多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:フランス

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    日本でも一時期企業による『追い込み部屋』なるものが話題となったが、
    フランスでは企業側から仕事を与えられずに、病気になったとして、フランス人
    男性が訴訟を起こした。 日本では、このような訴えを起こしたとしても、
    裁判所からは相手にすらされないのだが、日本の常識は、世界の非常識とも
    言うべき、驚くべき内容を紹介する。

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    香水関連会社で8万ユーロ(約1,000万円)を超える年俸を得ていたフランス人
    男性が、仕事が退屈になり『プロのゾンビ』にさせられたとして元上司を
    提訴した。
     
    フレデリック・デナール氏(44)は 2日、『退屈症候群』になったとして
    損害賠償36万ユーロ(約4400万円)の支払いを求める訴えを労働審判所に
    起こした。
     
    デナール氏は香水会社アンテルパルファムに勤めていたが、7か月間の病気
    休暇を取った後、2014年9月に解雇された。
     
    デナール氏の弁護士によると、同氏は『燃え尽き症候群』の反対である
    『退屈症候群』のため自動車の運転中にてんかんの発作が起き、交通事故を
    起こした。 この事故で同氏は数日間意識不明となり、その後病気になった。
     
    デナール氏は2006年12月にマネジャーとしてアンテルパルファムに入社した。
    最初は仕事一筋の模範的社員だった。 だが、デナール氏の仕事量は2009年から
    減り始め、2012年にアンテルパルファムが主要顧客を失い従業員を解雇し始めて
    から状況はさらに悪化。 何もすることがなくなった同氏は、同社社長の使い
    走りをするようになった。

    【日本企業による追い込み部屋の一例】 

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    仏紙ルモンドのインタビューでデナール氏は『1日の仕事は20分から40分』で
    終えてしまっていたと述べた。 『もう何に対してもエネルギーを失ってしまった。
    何もしないで給料をもらうのは罪であり恥だと感じた。 自分は会社で見えない
    存在になったという気がした』

    医師の診断書は出ているが、フランスの労働法の下でデナール氏が不当解雇されたと
    主張して裁判で勝つには、デナール氏側が病気と労働条件との関連を証明しなければ
    ならない。

    アンテルパルファムの弁護士はデナール氏の『戦略』に疑問を投げかけている。
    というのもデナール氏は以前、自分を働かせ過ぎたとして同社を労働審判所に
    提訴したことがあったからだ。

    労働審判所は7月27日に判決を出す予定。

    尚、フランスでは、社会保障が行き届いているため、企業を辞めてからの
    失業保険は、最長で3年間も失業保険(雇用復帰支援手当)が出続けることに
    なっている。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

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    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    反乱軍の勝利に抵抗し、スペイン軍は、1576年にアントウェルペンを略奪した。
    ベルギーを含む全ネーデルランドは、カトリックもプロテスタントも協力して
    スペインからの独立を決意した。 まず、内部の宗教的な対立を解決する必要上、
    1576年、各州の代表達は、ゲント盟約を結び、宗教の自由を法的に定めた。

    1577年、ネーデルランド諸州は、満場一致で、フェリペ2世が全スペイン軍を
    撤退させて、宗教的自由を認めない限り、スペイン側の新しい総督、
    オーストリアのヨハンを認めないと宣言した。 フェリペはこの条件に同意した。
    しかし、各州の連合は短命に終わった。 主にカトリック教徒の多い南部諸州の
    指導者達は、北部諸州を支配下に収めたカルヴァン主義者達に対して、根強い
    不信感を持っていた。 1579年、南部のカトリック系諸州のいくつかが、アラス
    同盟を組織してスペイン王の権威を受諾した。 南部諸州の分裂は、2、3週間後、
    北部諸州がスペインからの独立を宣言するに至って、ますます深くなった。

