多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:フランス

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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属する
    クロマニヨン人が住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃
    から、フランスには、鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した
    地域は『ガリア』と呼ばれている。 紀元前58年から、ケルト人の指導者
    ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が
    支配するようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を
    起こし、キリスト教に帰依する。

    メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、フランク
    王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海に
    およぶ地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今の
    フランスにあたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で
    農業技術が発展し、土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、
    大領主に忠誠をつくして保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立った
    カペー朝は、キリスト教の権威を支えに、中世の封建制度を確立した。

    11~12世紀には、ロマネスク様式の教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の
    教会が各地に建てられた。 この頃、都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

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    1964年に日本の新幹線が時速210kmの世界最速で営業運転を開始した。 しかし、
    1981年フランス国鉄は、パリ~リヨン間(南東線)に、最高速度270kmの高速列車
    TGVを走らせ、トップの座を奪ったが、その後も、フランスは研究と実験を繰り
    返し、1990年には時速515kmの最高速度を達成した。 その結果を元に、最高
    速度300kmの営業運転を開始した。 それと前後して、新幹線網も広がり、パリと
    トゥールーズやル・マンを結ぶアトランティック線、パリとリールやカレーを結ぶ
    北ヨーロッパ線が新設された。

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    更に、南東線を延長して、地中海のプロバンスまで路線を伸ばし、2007年には、
    ストラスブール方面の東線も完成した。 東線は最高時速320kmを出しており、
    東北新幹線はやぶさと同じ営業速度となっている。 フランスの新幹線は、起動の
    幅を在来線と同じ1435mmにしたため、どの路線にも乗り入れることが出来る上、
    平らな土地が多いため、鉄道の建設費が安く上がる事などから、座席指定券は
    必要だが、特別料金は必要ない。

    フランスの新幹線網は、自国内だけに留まらず、1994年5月、イギリスとフランスを
    結ぶ全長約50kmの英仏海峡トンネル(ユーロトンネル)が開通した。 この
    事業には、青函トンネルを開通させた日本も、技術協力を行っている。 これを
    受けて、ロンドンとパリを結ぶ高速列車ユーロスターが開業し、両都市間は
    3時間で結ばれる事となった。

    eurostar

    更に、1996年には、フランスとベルギー、オランダ、ドイツを結ぶ高速列車
    タリスが営業を開始した。 これらの高速列車には、いずれもTGVの技術が
    生かされており、フランスのTGV各線もスイスやベルギー、ドイツ等へ路線を
    伸ばしてている。

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    パリの地図を見ると、ちょうど市街地を囲むように環状道路が巡らされ、
    東西南北の各門から、各地に向けて高速道路が走っている。 また、中心から
    少し離れたところに国鉄の駅が7つあり、そこから、鉄道が各方面に走っている。

    市内の鉄道の多くは、メトロ(地下鉄)で、地下に潜っている。 路面を走って
    いるのは、バスと最近復活した路面電車と、一部の国鉄の車両となっている。
    パリ市街の景観を考慮して、環状道路の内側に高速道路は通さず、鉄道は、出来る
    だけ見えないようにしている。

    metromap

    パリのメトロは、14路線あり、市内に網の目のように張り巡らされている。
    更に、郊外に向けて走る高速郊外鉄道(RER)と国鉄(SNCF)が交差して
    入って来る。 パリ市内であれば、これらの鉄道とバスを使えば、大概の場所に
    行くことが出来る。

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    更に、遠方に行くためには、国鉄の列車が便利。 パリには、リヨン、
    オーステルリッツ、モンパルナス、サン・ラザール、北駅、東駅、パリ・
    ベルシー駅があり、行き先によって分かれている。 どの駅舎も大きな風格の
    ある建物で、まるで博物館のようになっている。

    リヨン駅からは、ヨリンやマルセイユ、ニース方面、モンパルナス駅からは、
    フランス西部のロワールやブルターニュ方面、サン・ラザール駅からは、北西の
    ノルマンディー方面、北駅からは、ベルギーやオランダ方面、東駅からは、
    ストラスブール方面への列車が発着している。 世界最速を誇るフランス
    新幹線TGVも走っている。

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    飛行機は、シャルル・ド・ゴール空港とオルリー空港があり、各地に向けて、
    飛び立っている。 国内であれば、概ね、1時間程度で行くことが出来る。
    更に、地方の都市同士を結ぶバス便がある。

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    パリの街を歩いて見ると、整備された道路や街路樹、建物のひとつひとつ、
    それから庭園や公園等が、れっきとした芸術作品であることに気付かされる。
    店のショーウィンドウもさりげなくおしゃれに飾り立てられている。

