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    タグ:ブルガリア

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    【スラブ祖語】
    スラブ語は、西は中央ヨーロッパのエルベ川中流域から、南はバルカン半島の
    大部分に渡り、東はウラル山脈を越えて、シベリアの太平洋岸まで、北は
    ユーラシア大陸の北極圏の西側の一部を除く、大部分を占める広大な地域に住む
    住民の間で話されている言語であり、方言を含むスラブ語の主要言語の数は、
    古い時代に書かれた資料でのみ伝わるものを含めると、20以上にも及ぶ。

    スラブ語は、語彙、発音、文法的な特徴が非常に良く似通っており、その共通点は、
    古い時代になるほど大きくなることから、全てのスラブ語は1つの共通の祖語から
    派生し、時代と共に分化、発達して今日に及んだものと考えられている。 この分化
    前までの共通言語を「スラブ祖語」と呼び、そこから分化、発達したと考えられる
    系統上の親縁言語を「スラブ諸語」と呼ぶ。 スラブ諸語は、その相互間の親縁
    関係により、「東スラブ諸語」、「西スラブ諸語」、および、「南スラブ諸語」の
    3つに大きく分類される。

    スラブ語は、同じインド・ヨーロッパ語族に属するロマンス語やゲルマン語と
    比較すると、文字の出現が遅かったため、実際には文字で表記されることが
    なかった「スラブ祖語」は、不明な部分が多いものの、記録に残るスラブ諸語に
    共通の主な特徴から、具体的な言語体系として全体的に把捉することは難しい
    ものの、個々の音韻や語の形態に関しては、かなりの確立で予測出来る場合が多い。

    スラブ語共通の特徴の一部は、バルト語、ゲルマン語、インド、イラン語などを
    含むインド・ヨーロッパ語族の古い特徴と著しい対応や一致を示している。 また、
    現代語と比較しても、ロシア語とドイツ語、英語、フランス語などの間には、
    文法や基礎語彙の面においても、偶然の一致では説明出来ないほどの体系的な一致や
    並行関係が見られる。 これは、スラブ語がこれら各言語と祖先を共有している
    ことを表しており、スラブ祖語は、かつて極めて古い時代に「インド・
    ヨーロッパ祖語」から分離したと考えられている。

    まず、紀元前3000年頃までに、インド・ヨーロッパ祖語が形成され、そこから、
    各々の言語の祖語の分離形成が始まったが、スラブ祖語はその一つとして比較的
    遅い紀元前1000年頃になって分離したと考えられている。 そして、そのスラブ
    祖語から、各スラブ語が分化する過程の中で、遅くとも5世紀頃までには、
    東スラブ祖語が分離し、東スラブ語の独自の分化が始まり、10世紀末には、現在の
    ロシア語の基礎となる東スラブ標準語の形成過程に入ったと考えられている。

    【スラブ語発祥の地】
    スラブ語発祥の地に関しては、カルパチア山脈の北東山麓(ポーランド、または、
    ウクライナ)とする説や、更に西にあるチェコ、ドイツ、ポーランド国境地域で
    あるズデーテン地方とする説など、これまでに様々な見解が発表されたが、
    いずれもはっきりとはしてない。 19世紀前半には、農耕系のスキタイ人を
    スラブ人の祖先と見なすスラブ人の起源説が現れたが、紀元前1000年頃に黒海
    北岸からカルバナア山脈に至るステップ地帯に分布したスキタイ人の言語は、
    実はイラン語系であったことが証明されている。

    紀元前7~8世紀頃に滅びた先住民のキンメリア人の言語は、スキタイ人をはじめ
    とするこの周辺地域の民族に受け継がれたと考えられているが、その後、民族
    大移動が起こり、現在の中欧と東欧地域の広範囲に進出して来たスラブ人もその
    影響を強く受けたとする考え方が最も有力となっている。 スラブ人の祖先の
    事が記された古文書が現れるのは、ヨーロッパの民族集団の分布を一変させた
    民族大移動の時代以後であったため、スラブ祖語に関する確実な資料や証拠は
    何一つ存在していない。

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    【スラブ諸族の形成と民族大移動】
    4世紀後半に現在のロシアのペルミ付近から黒海北岸へと侵入して来たフン族に
    よって土地を奪われたゲルマン族の一派である東ゴート族は、376年にドナウ
    流域のローマ帝国領内へと移動したが、このことに端を発する民族大移動は、
    東西ローマ帝国の分裂と、ゲルマン族の攻撃によって476年に西ローマ帝国が
    滅亡するという、ヨーロッパ史上における大変動をもたらしたが、東西ゴート族の
    勢力圏や東西ローマ帝国領内、あるいは、その隣接地に住んでいたスラブ人が、
    現在の居住分布に近い居住分布へと変化を遂げたのは、この時期であったと
    考えられている。