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    1580年代には、新任のネーデルランド総督アレッサンドロ・ファルネーゼが、
    ネーデルランド諸州での宗教的分裂を利用して、ゲント、ブリュッセル、
    アントウェルペンの3市を征服した。 3市のいずれにもフォルネーゼは、
    プロテスタント達が自発的にその都市を出て、北に移住することを認めた。
    しかし、スペインの北部諸州を再占領しようという試みは成功せず、北部諸州は、
    ネーデルランド独立連合諸州を名乗るに至った。 これが、後のオランダ
    である。

    独立連合諸州の産業は繁栄し、オランダのいくつかの港湾都市は間もなく、
    交易の中心地としてのアントウェルペンの地位を奪った。 その間に、スペインは、
    オランダとの戦争の経費を調達するため、南部諸州に重い課税を課したので、
    諸州の経済状態は、悪化した。

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    【戦争の被害】
    こうして、ネーデルランド南部諸州は、オランダとは異なった道を歩むこと
    となり、これが、現在のベルギーの成立に繋がった。 ベルギー領域は、
    スペイン系ハプスブルグ家の領土として残り、1633年、国王フェリペ4世の
    統治下に入った。 フェリペ4世は、30年戦争(1618~1648)の最終段階で、
    ベルギー領域を戦乱に巻き込んだ。 フランスは、オランダ等と協力して、
    最終的にスペイン軍を敗北させた。

    この勝利によって、オランダは、戦後の平和条約で有利な条件を獲得した。
    スヘルデ河口を含むブラバンド州都フラマン州の一部は、オランダに与えられた。
    オランダは、地域の商業上の優位を確保するため、アントウェルペンの港を
    封鎖し、ベルギー領域の経済は、更に衰退した。 30年戦争が終わっても、
    領域内のフランスとスペインの敵対関係が続いた。

    17世紀の後半、フランスは、ベルギー領域を南部から少しづつ併合して行った。
    1678年、フランスは、イーペルとゲントの両都市を占領した。 1697年、
    ライスワイク条約によって、フランス軍のベルギー占領は、最終的に集結した。
    50年間、フランスとスペインの戦場となったベルギー南部の広い地域は、廃墟と
    なってしまった。

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    カナダの先住民族であるファースト・ネーションズの祖先は、人類の南北アメリカへの
    移動に伴って、カナダへやって来た人々である。 数千年に渡る人類とこの地との
    関わり方は、ファースト・ネーションズの生活にもそのまま反映している。

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    16世紀にフランス人とイギリス人がカナダへやって来て、住むようになったが、彼らは、
    ファースト・ネーションズと交易をしたり、戦ったりした。 カナダという名前は、この頃に
    出来たもので、イロコイ族の言葉で『村』をを意味する『カナタ』が起源だと言われている。

    18世紀になると、フランスとイギリスが互いに戦うようになった。 イギリスが勝利したが、
    フランスの影響は、今でもカナダに色濃く残っている。 その後、世界各地からやって来た
    移民達も国家建設に貢献して来た。

    歴史学者によれば、最初にカナダにやって来た人達は、1万5,000年から3万年前に
    アジアと北アメリカを繋いでいた陸地を渡ってやって来たという。 それから、彼らは、
    次第にカナダ中に散らばって行った。 西暦1,000年頃に、スカンジナビアから来た
    バイキングが定住してたグリーンランドから、レイフ・エリクソンが、ニューファウンド
    ランドにやって来た。

    彼は、発見した土地を『ヴィーン・ランド』(ワインランド)と名付けた。 恐らく、その
    名前なら他の入植者をも引き付けるだろうと期待したのだ。 しかし、それ以降は、
    わずかな数のバイキングがやって来ただけで、入植は長続きしなかった。

    次にやって来たヨーロッパ人は、イギリス王国に雇われたイタリア人のジョン・カホットで、
    1497年の事であった。 帰国した彼がカナダの海は、豊富だと報告すると、イギリスと
    フランスの漁師は、こぞって漁に出向いた。 ヨーロッパ人は、カナダには、金が沢山
    あると思っていたが、実際に見つけたのは、魚、木材、毛皮といった、別の種類の
    宝物だった。

