東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ブリュッセル

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    フラマンとワロンの両地域圏の対立は、地域的な小規模政党の発達を促した。
    現在の中央政府は、いくつかの政党で連立して国会内で多数を占めること
    によって成り立っている。 フラマン・キリスト教人民党は、フラマン地域圏
    では最大の政党で、これがワロン地域圏にある同じ考え方の比較的小規模な
    政党と提携して、カトリック投票ブロックを形作っている。

    provincemap

    キリスト教人民党は、何人もの首相を出しており、その中には、レオ・
    ティンディマスとウィリフリード・マルテンスがいる。 マルテンスは、
    1979年に最初に首相になって以来、数回に渡り首相に選ばれた。 社会党は、
    ワロン地域圏で勢力が強く、オランダ語とフランス語をそれぞれ母国語と
    する人々の集団が、内部に作られている。 この点は、自由党の場合も同じで、
    自由党の強い支持基盤は、ブリュッセル地域圏である。

    1980年代には、失業率は増大し、物価は高騰していた。 この時期にも
    マルテンスは、首相となり、政府から緊急権限を与えられて、国の財政
    状態の改善にあたった。

    彼は、強力な経済政策を採用した。 公共投資と福祉予算を大幅に削って国家の
    負債を圧縮した。 労働者は、賃金の切り下げを強いられ、デモやストライキが
    多発した。 マルテンスは、企業への課税を減らして、生産の増大と職場の
    創設をはかり、世界市場での競争力を付けされた。

    その目的を達成するため、マルテンスは、数度に渡り、短期間、野党の地位に
    甘んじたが、いすれの場合も、新しい連立内閣を作るのに成功した。 1990年代
    初期までに、 この強力な政策は功を奏し始めたようで、ベルギーの経済情勢は、
    久しぶりに改善された。

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    この間、ECを統一した貿易ブロックに作り変えようとする計画が策定された。
    その結果、1993年には司法等の面での結び付きを強めて欧州連合(EU)へと
    移行した。 EUの本部をブリュッセルに置くベルギーは、ヨーロッパ市場の
    大変革の中心に位置している。 1993年、国王ボードワン1世の死去に伴い、
    弟のアルベール2世が即位した。 その後、アルベール2世の長子である
    フィリップが国王に即位し、現在に至っている。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

    belgianrevolution

    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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    14世紀頃、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルグの3国を合わせた地域は、
    ネーデルランド(低い土地)と呼ばれていた。 1369年、フランドル伯の後嗣
    マルグリードが、フランス王の息子のブルゴーニュ(現在のフランス東部)領主と
    結婚した。 これにより、フラマン地域は、ブルゴーニュ家の統治下に置かれる
    ことになった。 マルグリードの夫も、その後継者となった息子も、フラマンの
    政治にはそれほど関わらなかった。

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    ところが、3代目のブルゴーニュ公フィリップ善良公は、ネーデルランドの政治に
    積極的な役割を演じた。 1419年から1467年まで続いたフィリップの長い統治
    期間に、領土は南と東に広がり、ブラバント、エイノー、ナミュール、
    リュクサンブール、アントウェルペンの諸州を含むようになった。 これらの
    諸州は、単一の国家になった訳ではないが、ブルゴーニュ公の領土として緩やかに
    結ばれていた。

    フィリップは、自分の権威を集中するために、1465年、各州の代表者を
    ブリュッセルに招集した。 この集会は、後のオランダとベルギーの国民議会の
    前身である。 フィリップは、自分の臣下からなる大評議会に、ネーデルランド
    諸州の司法と財政を委任した。 この変革によって、各州の持っていた権限は、
    大幅に奪い取られた。 フィリップの息子のシャルル豪胆公は、1467年に父の跡を
    継いで、ブルゴーニュ公となった。

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    シャルルは、領土を拡大するために、フランス等周辺諸国と絶えず戦争をした。
    戦争費用をまかなうために、重い税金が課された。 シャルルの侵略的行動に
    憤慨した周辺諸国との戦いが続き、シャルルは、1477年に戦死した。

    シャルルの死後、フランスは、ブルゴーニュ家の領土を次々占領し始めた。
    フランスによる占領を避けるために、ネーデルランド各州の代表者達は、
    シャルルの娘で20歳になるマリアの継承権を支援した。 その見返りとして
    マリアは、フィリップ全良公が、かつて奪った各州の権利の一部を返還した。
    マリアはまた、ネーデルランド議会が、議会自身の意志で会議を開くことに
    同意した。