    350年、ゴ一卜人司教であるウルフィラがキリスト教布教のために考案した
    ゴート文字により、新約聖書のゴート語翻訳が行われたが、この頃には、ドナウ
    河口、ヴィスワ川上流域、並びに、ドニェプル川下流域の3地域に分かれて住む
    スラブ3部族が、現在の南、西、東の各スラブ人集団へと発展して行ったと考え
    られている。 民族大移動後の6世紀半ばには、スラブ人は既にこの3集団へと
    分化を遂げていたが、これ以降、スラブ人のバルカン半島全域への進州の勢いが
    強まり、いくつかの地域でスラブ人による国家形成の過程が進行した。 7世紀
    には、短命であったが、チェコ、スロバキアの大部分とクロアチア、スロベニアの
    一部に渡る広い地域を支配したスラブ人初の部族連合国家であるサモ王国
    (631年~658年)、ドナウ河口から黒海西岸とドナウの南岸一帯を広く支配した
    アジア系ブルガール人によるドナウ・ブルガール汗国(?~700年頃)、その後、
    その土地の南スラブ人と同盟して681年には、東ローマ帝国から独立を獲得した
    ことに始まる第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)へと発展して行った。

    9世紀には、サモ王国をも大幅に上回る大モラヴイア公国(833年~907年)や、
    ポーランドを最初に統一したピャスト王朝(960年頃~1370年)、更に、
    東スラブ人の最初の統一国家となったキエフ・ルーシ(862年~1240年)など、
    現代のスラブ諸国に深い関わりを持つ国々が誕生している。

    尚、セルビア人がブルガリアから自立したのは9世紀後半であり、925年には、
    クロアチア王国が建国されたとされているものの、スロベニア人は、古代には
    フランク王国、中世から近代に掛けては神聖ローマ帝国、その後、
    ハプスブルグ家のオーストリア帝国の支配下にあり、同じ南スラブ人である
    セルビア人、クロアチア人と共に国家を形成したのは、第1次世界大戦後のこと
    であった。

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    【ブルガール人とブルガリア帝国】
    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    チュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラブ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれている。

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部
    からヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は、5世紀
    頃から、アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ
    方面に侵入するようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家である大ブルガリアを形成した。 しかし、
    ブルガール部族連合は分裂し、北方のヴォルガ・ブルガール、西方のドナウ・
    ブルガールへと分かれて移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、
    アゾフ海沿岸を支配する部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールや
    ドナウ・ブルガールとの対比から、大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの
    本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの北方の草原にあった。
     
    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス
    北麓のチュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、
    ハザール可汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀の
    ハザールの滅亡と共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を
    遡ってカマ川との合流地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタールスタン
    共和国周辺)に定住、農業と交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、後にアッバース朝と通商を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    チュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であると
    されている。 特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でも
    ブルガール人の話していた言語の特徴を保持しているという。 一部の部族
    集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に定住したが、
    この集団をドナウ・ブルガールと言う。

    彼らは南隣する東ローマ帝国と戦い現地のスラブ人を支配する国家を形成し、
    680年に第一次ブルガリア帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。ブルガール・
    ハン国のブルガール人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第に
    コーカソイドに属するスラブ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、
    ヴォルガ川中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語である。
    チュルク諸語の中での位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られ
    ている。 ブルガール語の話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを
    構成する民族集団に含まれていたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、
    他のチュルク諸語とブルガール語との間で見られる音韻上の対立が規則的に
    現れる事から、現在存在する言語の中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語で
    あるとみなされている。 尚、現在のヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の
    要素を一部含むものの、キプチャク系チュルク言語とブルガール語の混交言語と
    考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラブ化に伴い、バルカンでの話者は
    途絶したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラブ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者
    であった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収された
    と言う意味では、世界的に見ても、かなり珍しい言語となっているが、その
    被支配者であった言語が、共通スラブである古代教会スラブ語の基となった
    のは、非常に興味深い歴史的な事実である。 

    ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古チュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。 ブルガリア語は、元々アジア人
    であったブルガール人が、モンゴル・タタールの大軍に押し出されて、遥々
    ヨーロッパの地まで民族大移動してきた際に、そこに住んでいたスラブ人と
    同化し、スラブ語化された言語であり、支配者の言語が、被支配者の言語に
    吸収されたという、世界でも非常に稀な言語となっている。 この逆パターンが、
    ハンガリー語とフィンランド語で、アジアから押し出された、マジャール人と
    フィン人のアジア系言語は、そのまま、ヨーロッパに根付いた。

    【ブルガリア語の形成】
    ブルガリア語は、古くから、スラブ人の間では、宗教・学問の言語として
    使用されていた「古代教会スラブ語」であり、その元となった言語であるため、
    非常に古い文語の歴史を持っているものの、約500年間にも及ぶオスマントルコ
    支配の時代に、新たに教会用語となったギリシャ語に押されて、かなり衰退
    したが、18世紀後半に入って、ブルガリア人聖職者の間から、ブルガリア語
    復興の機運が生まれ、現代ブルガリア語の元となる新ブルガリア語が形成され、
    民族意識が高まり、ブルガリア語は、オスマン帝国からの独立運動を支える
    重要な役割を果たした。