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    フランス人ハンター達が毛皮を求めて、カナダ内陸部を探検するようになり、カナダに
    『ヌーベル・フランス』という名の植民地を建て、アカディア、ケベック、モントリオールを
    入植地とした。 入植者達は、ヒューロン族や、他の部族と手を結び、強敵イロコイ族と
    戦った。 フランス人宣教師がキリスト教を広め、カナダで最初の教会が作られた。

    フランスがカナダ東部に入植し、ミシシッピ川に沿って、現在のアメリカの方へと南下して
    行く一方で、イギリスは、ハドソン湾周辺を探検していた。 ハドソン湾の名前は、
    1610年に船でここへやって来たヘンリー・ハドソンにちなんだものだ。

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    ヨーロッパで何世紀にも渡って対立して来たフランスとイギリスは、ここでもやはり争う
    事となった。 イギリス人農民とフランス人毛皮商人が土地問題で争いを始め、入植者、
    兵士、ヨーロッパの船員、そして、ファースト・ネイションズまでをも巻き込み、北アメリカの
    統治をめぐり、1689年から1763年までの間に4度の戦争を繰り広げた。 最後の
    戦いとなった七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は、1763年に終わり、イギリス軍が
    勝利を治めてカナダの統治権を獲得した。

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    現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
    命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
    航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
    発端となった。

    フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
    命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
    と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
    ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
    ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
    十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
    フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
    創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

    【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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    現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
    中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
    言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
    (1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
    移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
    人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
    文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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    カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
    イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
    スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
    以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
    からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
    アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
    攻撃した。

    しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
    付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
    バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
    間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
    戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
    戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

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    1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
    第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
    35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
    フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
    アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
    たちであった。

    1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
    それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
    ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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    世界で最も人気がある観光都市と言えば、フランスのパリ。 但し、パリは、その
    イメージとは裏腹に、汚くてスリが多い事でも有名。 ヨーロッパのガッカリスポット
    ランキングでは、常に上位にランクインしているのも事実。 街を歩けば、
    エレベーターやエスカレーターが動いて
    いない事はしばしばで、エレベーター
    どころか、電車や路面電車も動いていない事も珍しくは
    ない。

    そんな非常にギャップのある街パリで、是非とも気を付けて欲しいのが、観光客を
    狙ったスリが多いこと。 パリに限らず、スリはどこにでも居るのだが、必要最低限の
    注意だけはして置いた方が良いかも知れない。

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    【パリを歩くときに注意すること】
    ● メトロでも街中でも、カバンはきちんと閉め、ファスナーを握るなどして守る。
    ● ファスナー付きのカバンがベスト。 ただし、後ろの方にまわして歩いていると

      気づかないうちにすられていることがある。→斜めかけカバンは逆に旅行者と判断する

      アイテムにもなりえるとのこと…
    ● スリは日本人観光客を狙っていることを常に意識しておく。 例えば、メトロのホームで

      電車を待っているとき、周囲を見渡し、メトロが来たのに乗らない、ジロジロ見てくる等、

      挙動不審な人がいないか確認すること。
    ● 中学生、高校生ぐらいの子供や若者もスリであることが多いので、気を抜かない。
    ● スマートフォンは狙われやすいので、ひと目につく場所で長々と使わないようにする。

      マップを見ている時など、つい気が緩みがちだが、後ろから押してひったくり逃げる
      スリも多い。
    ● メトロ内、開くドアに近い場所にはできるだけ立ったり座ったりしない。 扉が閉まる
      瞬間にスマホやバッグをひったくり、そのまま降りて逃げられてしまう場合がある。
    ● 有名な観光スポットの最寄り駅ホームにスリが待ち構えているのをよく見かける。
      例:旅行者の多い1番線の各駅や、6番線Bir-Hakeim駅(エッフェル塔)、12番線
      Solférino駅(オルセー美術館)など