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    ベルギーの 人口は、約1,000万人となっており、その95%が都市に住んでいる。 この
    割合は、ヨーロッパ最高となっている。 この国の最も人口の集中している都市は、
    ブリュッセルとアントワープで、その他の都市では、シャルルロアや、リエージュのような
    都市の中心か、、または、ゲントやブルージュのような歴史的な都市に住んでいる。

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    【ブリュッセル】

    ブリュッセルの人口は、その郊外も合わせると、110万人となっており、面積の上では、
    ブラバンド州の半分近くを占めている。 この都市は、センヌ河畔にあって、ずっと以前
    からフラマン文化とワロン文化の接合点であった。 現代ブリュッセルは、国際的な産業と
    政治の中心となっている。 市民の3人に1人はベルギー国籍を持っていない。 この
    街では、オランダ語とフランス語が公式言語とされており、住民の大部分はフランス語を
    話すことが出来る。 また、英語やドイツ語、その他の言語も日常的に極普通に使われて
    いる。

    1830年以来、ブリュッセルは、ベルギーの首都ととして、商業、工業、そして、文化の
    中心であった。 住民の多くは、この都市にある政府機関や国際機関の職員となって
    いる。 ブリュッセルの主要な産物としては、繊維製品、薬品、電気機器、機会、ビール
    等がある。

    groenplaats

    【アントワープ】
    人口50万人のアントワープは、ヨーロッパでも最も船舶の出入りの多い港で、スヘルデ川
    沿いに広がっている。 15世紀と16世紀には、この都市は、商業の中心として繁栄し、
    商人、芸術家、職人が多数住み着いた。 現代でも、この都市の主要な収入源は貿易
    だが、精油工業、薬品工業、冶金業、食品加工業、電子工業等も盛んになっている、
    ダイヤモンド産業は、この都市の経済の重要な要素で、ダイヤモンド研磨業は、何世紀も
    前から、世界随一と言われている。

    charleroi

    【シャルルロア】
    シャルルロアは、人口25万人以上を擁する都市で、サンブル川の肥沃な農業地帯の
    ただ中にある。 付近に石炭が多量に埋蔵されているため、この都市の工業は19世紀
    に入って繁栄し、ワロン地域の大きな部分に富と仕事をもたらした。 この都市の運河沿い
    には、かつて商業活動が活発に行われた倉庫が立ち並んでいる。 冶金業関係の
    鋳造所や工場の多くは、時代遅れとなり、今では、ハイテク産業の町となっている。

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    【ゲント】
    ゲントは、人口23万5,000人の古い大学町で、東フラマン州の州都となっている。 
    ライエ川とスヘルデ川の合流地点に位置している数十の島々の上に建設されたため、
    ベルギー第二の港湾都市となっている。 1886年には西スヘルデ運河に直接連絡する
    運河が完成した。 何世紀も前からゲントは、ベルギーの繊維産業の中心となっている。
    最近では、鉄鋼の生産と草花の栽培も地元の経済に大きな意味を持つようになった。
    第一次世界大戦と第二次世界大戦では、ドイツ軍に占領されたが、貴重な建物は破壊を
    免れた。 9世紀に建てたれた城郭と16世紀に建てられた市庁舎は、今でも健在である。

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    【リエージュ】
    人口21万5,000人のリエージュは、ミューズ川の両岸にまたがっている。 遠い昔から、
    ワロン地域圏の行政と商業の中心地で、ひっそりした感じの中庭や狭い裏通り、急な
    坂道が多い。 1460年代にリエージュは、ここの市民に侮辱されたと考えたシャルル
    豪胆公によって、徹底的に破壊された。 そのため、現在残る建築物は、16世紀以降に
    建てられたものが多い。 リエージュは、付近に大量の鉱物が産出するため、19世紀から
    20世紀に掛けて、武器とガラス器の生産が盛んに行われるようになった。 2度の大戦
    では、ドイツ軍に樹凜され、工場の一部は破壊された。 戦後、リエージュは、ベルギーの
    文化の中心地のひとつとなり、喫茶店、キャバレー、コンサートホールやバレエの劇場が
    多数ある。

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    【ブルージュ】
    西フラマン州の州都であるブルージュは、7世紀に建設され、人口12万人、13世紀から
    15世紀に掛けて、ハンザ同盟の加盟都市として繁栄した。 この町と北海に面した
    ゼーブルッヘとは、運河で結ばれている。 市内の運河には数多くの橋が掛かり、運河
    沿いに13世紀以来の家屋が立ち並んでいる。 ゴシック様式の寺院、大きな広場、
    昔ながらの商業建築物等が交易の中心地だった頃の歴史を物語っている。

