1740年にハプスブルグ帝国の女帝として戴冠したマリア・テレジアは、帝国内に
画期的な変化をもたらした。 彼女は、ハンガリー領内の支配を強化し、
ハンガリー人地主と議会の力を弱め、ハプスブルグ領内でのドイツ語の使用を
広めた。
この『ドイツ化』政策による弾圧は、ハンガリー人とスロバキア人指導者の間に
強い民族主義を呼び起こした。 スロバキアとハンガリーで初めての新聞が、
ブラチスラヴァで発行された。 1787年、カトリック神父アントン・ベルノラクは、
古くから教会で使われていたラテン語に代って、初めてスロバキア語の文法書を
出版した。
19世紀初めに、ハプスブルグの領土は、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトの
攻撃にさらされた。 1805年、ナポレオンはハプスブルグ軍をモラビアの
アウステルリッツの戦いで破った。 しかし、ナポレオンは1815年、ヨーロッパ
から追放された。
後の条約で、オーストリアはハンガリー、スロバキア、ルテニア、ボヘミアの
支配権を強めた。 ハプスブルグは同時に、ハンガリー議会も含めて地方議会の
支配を強化し、議会で決議された法でも拒否権を行使した。
【民族の反抗】
19世紀半ば頃には、ハプスブルグ支配下のスロバキア人たちは、自由を求める
ようになった。 スラブ人の指導者でも、オーストリア帝国に留まることを希望
した者もあったが、多くはハプスブルグからの完全な独立を望んだ。 学校や
教会でハンガリー語の使用を強要されたために、スロバキア人の怒りは増していた。
1848年に民族革命がヨーロッパ各都市に起こり、スラブ民族議会がボヘミアの
首都であるプラハで開かれた。 スロバキア代表は、オーストリア帝国の支配下で、
チェコとスロバキアの連邦を形成しようとした。 しかし、ハプスブルグは会議を
非難し、要求を無視した。
同年、ハンガリー議会のスロバキア代議員ルドヴィト・ステュルは、他の
スロバキア地方議会をつくり、学校でスロバキア語を使う権利を国会に請願した。
しかし、スロバキアをハンガリーの領土とみなすハンガリー議会は、これに強く
反対した。 議会がスロバキアの請願を拒否すると、スロバキアでは反乱が起こり、
ハンガリー軍はすぐに蜂起を鎮圧し、反乱首謀者を処刑した。
同じ時、ハンガリー人はハプスブルグに、民族の自治を求める反乱を起こしていた。
反乱軍は、オーストリア・ハプスブルグ家と同盟を結んだ、スラブの強国ロシア軍を
敵に回して戦った。 しかし、その後も20年間、ハプスブルグは帝国をしっかと
支配し、スロバキアとハンガリーの独立要求を無視した。
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