    【スリの手口の例】
    ● メトロに乗り込むときや、改札を通るとき、数人の若者が狙った観光客を通せんぼする
      ようにして取り囲み、こちらがまごまごしている間に財布などをぬきとられる。
    ● 時間や道を聞くフリをして気を引いている間に近くにいる仲間がスリをする。
    ● 道に落ちているもの(指輪など)を拾ったフリをして話しかけ、気を引いている間に
      仲間が後ろからスリをしたり、そのものを売り込もうとするパターンもある。

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    東日本大震災以降、日本のメディアは、こぞって、日本賞賛ばかりを行ってきた。
    その一部は、
    ありもしない話題をでっち上げて、海外へとアピールしたが、ダメな
    人間に限って、自分を賞賛し、大きく見せようとする傾向が強いのは、周知の事実。

    今、日本は、その道を着々と歩んでいる。 そもそも、被災地で略奪はなかったという
    のは、真っ赤なウソで、一部では、一時、無法地帯と化
    したため、むしろ、略奪の
    限りを尽くされたのだが、そのような不都合な事実は、伏せられたまま。



    200f9bcf.jpg


    『所さんのニッポンの出番』や『世界が驚いたニッポン!スゴ〜イデスネ!!視察団』
    といった
    番組では、訪日した外国人に『日本がいかにクールか』を語らせて、必ず
    日本語の吹き替えが入る。 NHKの“クールジャパン万歳”番組(他国には滅多に
    ない類の番組)は、何ということもない話題を、日本が誇るべき功績だとして必死に
    持ち上げる。

    旅番組も外国を紹介しているのかと思いきや、最後は日本が外国でどう見られて
    いるかという話になる。 現在、経済産業省では、『クールジャパン戦略』を提唱して
    おり、年間約155億円の予算を組んで躍起になって日本を海外に売り込もうとしている
    ものの、このコンテンツとなっているのが、日本国内でもさほど盛り上がってはない、
    いわゆる、『オタク文化』であるため、日本人としては、そのような
    ものを見ても、
    違和感を感じるばかり。

    海外向けのコンテンツとして、成功を収めているのは、アニメとマンガを挙げる事が
    出来るのだが、フランスでは、日本のポップカルチャーがそこそこ浸透しているものの、
    その他の国々においては、フランスほどの市民権を獲得していない。 マンガも、
    フランス語に翻訳されてものは、かなり沢山あるため、フランスが世界に対して
    果たした『クールジャパン』効果は、計り知れない。

    現在、
    ヨーロッパでも、日本ブームが続いているが、その大本は、やはり、フランス
    であると言える。



    日本政府は、これまでにも、AKBを始めとする、歌手の輸出を何度か試みたものの、
    肝心のその
    アーティストのレベルが、余りにも低過ぎるため、海外では、全く受け入れ
    られてはいない。 そもそも、日本には、『ロリコン文化』が常に根底にあるため、単に、
    若いだけで、実力が伴っていない若手アーティストが多い。

    一昔前まではのアイドルは、清楚で歌が上手かったものだが、
    今となっては、その面影
    すらない。 お隣の韓国は、政府を挙げて、韓流ドラマや、Kポップの輸出を試みた結果、
    日本よりも遥かに上を行く、いわゆる、『韓流ブーム』が巻き起こり、これまで、日本びいき
    であった欧米人の心をつかみ取った。 日本と韓国との戦略の決定的な違いは、単に、
    日本国内でだけ通用する感覚を海外にも無理やり押し付けているのか否かに尽きると
    思うのだが、韓国の場合は、ドラマの内容が、
    必ず、お涙頂戴が入っているため、心を
    揺さぶられやすい。 日本のアニメや、アイドルの
    場合は、内容が幼稚過ぎるため、
    海外の大人には、受け入れられ辛い。

