きが現れた。 アドルフ・ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働党
    (ナチス)という小さな政党の党首であったが、ドイツの苦境を連合国や
    ヨーロッパのユダヤ人等のせいにして非難することで、国民の人気を集めた。
    1933年、ヒトラーは、その人気を利用して、ドイツの首相となった。 そして、
    間もなく、独裁政権を打ち立てた。

    ヒトラーは、陸軍と海軍を増強し、ドイツが失った領土の一部を取り返した。
    しかし、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、ヨーロッパの大国は、
    ヒトラーの野望を止める決意をした。 こうして、第二次世界大戦が始まった。
    ナチスは、強制収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人や、ロマ人(ジプシー)
    等の差別されて来た人々を大量に虐殺していた事実が明らかになった。

    1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。 西側諸国の
    力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。 社会主義政権の
    支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の約束を
    守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに困難な事業で
    あった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政によっても殆ど解決
    し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、老朽化しているために、
    労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ないところもあった。

    ドイツ再統一後、ドイツ経済の勢いに陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの
    近代化に毎年700億ドルを支出しなければならなかった。 しかし、2010年以降は、
    力強い経済発展を遂げ、現在では、EUの中でも1人勝ちとも言える程の経済力を
    誇っている。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
    ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
    ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
    これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
    次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
    まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
    王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
    スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
    オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
    支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
    ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
    継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
    ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
    込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
    継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
    シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
    フリードリヒの勝利に終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
    資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
    市民の全てが教育を受けられるようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
    表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから解放した。

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    シュレスウィヒとホルスタインのドイツ系住民は、新憲法の受け入れを拒否した。
    そして、他のドイツ諸領邦のつくる連邦に加盟しようと、デンマーク政府に対して
    反乱を起こした。 ドイツ連邦の両大国プロイセンとオーストリアは、
    シュレウィヒと ホルスタインを支持して、デンマーク・ドイツ戦争が始まった。

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    1864年、ドイツ連邦軍は、デンマーク軍を敗北させた。 ウィーン条約によって、
    シュレスウィヒとホルスタインは、プロイセンとオーストリアに引き渡された。
    こうしてデンマークは、最も肥沃な農地の一部を失った。

    若い道路技師エンリコ・ダルガスは、農地の損失を補う方法を考えた。 1866年、
    ダルガスは、海を埋め立てて農地を作るための組合組織を創設した。 農民達は
    沼地を干拓して常緑樹を植え、土壌の浸食を防いだ。 その結果、砂性の土壌に
    穀物が出来るようになった。 この埋め立て事業は極めて広範囲に行われたので、
    両地域の損失に十分見合った。

    同じ時期、農業協同組合の運動が起こって、農業の生産性が高められた。 最初に
    協同組合を作ったのは、スティリング・アネルセンというヒェディングの
    農民である。

    アネルセンは、地元の農民達を説得して、個別に行われていた牛乳の加工を
    共同作業で行うことにした。 共同作業場の出現で、機械の購入、加工法の
    研究、販路の拡大などが、個人ではとても不可能な規模で出来ることが分かった。

    最初の農業協同組合は、その製品の品質の高さでたちまち有名になった。 農作
    業面でのその他の改良も進み、協同組合運動は、たちまちデンマーク全土に
    広まった。

    1870年代になると、別の種類の衝撃がヨーロッパの農業市場を襲った。 アメリカ
    合衆国とロシアの農民が、大量の穀物を極めて低い経費で生産出来るようになり、
    余剰農産物をヨーロッパでも売り始めたのである。 ヨーロッパの生産者達は、
    安い輸入品に対抗することが出来ず、穀物の価格は下落した。

    最初は、穀物価格の下落はデンマークの農民達に損害を与えたが、彼らはやがて
    安い輸入穀物を使って、以前より数多くの家畜を飼うようになった。

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    1880年代には、デンマークの農業協同組合は、多量の乳製品とベーコンを
    イギリスに輸出するようになった。 20世紀末には、この種の産物の輸出国の
    トップとなった。

    デンマークはまた、19世紀末に大きな政治問題をひとつ解決した。 この国の2大
    政党である保守党と自由党が、議会の上院と下院の権限の配分について議論を
    重ねた。 自由党は下院で多数を占め、保守党は上院を制覇していた。 両党の
    妥協が成立して、保守党の政治家やヤコブ・エストルップが首相となって政権を
    握った。

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    ソビエスキは、勝利したが、ポーランド国会内部の軋轢は王国を弱体化
    させた。 その後、ドイツのザクセン公がポーランド王アウグストゥス2世
    となったが、この時代には、ポーランドは、強大な隣国によって主権を
    侵され始めた。

    アウグストゥス2世が1733年に死ぬと、ポーランドのある貴族が国王に選ばれ
    かけたが、ロシアの干渉で阻止された。 そして、ロシア皇帝の代理人たちは、
    下院の大きな派閥を買収して、アウグストゥス2世の息子を国王に選出させた。

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    重税のために、ポーランドの農業と貿易は振るわなかった。 軍事力も低下し、
    国王は外国の軍隊に対して、無防備の状態となった。 貴族たちは、敵対する
    派閥を統合する努力を殆どせず、無能と腐敗によって、国家を弱体化させた。
    その上、下院が拒否権制度を導入したため、国会議員が1人でも反対すれば、
    新しい法案は一切成立しなくなった。

    このために政治は大混乱となり、外敵たちは、これを好機にポーランドの領土を
    奪い始めた。 1772年、西のプロイセンと南のオーストリアは、東のロシアと
    協力して、ポーランド領土の3分の1近くを奪ってそれぞれの国の領土に加えた。
    これが第一次ポーランド分割である。

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    第一次分割以後、政治を改革しようとする動きが国会内で強まった。 1791年、
    多くの貴族の反対を押し切って、国会は新憲法を採択した。 この憲法は、
    拒否権制度を廃止し、国王の選挙制を止めて相続制とし、下院の力を弱めた。
    新憲法はまた、全ての市民の人権を保障した。 しかし、ロシアの女帝
    エカテリーナ2世は、臣下のロシア国民が、ポーランド人たちと同じ改革を
    するのを恐れた。

    1793年、一部のポーランド貴族の協力で、エカテリーナは、軍隊をポーランド
    東部に進め、領土の一部を奪い取った。 それと同時にプロイセンもまた、
    ポーランド西部の一部とグダニスク港を併合した。

    ポーランドの第二次分割に憤激して反乱が起こり、愛国者タデウシ・
    コシュチューシコがその指導者となった。 1494年、コシュチューシコは、
    ワルシャワでロシア軍を撃破した。

    だが、ロシアとプロイセンが、力を合わせて攻め込んで来たため、ポーランド
    愛国軍は、数の上で圧倒された。 翌年、ロシア、プロイセン、オーストリアの
    3国は、コシュチューシコの反乱を鎮圧して、ポーランド国王を退位させた。

    これらの3国は、残っていたポーランドの領土を自分たちの間で分割し、
    ポーランド王国は消滅した。

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