    ファッション界でも年に春と秋の2回、パリコレクションが行われ、斬新な
    デザインを発表している。 パリは、19世紀頃から、多くの画家たちが集まり、
    作品を次々に発表し、美術界をリードして来た。 日本の画学生たちにとっても、
    パリは憧れの街で、多くの画家の卵たちがパリを訪れた。 そうした画家たちの
    中では、佐伯祐三(1898~1928年)、や藤田嗣治(1886~1968年)、岡本太郎
    (1911~1996年)らが知られている。

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    『芸術の都』とも呼ばれるパリには、美術館や博物館が100ヶ所近くもあると
    言われている。 三大美術館として、ルーブル美術館、オルセー美術館、
    ポンピドゥー芸術文化センター内の国立近代美術館を挙げることができる。

    ルーブルは、古代オリエントから19世紀半ばぐらいまでの世界の美術品、
    オルセーは、19世紀の作品が中心で、特に、印象派の作品が多く見られる。
    そして、国立近代美術館では、主に20世紀の作品を見ることができる。 この他
    にも、小規模ではあるが、個性的な魅力ある美術館がたくさんあり、ロダン
    美術館やギュスターブ・モロー美術館、ピカソ美術館等がある。

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    ユニークな美術館としては、フランス中世の発掘物やタペストリーを集めた
    中世美術館やアフリカ、アジア、オセアニア等の民族美術を集めたケ・ブランリー
    美術館がある。 一部を除き、ほとんどの美術館は、スケッチをしたり、写真を
    撮ったりすることは自由となっている。 ゆっくりと時間を掛けて楽しめる工夫が
    なされている。

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    花の都とも呼ばれるフランスの首都パリは、世界で最も華やかな都市として知ら
    れている。 パリの市街地は、東西11キロ、南北8キロの楕円形に近く、東京の
    JR山の手線の内側ぐらいの広さとなっている。 セーヌ川を挟んで、北側を右岸、
    南側を左岸と呼んでいる。 左岸は主に商店街として、左岸は学生街や官庁街
    として発展して来た。 市街地は近郊の3県まで広がり、更にその外側にまで
    街並みが続いている。

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    パリは元々は、セーヌ川にあるシテ島から開かれた街であり、今から2000年
    以上前、ケルト系のパリシィ族がこの地に住み着いたとされている。 その後、
    12世紀頃から国王が居住する地となり、14世紀には、ノートルダム寺院が建て
    られた。 16世紀から17世紀に掛けて、ルーブル宮をはじめ、多くの宮殿や
    庭園が造られ、今もその多くが残されている。

    今見られるような道路や建物を含めた街並みが出来たのは、19世紀後半、
    ナポレオン3世の命を受けたセーヌ県知事のオスマンが指揮した大改造計画に寄る
    ものである。 オスマンは凱旋門のあるエトワール広場(現在のシャルル・ド・
    ゴール広場)から放射線上に伸びる道路を造った。 そして、その両側に同じ
    高さの建物を並べ、建物の正面の柱やバルコニー、窓などを色々な模様で飾り
    立てるようにした。

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    その後も、パリは少しづつ、時には、大胆に変わって行った。 1889年、
    フランス革命百周年を記念して建てられたエッフェル塔は、当時は『美観を損ねる』
    として批判を浴びたが、今では、すっかりとパリの顔となっている。

    20世紀後半にも、ポンピドゥー芸術文化センターや、ルーブル美術館の中庭の
    ガラス張りのピラミッド、凱旋門の西のデファンス地区に建てられた新凱旋門など、
    パリの新しい顔が次々に登場している。



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    フランスで新しく成立した労働法改正法案の一つに『繋がらない権利』という
    ものが導入されたが、これは、オンラインでの仕事のし過ぎがもたらす悪影響を
    減らすことを目的に導入され、従業員50人以上の企業において、規定の勤務
    時間外にメールを送ることを禁じる。 これにより、フランスでは、週末または
    休暇中に、仕事のメールをチェックすると、法律違反となる。

    この法案を支持したベノ・ハモン文部大臣は、BBCでのインタビューに対して、
    『さまざまな調査から、仕事に関係するストレスが、昔に比べて非常に大きく
    なっていることが分かっています。 しかも、ストレスは途絶えることが
    ありません。 従業員はオフィスを離れても、仕事からは離れられません。
    まるで犬のように、電波の鎖につながれているのです。 メールやメッセージは
    疲れ切ってしまうまで送られて来て、生活を支配しています』と述べた。
     
    また、仕事による燃え尽き症候群も問題になっており、2月には、マリソル・
    トゥーレーヌ厚生大臣の指揮の下、仕事による疲弊を調査するワーキング
    グループがつくられた。 フランスの『レ・ゼコー』紙によると、フランスでは
    労働者の10人に1人が、仕事による燃え尽き症候群に陥る危険性があるという。 