    今後、日本がどのようにして、『クールジャパン戦略』を推し進めるべきなのかは、まだまだ
    考え
    なければならない点が多々あるのだが、ひとつだけ言えるのは、実力のないものを
    無理やり売りだそうとしたところで、海外では、相手にすらされないため、もっとまともな
    モノを海外に紹介すべきだと思う。 海外から、日本へやって来た外国人の一部には、
    日本全国、どこへ行っても
    コスプレーヤーが居ると信じて日本へやって来る外国人も
    多いため、現実の生活に即した
    コンテンツを輸出すべきだと思う。

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    1789年7月14日、フランス王国パリの民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃した
    事件は、民主主義を求めるフランス革命の始まりとされている。 この事件の一周年を
    記念して、フランスでは、翌年1790年に建国記念日が行われ、現在でも、それを
    記念して、7月14日がフランス共和国の成立を祝う日となっており、国民をあげての
    祝日となっており、特に、パリでは、花火やパレード等の大々的な催しが例年開催
    されている。



    当時のバスティーユ牢獄は、王の恣意的な拘禁令状により拘束された人々の刑務所と
    なっており、特に著作が王統政府の気分を害した等の政治犯を拘束する事で知られて
    いたため、バスティーユ牢獄は、君主専制政治の象徴となっていた。 バスティーユ
    包囲の段階でここに収容されていた政治犯は、7人だけであった。 バスティーユ
    襲撃は、結集と反乱の象徴としてより重要な意味を持っている。 この襲撃から間もなく、
    8月26日には、人間と市民の権利の宣言『フランス人権宣言』が採択され、近代における、
    民主主義の幕開けとなった。 フランス革命時のスローガンは、『自由、平等、友愛』

    Bastille

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    2015年7月2日(木)~7月5日(日)まで、パリ・ノールヴイルパント展示会会場にて、
    第16回 ジャパンエキスポ 2015が開催された。 展示規模125,000㎡、出展社数
    688社、2015年度の予測来場者数24万5千人となっている。

    img_16

    年々過熱する『クールジャパン戦略』だが、日本に対するイメージは、アニメや
    コスプレばかりがひとり歩きしており、肝心の日本文化の紹介には程遠い。

    韓国の『ドラマ戦略』であれば、まだ、その国の文化を紹介出来るのだが、アニメや
    コスプレに代表される『サブカルチャー』に伝統的な趣向はない。 それどころか、
    今時秋葉原にすら居ないような格好の人間が日本では普通に歩いていると
    思われても迷惑千万。



    フランスでは、他国に先駆けて、この「クールジャパン」を取り入れて来たため、
    マンガのフランス語への翻訳もかなり進んでおり、現在のヨーロッパでの日本
    ブームは、フランスが火付け役。 日本のマンガは、フランス語から、ヨーロッパの
    主要言語全てに翻訳されており、日本のマンガが売っていないヨーロッパの街は
    ないのではないかと思われるほど。

    8173572c9

    日本政府が毎年巨額の国費を投入して推し進め、年々過熱する『クールジャパン』
    戦略とは相反して、その使用不明金の多さにも注目したい。 官民ファンドは税金の
    無駄使いと言われているだけでなく、天下りの温床、民間との癒着等様々な問題点が
    指摘されている。 そして、今のクールジャパン機構も、用途不明な運用、税金の
    不適切な使用を疑われても仕方のない状況となっている。

    2010021

    実は、海外市場でのアニメの需要は、伸びているものの、日本のアニメは、90年代に
    ピークを迎え、それ以降、輸出は殆ど伸びてはいない。 そればかりか、アニメの
    製作者達は、その作業の殆どを海外へと丸投げをしているため、若手製作者が
    育たず、また、収入が低いため、食うや食わずやの生活をしている人達も多いため、
    実際に『クールジャパン』の恩恵を受けている人達はかなり少ない。

      

