一般市民は、敗戦を貴族のせいにし、自分達が公職に就く権利を増大させる方向で
動いた。 1665年、議会は王権の制限を全て撤廃し、新しい憲法を採択して、
国王の選挙制を止め世襲制とした。 小作農を除く全市民が、王の下で平等で
あることが定められた。

18世紀初頭に、またスウェーデンと戦った他は、この世紀を通じて、デンマークは
平和を維持した。 1699年に即位した国王フレゼレク4世は、宗教儀式を行うよう
奨励した。 各地域に学校が建てられ、一般市民に教育の機会が与えられた。
しかし、小作農には恩恵が及ばなかった。

1733年に発布された法令によって、小作農は、一生の大部分を生まれた土地で
過す事が義務付けられた。 スタウンスボンドと呼ばれたこの政策によって、
地主は小作農の労役を、他の地主に売る事が出来るようになった。

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小作農が自分のために使える土地は、極わずかなのに対して、地主への義務は
重く、家族のために穀物を収穫する時間さえないに等しかった。 個人の
自由への制約とは無関係に、国全体としての経済状態は、18世紀半ばまでに
目立って改善された。 ヨーロッパ諸国の大部分が戦争に巻き込まれているため、
中立政策を取ったデンマークは、貿易を拡大出来たのである。

デンマークは、カリブ海のセントトーマス、セントジョン、サンクロワの諸島を
領有し、デンマーク人の会社がそこで農地を経営した。 農地で収穫された
コーヒー、砂糖、タバコは、ヨーロッパの市場で販売された。 デンマークはまた、
アジア地域とも貿易を行い、コペンハーゲンの商業中心地としての重要性は
増して行った。

1746年にフレセレグ5世が国王になると、デンマーク社会の宗教的厳格さは一部
失われた。 フレセレグ5世は統治よりも個人的な快楽に興味を持ち、政治は
大臣達に任せた。 この時代最も力のあった政治家は、アダム・モルトケと
J・H・Eベルンストフである。 2人は、農業制度の改革を行って、小作農の
開放に努力した。 ロシアがシュレスウィヒとホルスタインを要求した時、2人は、
話し合いで扮装を解決して、戦争を未然に防いだ。

1784年、ベルンストホフの甥アンドレアス・ペーター・ベルンストホフが、
新内閣の首班となった。 1788年、若いベルンストホフはスタウスボンドを
廃止して、小作農を開放した。 小作農制度の廃止は、この国の農業に大きな
変化をもたらした。 政府は、特別の銀行を創設して、小作農が自分の農地を
買うための資金を提供した。 農地を賃貸する地主が、借り手を公平に扱う事を
義務付ける法律も制定された。

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