    スラブ祖語は、元々、古代のブルガリア語でるため、ブルガリア語に似ている
    言語ほど、昔の文法体型を維持している事になるが、ブルガリア語自体が、
    オスマントルコ支配の時代に、かなり崩れてしまったため、文法的には、英語に
    かなり近い。 文法が崩れ去った言語は、どの言語も、ほとんど、英語のように
    なるという共通点がある。

    スラブ語の「私」は、ブルガリア語以外、全て「ja」だが、古代教会スラブ語では、
    「私」の事を「az」と言うのと、スラブ語では、「アルファベット」の事を
    「Azbuka」と言うため、スラブ人は、「az」が「私」という意味である事を
    皆知っている。 ロシア語とブルガリア語は、そのまま喋ってもほぼ内容が理解
    出来るぐらい似ている言語だが、スラブ語は、ゲルマン語他の言語と比較して、
    それぞれの言語に分かれたのがかなり遅かったため、ブルガリア語以外も全言語が
    かなり似通っている。 よって、スラブ語のうちの何れかの言語をある程度理解
    出来ていれば、その他の言語でも何を言っているのか、ほぼ理解可能である。

    【ブルガリア語とマケドニア語】
    ブルガリア語とマケドニア語は、方言程度の違いしかない、非常に似通った
    言語であるため、ブルガリア人は、皆マケドニア語の事を、ブルガリア語の
    方言だと考えている場合が多い。 スラブ語は屈折語であり、名詞類は6つ、
    あるいは、7つに格変化するが、ブルガリア語、マケドニア語では、この特徴が
    殆んど失われ、代名詞に格変化が残るのみである。 この格変化の消失に
    示されるように、ブルガリア語とマケドニア語は、その他のスラブ語とは異なる
    特徴を持ち、その異なる部分は、むしろ、系統関係を異にする近隣の
    ルーマニア語やアルバニア語等と共通する特徴を持っている。

    一般的に、地理的に隣接した複数の言語が、長期間の言語接触の結果、文法や
    語彙構造等、類型論的に相似した言語的な特徴を持つようになることが知られ
    ているが、系統関係に関わりなく、その様に類似した共有する言語的領域を
    「言語圏」と呼ぶ。 バルカン半島では、こうした「言語圏」の存在が早く
    から知られており、ブルガリア語とマケドニア語は、このバルカン言語圏に
    含まれるスラブ語である。

    バルカン言語圏の特徴としては、後置冠詞がある。 スラブ語には、語類
    としての冠詞はなく、必要に応じて、指示代名詞がその機能を果たしているが、
    通常、これらは形容詞と同様、名詞の前に置かれ、名詞の性、数、格に一致する。
    これに対して、ブルガリア語は、後置冠詞を用いて、「その」という指示代名詞を
    意味する。

    ブルガリア語とマケドニア語は、この他にも、共通スラブ語の持っていた時制
    体系を受け継ぎ、これを更に発展させたため、他のスラブ語と比較すると、
    時制に関する形態が豊富にあるという特徴を持っている。 時制形式が単純化
    されたロシア語では、現在形、過去形、未来形の3つの形式を区別するのみだが、
    ブルガリア語では、過去、未来の時制に複数の迂回形がある。

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    独立以後も、ブルガリア人が多数住んでいるトラキアとマケドニアは、トルコの
    領域のままだったので、国民は不満だった。 指導者たちも、、ブルガリア人
    全てを単一の国家に統合したいと望んだ。 また、貿易の促進と経済の拡大には、
    エーゲ海に港を持つ必要があった。

    1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャの3国は、同盟を結んでトルコに宣戦し、
    第一次バルカン戦争が始まった。 1913年、3国側が勝利をおさめたが、トルコ
    から得たマケドニアの分割について3国の意見が一致せずに紛争となり、第二次
    バルカン戦争が始まった。 この戦争では、セルビアとギリシャが、ブルガリア
    だけを敵に回して戦った。

    daiichiji

    ブルガリアは敗れて、同年、講和条約が結ばれた。 その結果、ブルガリアは、
    一部の領土をトルコに返還し、マケドニアの極一部だけがブルガリア領となった。

    この頃、貿易と領土をめぐる敵対関係から、ヨーロッパ諸国はふたつの陣営に
    分かれていた。 ひとつは、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコの3国
    からなる陣営で、『連合諸国』と呼ばれた。 それとは別に、バルカン半島の
    いくつかの国々は、オーストリア・ハンガリーの支配からの自由を求めていた。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、それが切っ掛けで
    オーストリア・ハンガリーは、セルビアに宣戦を布告した。 セルビアと同盟
    関係にあったロシアは、この紛争に介入、やがて『中央同盟』と『連合諸国』の
    戦争に広がり、第一次世界大戦が始まった。

    BulgariaWW2

    第二次バルカン戦争で失った領土を取り戻す好機と考えたブルガリアは政府は、
    同盟国側に付く事を決め、1915年、マケドニアの返還を条件に、連合国側に
    宣戦を布告した。 セルビアやブルガリアとの国境でも戦闘が始まった。