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    ベルギーの首都、ブリュッセルのグランプラスで毎年夏に開催されている
    『フラワーカーペット』。 来年度は、日本とベルギーの外交関係樹立
    150周年を迎える。

    Le prochain tapis de fleurs de la Grand-Place de Bruxelles célébrera
    le 150e anniversaire des relations diplomatiques entre la Belgique et
    le Japon, a annoncé l'ambassade du Japon.
     
    tapis-de-fleurs1

    今では、すっかりと観光名所となった『フラワー・カーペット』だが、隔年の
    8月15日の週にグランプラスで開催されている。 来年度で20回目を迎える
    このイベントは、8月12日から15日まで、日本をテーマにする。

    Un été sur deux, le week-end du 15 août, la Grand-Place de Bruxelles
    se couvre d'un tapis de fleurs devenu une importante attraction touristique.
    La 20e édition, programmée du 12 au 15 août 2016, mettra à l'honneur
    le Japon.

    日本大使館の話によると、日本側のスポンサーが、費用の半分を負担し、
    来年の5月に除幕式が行われる。

    Des sponsors japonais assureront la moitié des coûts du tapis floral,
    dont le design sera dévoilé en mai, selon l'ambassade du Japon.
     
    tapis-de-fleurs

    昨年度は、トルコ、モロッコからの移民が50周年を迎えた。

    L'an dernier, l'événement célébrait les 50 ans de l'immigration
    turco-marocaine.

    ベルギーの首都のメイン広場で開催された最初のフラワーカーペットは、
    1971年まで遡る事が出来る。 視覚的に彩られたイベントは、1986年から、
    毎年隔年で開催されている。 美しくも、はかないこのお祭りは、長さ75m、
    幅24m、合計1800平方メートルのベゴニアの花で構成されており、1平方
    メートルの花の数は、約300となっている。

    Le premier tapis de fleurs installé sur la place principale de la capitale
    belge remonte à 1971. Le spectacle visuel est organisé tous les deux ans
    depuis 1986. L'oeuvre éphémère mesure 75 m de long sur 24 m de large
    et est composée de 1.800 m2 de bégonias, soit environ 300 fleurs
    coupées par m2.



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    正式名称は、ベルギー王国。 隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクス
    とも呼ばれる。 公用語は、フランス語、オランダ語、ドイツ語の3言語。 立憲君主
    国家であるため、国王が国民に向けてスピーチをする際には、この3言語にて、行われる。
    日本では、ビールやチョコレートなどで知られる。 ヨーロッパの十字路に位置している
    ため、古代から多くの戦乱の舞台となり、建国後もドイツやフランスなどの強国に
    翻弄されてきた。

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    首都のブリュッセルは、ヨーロッパ連合(EU)の主要機関の多くが集まっているため、
    『EUの首都』と呼ばれている。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、
    オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が
    公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される。 建国以来、単一国家であったが、
    オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年に、
    フランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。

    紀元前後になると、ローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが、
    紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて
    言及がなされた。 カエサルは、同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の
    多くを総称して『ベルガエ族』と呼んだ。 これが、現在のベルギーの国名の語源と
    なっている。

    3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。
    これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の
    多数の都市が占拠されて行くと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線
    まで後退した。

    こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が
    浸透して行き、その結果生まれた境界線は、以降のベルギーにおけるラテン系・
    ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった。 

    ブリュッセル~ワロンの画像

    14世紀にこの地に栄えた、ブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方は、
    ハプスブルク家の支配下に組み込まれる事となった。 同家がスペイン系と
    オーストリア系に分かれると、ベルギーは、スペイン領となった。 16世紀には、
    スペインの支配に対して反乱を起こし、ネーデルラント17州のうち、ユトレヒト同盟を
    結んだ北部7州は、ネーデルランド連邦共和国として正式に独立を承認されたが、
    南部諸州はスペインの支配下に留まった。

    この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源となっている。 フランデレン
    地方は、18世紀のスペイン継承戦争の後に、オーストリア領となった。 1789年に
    ハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対して、革命が起こり、1790年には
    独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた。