    それでも、国を上げて日本人ですら馴染みの薄いポップカルチャーを海外へ輸出
    しようとするその意図とは何なのか? 『クールジャパン』という言葉は、ブレア
    政権下の英国政府が行ったソフトパワー戦略である「クールブリタニア」を真似た
    ものであるが、この『クールブリタニア』では、ブレア首相の直下に4つの異なる
    プロジェクトが設置され、遺跡や舞台芸能等の伝統文化から、ビートルズや映画等の
    現代文化までをちゃんと分類して幅広く捉えるという、非常に正しい方式を取っていた。

    013I00001

    コンテンツの輸出においても、日本は、韓国に大幅に遅れを取っており、ドラマの面に
    おいては、完全に完敗、音楽に関しても、海外のJ-POPは、K-POP程の人気はない。
    このような状況下においても、日本政府は、特に何の戦略のないままオタク文化の
    輸出を続け、税金の無駄遣いを止めようともしない。

    一見、海外では大人気の日本のオタク文化と思いきや、その人気も極々一部の人達
    ばかりで、内容が細か過ぎる日本のアニメを外国人が本当に理解しているとは言い難い。
    日本人にも馴染みが薄いオタク文化ばかりを政府が率先して輸出しているのも問題で、
    偏った日本の文化を当たり前だと思っている外国人が増えている。

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    世界の先進諸国は等しく少子化の悩みを抱えている。 そんな中、家族
    政策により、出生率を回復させている国がスウェーデンとフランス。
    スウェーデンでは、出生率が1999年で1.5で最低となり、2010年には
    1.98と回復している。 この著しい回復は、1999年から導入された育児
    休暇の充実と密接に関係している。

    【世界の出生率】
     
    1899

    福祉が非常に充実しているスウェーデンでは、父親と母親両方を合せて、
    年間で480日間(約16カ月)の有給育児休暇を取得する事が出来、そのうち、
    390日間は休暇前の給与水準の約80%が支払われる事になっている。
    残りの90日間は、一日約2800円の定額給付となっている。 

    この16カ月のうち、これまでに父親が取得出来る育児休暇は2カ月間のみ
    だったが、スウェーデン政府が2015年に新しく見直した制度では、その期間が
    更に1カ月間延長され、合計で3カ月間の取得が可能となった。 育児休暇は、
    子どもが8歳になるまで自由に取得する事が出来、新たに子供が生まれる
    度に、育児休暇日数が加算されるため、子供が多い家庭ほど、休暇日数が
    増える計算となる。

    【スウェーデンの育児休暇取得率】 
    2221

    積極的な育児参加を推進するため、この育児休暇は、使わないと消滅して
    しまう制度となっているため、この育児休暇を取得する父親が飛躍的に増え、
    現在、スウェーデンでは、約80%の父親が、この育児休暇を取得している
    また、子供が8歳の誕生日を迎えるまでは、勤務時間を最大で25%短縮する
    事も可能となっており、上記の480日間の休暇も、全てまとめてではなく、
    数回に分けての取得も可能となっている。 また、スウェーデン政府は
    16歳未満の子供がいる家庭に、子供ひとりあたりにして、月々およそ
    125ドルの児童手当も提供している。 
     
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    スウェーデン政府が男女平等での育児を促進する事を目的として育児休暇を
    導入したのは1995年からで、父親が60日間の育児休暇を取得出来るように
    なったのは2002年からとなっている。 元々はスウェーデンも日本と同様に、
    男性の取得率は女性の取得率の10%と、非常に低いものであった。 そこで、
    取得率を上げるために、1999年に父親専用の育児休暇が法的に作られる
    事になった。

    【日本の育児休暇の取得率】 
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    日本では最大で、1年6ヶ月の育児休暇を取得出来る事にはなっているが、
    日本男性の育児休暇取得率は、民間企業で2.63%、国家公務員で1.89%
    なっている。 日本では父親が休暇を取得する際に、働いていた時の賃金の
    最大50%が給付される事にはなっているが、現実的には、ほとんど制度を
    利用出来ない環境だと言える。

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