    しかし、ブルガリアの政治家たちの間では政策について意見が対立し、国内は、
    不安定な状況となった。 社会民主党と農民連合党は、ブルガリア政府の戦争
    関与を激しく非難した。

    1918年秋、同盟国側は、連合国側に降伏し、ブルガリアもトラキアとマケドニアを
    ギリシャに割譲する条約に調印せざるを得なくなった。 その上、セルビアを
    中心に新しく成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(後のユーゴ
    スラビア)は、ブルガリアの領土の割譲を要求した。 ブルガリアの軍隊は、
    反乱を起こして政権を握り、フェルディナントは退位して、息子のボリス3世に
    王位を譲った。

    【お勧めの一冊】


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    1879年、ブルガリアの指導者らは、ヴェリコ・タルノヴォに集まって憲法を採択
    した。 この憲法の規定で一院制の国会が作られ、国会議員は、全ての市民の投票で
    選ばれることが決まった。 こうして出来た国会は、ドイツの公子バッテンベルグの
    アレクサンドルをブルガリア公に選んだ。 アレクサンドルは、ロシア皇帝の義理の
    甥にあたる人物だった。

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    しかし、アレクサンドルは政府の閣僚を勝手に入れ替えたりして、不評を買い、
    ついには、憲法を停止した。 何年もの間、このブルガリア公は、ロシア軍将校の
    力を借りて国を支配した。 憲法を支持する自由党と、アレクサンドルを支持する
    保守党の間で激しい論争が続いた。 この危機を乗り切るために、アレクサンドルは
    1883年に憲法を復活した。

    2年後、東ルメリアの人々は、トルコに反乱起こし、その地域をブルガリアに統合
    した。 ブルガリア勢力の拡大を経過したロシアは、アレクサンドルを誘拐して
    新政権を樹立する陰謀を支持した。 この陰謀は、国会議員ステファン・
    スタンボロフによって阻止されたが、アレクサンドルは1886年に退位した。

    国会は別のドイツ公子フェルディナントをブルガリア公に選んだ。
    フェルディナントは有能で精力的な指導者で、ブルガリアの各党派の融合を
    果たした。 1908年、フェルディナントは、トルコの衰退に乗じて、東ルメリアを
    含む、全てのブルガリア国土の独立を宣言した。

    フェルディナントの指導の下、ブルガリアは工業と農業の近代化に取り組んだ。
    教育は広がり、識字率は大いに高まった。 しかし、工場での労働条件は過酷で、
    労働者の利益を守るために、社会民主党が結成された。 農民の利益を代表する
    農民連合も結成された。

    【お勧めの一冊】


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    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

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    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

    【お勧めの一品】


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    バルカン諸国を含む、東地中海沿岸領域の大部分を征服したオスマン・トルコは、
    ブルガリア経済を支配した。 肥沃な渓谷には、トルコの農民たちが定住し、
    ブルガリア人の大部分は、山岳地帯に避難した。 トルコのスルタン(皇帝)は
    残った住民やボヤールに重い税金を課した。

    トルコ人は、イスラム教徒なので、キリスト教の教会を次々に回教寺院に改造した。
    トルコ人の直接支配に入ったブルガリア人の一部は、イスラム教に改宗した。
    改宗者は、税金を免除され、一部の人々は、トルコの政権内で、重要な地位に
    就いた。 しかし、改宗しない人々は虐待され、その多くが処刑された。

    ahg1

    1453年オスマン・トルコはコンスタンティノープルを占拠し、ビザンチン帝国は
    崩壊した。 トルコ統治下の州の太守は、ベイと呼ばれたが、ベイの中のベイと
    呼ばれる総支配者がソフィアに本部を置き、各州の太守に命令を発して、金や
    食物や兵士を帝国に貢納させた。 ブルガリアの農民からは、更に多くの土地が
    奪われ、トルコ軍隊への参加が強制された。

    反乱が何度も起こったが、全て失敗した。 多くの人々は、トルコの支配を逃れる
    ために、ギリシャ正教の修道院に逃げ込み、何世紀にも渡って、ブルガリアの
    言語と文化は、ギリシャ正教の修道院の中にだけ生き残った。

    15世紀から16世紀に掛けて都市は衰退し、農地は荒廃した。 捨てられた農地を
    トルコの農民たちが手に入れて、収穫物をトルコ政府に売り渡した。

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    17世紀になると、トルコ政府は、ブルガリアの統治をやりやすくするために、
    ギリシャ人とブルガリア人を融合させようとした。 ギリシャ正教の教会は、
    ブルガリアの教育制度の管理を許され、一時的には、学校や教会では、ブルガリア語
    に代って、ギリシャ語が用いられた。 しかし、18世紀になって、ブルガリア文化が
    復活すると、この政策は破綻した。