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    ベルギー、並びに、ルクセンブルクは、南ネーデルランドとして再びハプスブルク家の
    支配下に戻るが、その後フランス革命戦争により、フランス軍に占領された。 フランス
    革命勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、ベルギー戦線で、
    2度に渡り、オーストリア軍を殲滅し、その後、フランス軍は、南ネーデルランドを
    占領した。 その際、ナポレオンとオーストリアは、カンポ・フォルミオ条約を結び、
    その結果、南ネーデルランドは、フランスに併合された。

    アントワープ~フランドルの画像 

    ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって、ベルギーは、オランダと
    共に、ネーデルラント連合王国として再編された。 一方、ルクセンブルク大公国は、
    ドイツ連邦に加盟した。 1830年、ベルギーは、ネーデルラントの支配に対して、独立
    革命を起こし、同年に独立を宣言する。 1839年、オランダとベルギーとの平和条約が
    締結されたた、そこでは、オランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは
    永世中立国の宣言をせよという事になっていた。 これはプロテスタント国家オランダに
    とって、カトリック国家フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすための
    ものであった。 このように、ベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が
    関わっていた。

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    第一次世界大戦では、中立政策を無視して進入したドイツ軍によって、ほぼ全土を
    占領された。 戦後、ドイツの脅威に対抗するため、フランスと軍事協定を結んだが、
    1936年にはこれを破棄して、中立政策へと回帰した。 第二次世界大戦においても、
    ドイツ軍によって国土を占領された。

    ロンドンに亡命政権が立てられたが、国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の
    意向を無視して、ドイツに降伏し、国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視される
    事となった。 第二次大戦後のベルギーは、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体参加以来、
    ヨーロッパ統合において中心的な役割を果たしてきた。 現在、首都ブリュッセルは
    欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の『首都』的な
    性格を帯びている。 ブリュッセルは、2014年、ビジネス、人材、文化、政治などを
    総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に『政治的関与』が高く評価され、世界
    11位の都市と評価された。

    ベルギーは、1993年の憲法改正により、連邦制に移行した。 連邦は、ブリュッセル
    首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、
    フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成
    される。 そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つの州に
    分かれている。 ただし、フラマン語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル
    首都圏を除き領域が完全に重なるため、現行憲法が施行されて間もなく、フラマン語
    共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。

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    統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。つまり、現在のベルギーには
    連邦構成主体は、憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。 フランデレン
    地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と
    呼ばれる。 ベルギーの住民は、オランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語を
    話すフランデレン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他混血などが11%と
    なっている。 特に首都ブリュッセルは、中東系を中心とした移民が多い。 ベルギーの
    国土は、使用言語により、3つの言語共同体に分かれており、それぞれに地方公用語が
    ある。

    北部のフランデレン地域は、フラマン語共同体に属し、フラマン語(オランダ語)が
    公用語となっている。 また、フローネン、ネーメン、コミーヌなどはフランス語地域と
    なっている。 しかし、フランデレン地域の大抵のフラマン人は、老若男女を問わず
    フラマン語(オランダ語)以外にも、フランス語と英語を習得している。

    南部のワロン地域は大部分がフランス語共同体に属し、フランス語が公用語となっている。
    ベルギーのフランス語は発音・語彙に若干の特徴があるが、フランスの標準フランス語と
    ほとんど同じである。 ただし、標準フランス語の他に、ワロン語とフランス語のいくつかの
    方言も広く話されている。 フランス語の諸方言は、主にフランス国境地域で話されている。
    また、南東部のルクセンブルク国境地域では、ルクセンブルク語が話されている。 ワロン
    地域の住民で、オランダ語や英語を話す者は非常に少ない。 また、ワロン地域では、
    英語がほとんど通じない。 ワロン地域の北東極一部のドイツ国境地域は、ドイツ語
    共同体に属し、ドイツ語が公用語となっている。 ただし、それぞれの話者の割合は
    均等でなく、オランダ語が60%程度、フランス語が40%程度、ドイツ語が1%未満である。

    尚、首都ブリュッセルでは、オランダ語の使われるフランデレン地域に囲まれているが、
    フランス語話者が8割以上を占めており、フラマン語共同体とフランス語共同体の双方が
    自治権を持っている。 フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には、
    『言語戦争』とまで呼ばれる対立関係が存在する。

    2006年12月13日、ベルギーの公共放送RTBFが『フランデレン地域が独立を宣言して
    前国王アルベール2世がコンゴ民主共和国に亡命した』という架空ニュースを流した
    ところ、一時国内が大混乱に陥り、地域間の溝の存在を露呈する結果となった。

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