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    ビザンチン皇帝、バシル2世は、1024年にブルガリア軍を撃破し、ブルガリア人
    殺しの異名を取った。 1万4,000人のブルガリア兵士がバジルの命令で眼球を
    摘出され、やがてブルガリア全土が支配下に編入された。

    ビザンチンの支配下でブルガリア人は重い税金を課せられ、貧困に苦しんだ。
    人々は何度か反乱を起こしたが失敗し、その後12世紀になって十字軍が
    ブルガリアを通過するようになると、領域の衰退はますます激しくなった。

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    ビザンチンの支配は、1180年代まで続いたが、イワンとぺトルのアッセン兄弟は
    バルカン山脈内のヴェリコ・タルノヴォを首府とし、第二次ブルガリア帝国を
    建国した。 内部抗争で弱体化していたビザンチン帝国は、マケドニアをこの
    新しい国に譲渡して和議を結んだ。

    13世紀初期、イワン・アッセン2世は、トラキア西部とアルバニアを征服した。
    アドリア海に面したアルバニアの獲得によって、ブルガリアの商人たちは、
    外国貿易を広げることが出来た。 ブルガリアは、再び富に栄えて、外国の
    商人や移民が沢山入り込んで来た。 貿易が急激に拡大して、この国最大の
    貨幣が作られた。

    ブルガリアのボヤール人と商人は、繁栄を楽しんでいたが、農奴たちは、貧困と
    飢餓と病気に苦しんでいた。 1277年、農奴の反乱が起こった。 この反乱と、
    その後に続く、セルビアやハンガリーとの戦争の敗北が原因で、ブルガリアは、
    マケドニアその他、重要な地域を放棄せっざるを得なくなった。 その上、
    アジアから侵入したモンゴル軍のために、ブルガリア北部の都市と港湾と交易の
    中心地は大きな損害を被った。



    更に、一層深刻な脅威が現れて来た。 1360年代、小アジアのオスマン・
    トルコ人がバルカン半島に侵入し、マリツァ渓谷にあるブルガリアの諸都市を
    攻撃した。 ブルガリア王イワン・シシュマンは3世は、トルコ皇帝の臣下と
    なった。 トルコ人は、既にビザンチン帝国の大部分を征服し終わっていた。
    1393年、ヴェリコ・タルノヴォは陥落し、3年後、オスマン・トルコ帝国は
    ブルガリアを併合した。

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    6世紀になると、黒海の北の平原に居たスラブ人がドナウ川に到達した。
    ビザンチン帝国はこの地域にいくつもの要塞を建設していたが、スラブ人の
    勢力は強く、モエシアとトラキアはスラブ人の侵入を受けた。

    7世紀になると、トルコ系の言語を話すアジア系のブルガール人がこの地域に
    侵入して来た。 ハンと呼ばれる指導者に率いられたブルガール人たちは、
    熟練した戦士たちで、モエシア防衛のために送り込まれたビザンチン軍を
    たちまち打ち破った。

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    やがてブルガール人とスラブ人たちは、相互に婚姻を結ぶようになり、
    スラブ語が共通言語となった。 681年、ハンのアスパルフは、ブルガリア
    北東部のプリスカを首府とする第一次ブルガリア王国を建国した。 王国内に
    置かれた10の州は、それぞれ大貴族たちに統治されることになった。

    この頃から人々の階級の分化が進み、ポヤールと呼ばれる地主たちは、農奴と
    呼ばれる土地を持たない農民たちから、収穫量の一定割合を強制的に徴収する
    ようになった。

    ブルガリア王国は、ビザンチン帝国から頻繁に攻撃を受けた。 811年、ハンの
    クルムの率いるブルガリア軍は、ビザンチン軍を打ち破り、皇帝ニケフォロスを
    戦死させた。 クルムは勢いに乗じて、コンスタンチノープルに迫った。
    クルムの後継者たちは、王国の領域を拡大して、西はセルビアとマケドニアの
    一部、北は現在のルーマニアの一部にまで及んだ。

    863年、ハンのボリス1世は、キリスト教に改宗し、臣下たちにも改宗を強要した。
    この頃、キリスト教の指導者内には、教義をめぐる激しい論争が続き、教会は
    ローマ教皇を首長とするカトリックと、ビザンチウムの大司教を中心とする
    ギリシャ正教に分裂した。

    ボリス1世は教皇に、ブルガリアに大司教を置くことを求めたが、拒否されると、
    ローマの教会と絶縁して、ギリシャ正教の教義を採用した。

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    10世紀初頭には、ブルガリアはバルカン半島内で最強で、裕福な国家に
    なっていた。 スラブ人とブルガール人は完全に融合して単一のブルガリア人
    となり、ギリシャ人やアルメニア人の商人たちまでが領内の都市に定住し始めた。

    コンスタンチノープルとの接触で導入されたビザンチン文化は、ブルガリアの
    美術や文学や教育を刺激した。 10世紀はじめ、伝道師クレメントは、
    ブルガリアではじめての識字学校を開き、一種のアルファベットを人々に教えた。
    この文字は、クレメントの教師名にちなんで、キリル文字と呼ばれるようになった。

    ブルガリア王国とビザンチン帝国との関係は密接だったが、893年に国王と
    なっていたシメオンは、ビザンチン皇帝軍を打ち破って、マケドニアとトラキアを
    王国領に編入した。924年、ブルガリアは、セルビアを占領して併合した。

    927年シメオンが死ぬと、ブルガリアは弱体化し、969年、北東からロシア人が
    侵入して来て、ブルガリア王国の一家を捕虜にした。 これを自国への脅威と
    考えたビザンチン皇帝ヨアネス1世チミスケスは、ロシア人を攻撃して撃退し、
    ブルガリアの東半分を帝国領に併合した。

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    バルカン半島の最初の住民は、20万年前の石器時代の狩猟民族だった。
    考古学者たちは、ブルガリア領域内の何ヶ所もの洞窟で先史時代の道具や
    武器を発見している。 バルカン山脈のヴラッツアに近いマゴウラ洞窟では、
    紀元前3000年に描かれた人間や動物の絵が発見された。

    その頃、トラキア人と呼ばれる遊牧民族がマリッツア川渓谷に定住しつつあり、
    この人たちがトラキア王国を建設した。 この国家は間もなくギリシャ人の
    影響下に置かれることになった。 ギリシャ人たちは、都市や海岸の低地、
    それにエーゲ海の島々に住んでいた。 紀元前1000年以降、ギリシャの
    植民者たちは、黒海沿岸にも交易用の港をいくつか建設した。

    トラキアの王たちは、自分たちの領域を強化するため、ギリシャの有力都市
    アナティと同盟した。 しかし、紀元前4世紀になると、トラキアは、ギリシャ
    北部にあったマケドニアの国王フィリポスの攻撃を受けて敗北した。

    紀元前336年にフィリポスが暗殺されると、その息子のアレクサンドロス大王は、
    マケドニア軍を率いてトラキアと小アジアを通過し、中東と中央アジアにまたがる
    大帝国を建設した。

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    【ローマ人の統治】

    アレクサンドロスが紀元前323年に死んで彼の大帝国が崩壊すると、トラキアは
    独立を回復した。 しかし、領域内に金鉱があったため、イタリア半島を根拠地に
    領域を拡大中だったローマ人に目を付けられた。 ローマ人は紀元前2世紀に
    マケドニアを敗北させると、北進してドナウ川に到達した。 ローマはこの地域に
    2つの州を建設した。 ドナウ川とバルカン山脈の間にはモエシア、その南には
    トラキアである。

    ローマの兵士や農民たちは、2つの州内に定住して新しい道路や要塞や都市を
    建設した。 この地域の渓谷や平原で収穫された穀物はローマ軍に編入されたが、
    それでもモエシアとトラキアには平和が続いた。

    紀元前3世紀になると、ローマの力は衰え、遊牧民のゴート人が、北ヨーロッパから
    バルカン半島の都市や農地を攻撃した。 やがてアジアから来たフン族がモエシアに
    侵入した。 330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、首府をギリシャの港湾都市
    ビザンティウムに移して、ここをコンスタンティノープルと改称した。 その結果、
    ローマ帝国は東西に分裂した。

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    北方からの侵入に耐えかね、東ローマ帝国は395年にトラキアとモエシアから
    軍隊を撤退させた。 5世紀になると、侵入はますます激しくなり、西ローマ帝国は
    滅亡した。 東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、バルカン半島の
    各州は、帝国内に含まれることとなった。 やがて、ビザンティン帝国の
    支配者たちは、キリスト教を信じるようになった。

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    過去のある時期、ブルガリアの人々はとるこの支配を逃れて、山間の僻地で
    暮らしていた。 1878年に一部の地域が独立を回復すると、渓谷や低地の
    住民たちは、更に肥沃な土地を求めて移動し、人口は増加した。 第二次
    世界大戦後、各都市に新しい工業が出来、都市部の人口は増加した。

    1990年代初期には人口阿900万人を超え、68%は都市に住むようになった。
    人口110万人の首都ソフィアは、西武の高い山岳地帯にある。 交通の要衝
    として重要な位置を占め、西には隣国セルビア、北にはドナウ台地、東は
    トラキア平野に通じる街道がここから出発する。 この都市には、繊維、
    薬品、機械、靴、衣類、車両などの工場がある。

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    ソフィアは、ブルガリアの文化の中心地でもあり、大学、技術専門学校、
    博物館、オペラハウスなどがある。 イスラム教の寺院とユダヤ教の協会堂が
    あり、それぞれの教徒の集会に使われている。 古代のキリスト教の教会も
    数多く復元されている。 ソフィア市立庭園には噴水、並木、芝生などがあって、
    市民たちの憩いの場となっている。

    古代のトラキア人が、現在のソフィアの地に定住したのは、紀元前1000年である。
    紀元前29年にローマ人がこのトラキア人定住地を占領して、セルディカと名付けた。
    ブルガール人がこの地域に到達したのは、紀元前809年で、その後オスマン・
    トルコ帝国の支配下に入った。 14世紀になって、地元の教会の名を取って、
    ソフィアと名付けられた。 1897年に首府となった後は、第二次世界大戦中に
    激しい爆撃を受けたが、戦後に復興された。

    第二の都市であるプロブディフは、人口35万人で、マリツァ川のほとりにある
    重要な商業都市である。 古代ギリシャ人はここに、エウモルピアスという
    都市を建設した。 紀元前341年にマケドニア人がこの都市を征服し、その後
    この都市は、ローマの1州であったトラキアの首府となった。

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    プロブディフは食品加工業が盛んで、米、果実、タバコ、ワインなどの包装と
    梱包が行われている。 他には、靴や繊維、金属製品などが製造されている。
    この町では毎年1回見本市が開かれて、ブルガリアの工業製品が多く展示される。
    観光名所としては、全体が大理石でつくられた古代の劇場がある。 また、
    この都市から遠くないところに、13世紀につくられた威圧的な要塞がある。

    人口30万人のヴァルナは、黒海沿岸の主要港だが、ここも古代ギリシャ人の
    建設した都市で、当時はオデッソスと呼ばれた。 現代のヴァルナには繊維、
    家具、陶器、ディーゼル・エンジンなどの製造工場があり、また、軍事基地と
    海員学校もある。

    南部にある人口14万5,000のブルガスは、幅が広くて奥行きも深いブルがス湾に
    面していて、港の近くには、魚肉缶詰工場や精油工場、巨大な化学工場がある。

    ブルガリア政府は、ブルガス近くの沿岸沿いに近代的なリゾート地をいくつか
    建設して、観光客の誘致をはかっている。

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    ブルガリアは、ヨーロッパ東南部バルカン半島にある人口約900万人の国である。
    40年以上もの間、ブルガリアは、共産圏ブロックの一国で、ソビエト連邦と
    密接な関係を結んでいた。 ブルガリア共産党は、農業と工業を国有化し、
    反対党の存在を一切認めずに、国を支配していた。 1990年にブルガリア人は
    共産党政権を終わらせて、新しい民主的な共和国を建設した。

    ブルガリアは6世紀から7世紀に掛けてブルガール人が定住して成立した国で、
    やがてバルカン半島で最も強大な国家となったが、14世紀後半になると、オスマン・
    トルコ帝国がこの地域一体を征服した。 こうしてブルガリア人はトルコ人の
    支配下に置かれた。 19世紀にオスマン帝国は弱体化し始め、1876年、
    ブルガリアはロシアから軍隊や武器の支援を受けて、解放戦争を始めた。 以後、
    トルコ人は、ヨーロッパから段階的に撤退して行き、ブルガリアは1908年に独立を
    達成した。

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    第二次世界大戦の終わった1945年、ソビエト連邦はブルガリアや、その他
    いくつかのヨーロッパ東部の諸国に共産党政権を押し付けた。 ブルガリア
    共産党が政権を握ってからは、ソビエトは、資金や原料を供給して、ブルガリア
    経済の発展を支援した。 工業化が進められ、健康管理と教育を改善されて、
    生活水準は少しずつ向上した。 ブルガリアは、1950年代から60年代に掛けて、
    他の東ヨーロッパ諸国が共産党指導者に反抗するようになっても、変わらず
    ソビエトの忠実な同盟国であり続けた。

    しかし、経済問題と政治上の不安定が、ついにブルガリアの共産党政権を消滅
    させた。 現在の政府は、中央集権型の経済を止めて、自由市場システムへと
    移行したが、2010年のブルガリアのGDPは約448億ドルであり、日本の青森県と
    ほぼ同じ経済規模である。 ブルガリア経済は1989年から劇的に縮小した。 特に
    ソビエト連邦を中心とした東欧の市場を喪失したことは大きな打撃となり、生活
    水準は1989年以前の約40%にまで落ち込んだ。

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    さらに、ユーゴスラビアに対しての国連の経済制裁は経済に更なる打撃を与えた。
    1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制するなど、回復の
    兆しを見せたが、1996年には貧弱な経済改革や、不安定な銀行システムにより再び
    悪化し、金融危機に陥った。 1997年以来政府は、2007年に向けてマクロ経済の
    安定と、国内総生産の毎年4~5%台の成長、欧州連合 (EU) への加盟を表明した。
    その後、2007年1月1日に、ブルガリアはEUに正式に加盟した。

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    ブルガリア語は、スラヴ語の1つで、マケドニア語、セルビア語、
    クロアチア語、スロヴェニア語と共に南スラヴ語群を形成している。 
    の中でもマケドニア語とは双子のように非常に良く似ている。

    ブルガリア語の母音は6つで、а ъ и е о у となっており、奥舌の ъ を除き、
    日本語の母音に極めて近い発音となっている。 一方、子音は、21個あり、
    子音で終わったり、また、語中に子音が重なったりする単語が多く、日本人に
    とっては、決して発音し易いものではない。

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    ブルガリア語は、一言で言うと、恐らく、語尾変化が非常に多い言語で、他の
    スラヴ語と共通の特徴のひとつとして、名詞には性があり、活用の際、性の
    タイプによって形が変わるということが挙げられる。 名詞は全て男性、女性、
    中性の何れかに属し、また、名詞が修飾される場合は、修飾する語も名詞の性に
    合わせて形を変えて行く。

    一方、ブルガリア語は、他のスラヴ語に存在しない特徴も沢山持っており、例えば、
    格変化が失われて、その代わりに前置詞が使われている。 また、限定を表す
    接尾辞が名詞に付き、定・不定というカテゴリーを表している。 これらの
    非スラヴ的特徴の背景には、バルカン半島で話される言語同士の接触、いわゆる、
    バルカン言語連合という減少の影響があると言われている。

    また、他のスラヴ語では失われているが、ブルガリア語とマケドニア語では今でも
    現存している不定過去(現在完了)という時制は、機能が強化され、その結果、
    モーダルなカテゴリーとしての『伝聞法』が出来ており、推量や伝聞、または、
    驚異といった意味が表される。 例えば、雨が降ったことを目撃者として伝える
    場合は、普通の完了過去валя を使うが、雨を目撃していない場合は、『雨が降った』
    という事柄の情報源を明確にしなければならず、出来事を推量(воляло e
    『雨が降ったようだ』)として伝えたり、第三者の情報による伝聞(воляло
    『雨が振ったそうだ』)として伝えたりする。

    ブルガリア語(とマケドニア語)のこの現象に関しては、非常に似た体系を持って
    いるトルコ語の影響が指摘されているが、原因はハッキリしていない。



    【ブルガリア語の今昔】
    スラヴ民族がバルカン半島に住み着いたのは、5~6世紀頃だと言われており、
    現在ブルガリア国が位置する地域のスラヴ民族は、当時その地域に住んでいた
    トラキア人と7世紀ごろアルタイ山脈から移動して来たシュルク系の原ブルガリア人
    と一緒になり、ブルガリアという国を築いた。 人数が最も多かったスラヴ人が
    他の民族を支配し、自分達の言語を共通の言語として定めた。

    9世紀には、キリロス・メトディウス兄弟が東方正教会のキリスト教の布教の
    ために文字を創った。 その文字と共に、ブルガリア語の最古の形として知ら
    れている古代教会スラヴ語は、他のスラヴ語圏でも文語として使われていたが、
    12世紀からは、口語的要素を交えた中世ブルガリア語が使われるようになり、
    古代教会スラヴ語と区別された。 その後、15世紀から19世紀の間、ブルガリアは、
    オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれ、トルコ語との接触によって、言語にも
    様々な変化が生じた。 現在使われているブルガリア語の成立は、19世紀後半
    から20世紀初頭に掛けての間と見られている。

    ブルガリア語が話されているバルカン半島では、その地域の言語同士が接触し、
    互いに影響し合って来た。 その結果、類型的には、全く異なる言語が同じ特徴を
    持つようになった。 また、言語体系にもその影響が現れ、様々な隣国、および、
    民族の言語と並んで、最も古い時代に接触していたトラキア人の言語からの単語や、
    原ブルガリア人の言語からの単語、更に、隣国のトルコやギリシャなどからの
    借用語まで、多数見られる。 現在は、コンピューターの普及に伴い、英語からの
    外来語も増えている。



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    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    テュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラヴ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれる。

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    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部から
    ヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、
    アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入する
    ようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。 しかし、ブルガール
    部族連合は分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが
    移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する
    部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から、
    大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの
    北方の草原にあった。
     
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    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス北麓の
    チュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、ハザール可
    汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀のハザールの滅亡と
    共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を遡ってカマ川との合流
    地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタルスタン共和国周辺)に定住、農業と
    交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    テュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。
    特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でもブルガール人の
    話していた言語の特徴を保持しているという。
     
    Bulgaria_800ad

    一部の部族集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に
    定住した。 この集団をドナウ・ブルガールと言う。 彼らは南隣する東ローマ
    帝国と戦い現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア
    帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。 ブルガール・ハン国のブルガール
    人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にコーカソイドに属する
    スラヴ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    Bulgar_warrior

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、ヴォルガ川
    中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語。 テュルク諸語の中での
    位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られている。 ブルガール語の
    話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを構成する民族集団に含まれて
    いたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、他のテュルク諸語とブルガール語
    との間で見られる音韻上の対立が規則的に現れる事から、現在存在する言語の
    中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語であるとみなされている。 尚、現在の
    ヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の要素を一部含むものの、キプチャク系
    テュルク言語とブルガール語の混交言語と考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラヴ化に伴い、バルカンでの話者は途絶
    したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラヴ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者で
    あった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収されたと
    言う、世界的に見ても、かなり珍らしい言語となっているが、その被支配者で
    あった言語が、スラブ祖語である古代教会スラブ語の基となったのは、かなり
    興味深い。 

    【ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古テュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。

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