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    この法律は、特にIT系に関連した職種において、従業員の私生活に悪影響を
    及ぼすことを制限するよう企業に求めており、企業側は、従業員がメールの
    送受信をしてはならない時間帯を具体的に定める『企業行動憲章』を導入しな
    ければならない。 メールが禁止されるのは、夜と週末が中心となる。

    非常に革新的な法律だが、現段階では限界がある。 法律は強制ではなく、
    従うかどうかは企業側が自分で決めることが出来、法律を破った場合も、特に
    罰則はない。

    フランスで新しく成立した労働法改正案では、残業手当の削減などがしやすく
    なるため、労働者たちが何カ月にも渡り反対して来た。 この法案は、議会で
    採決されないまま成立したが、反対者たちは今もフランス各地で大規模なデモを
    起こしている。

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    フランスで、政府が議会での採決を経ずに強行成立させた労働法改正法案に
    抗議する大規模デモやストライキが激化し、3日連続で公共交通機関に支障が
    出ている。 5月19日には首都パリで1万4,000人がデモ行進し、一部が治安部隊と
    衝突した。

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    抗議行動が2か月に及ぶ中、強硬姿勢を強めるエマニュエル・バルス
    (Manuel Valls)首相は、港や製油所、空港などでのデモの強制排除に乗り出す
    可能性に言及。 5月18日に暴徒化したデモ隊が警察車両を襲撃し放火した
    一件について、「厳しく処罰する」と言明した。

    労働法改正について、フランソワ・オランド政権は、硬直したフランスの労働市場の
    柔軟性を高め雇用を創出すると説明しているが、反対派は雇用の安定を脅かすだけだ
    として反発を強めている。

    出典:AFP

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    日本でも安倍政権になってからは、『ウィメノミクス』と呼ばれる女性の就業
    支援や幹部登用など、女性の社会進出を積極的に支援する動きが始まっているが、
    これほど女性の社会進出が叫ばれている風潮の中でも、日本社会の中で活躍する
    女性の割合は未だ極めて低い状態のままとなっている。

    『ウィメノミクス』は、少子高齢化により不足する労働力を、出産して子育ての
    ために家庭に入った母親たちを社会復帰させて補おうという経済戦略の一環なの
    だが、働く女性に立ちふさがる社会的な壁とは一体何なのか? 出産大国、恋愛
    大国としても知られるフランスと日本の現状を比較して紹介してみたいと思う。

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    【子供を持つ女性が働きにくい原因】
    ・保育園などの子供を預けられる施設や制度が足りない
    ・核家庭が増え、祖父母から保育のサポートを受けられない
    ・公的な休暇が少なく、仕事の休みが取りにくい
    ・経済的に子供を育てる余裕がない
    ・子供ができたら家庭に入るものという社会風潮がある
    など

    フランスの母親が女性らしく子育てを楽しめる5つのポイント

    ①就業時間が守られている

    フランスでは、男性も女性も就業時間が徹底して守られており、男女共に決まった
    時間内に仕事を切り上げるため、子育て中のママたちが引け目を感じながら
    こっそりと定時で帰宅するという社会的な後ろめたさがない。

    フランスの職場は男女平等であり、日本のように残業することが当たり前、
    あるいは、終業後に部内の人間と飲み屋を終電まで飲み歩くといった風潮が
    ないため、終業後の時間がハッキリと読めるのが日本との決定的な違いとなって
    いるため、ストレスが少ない。 

    フランスの男性は、比較的育児には協力的だと言われているのだが、男性も女性も
    仕事の時間をきっちりと守ることで、お互いに育児をする余裕があるのかも
    知れない。

    【就業時間が一定している場合の子育てメリット】
    ・子供の都合で予定が立てやすい
    ・食事や入浴などの生活日課を決まった時間でこなすことができる
    ・仕事と家庭の気持ちの切り替えがすばやくでき、ストレスが減る
    ・気持ちに余裕が生まれ、家族との時間を楽しむことができる
    など

    世界の有給休暇支給日数とその消化率
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    ②休暇制度が整っている

    フランスの育児休業は、出産から3年間となっており、日本で法律的に保障を受ける
    ことができる育児休業は、出産から1年間のみ。 子供が一番手の掛かる時期に
    十分な育児休暇が取得出来るフランスの社会制度は、女性に対しても非常に
    手厚いと言える。

    日本では、マタハラや、出産した女性を降格処分にする企業が相次ぎ、社会問題
    にもなっているが、フランスでは、育児休業後でも産前と同等の地位が法律で
    保障されている。 尚、この育児休業は、いつ切り上げても良いことになっている
    ため、フランスのママ達は自分の体や子供の成長の度合いを見極めて、自分の
    好きなタイミングで職場復帰することが出来る。
     
    フランスの学校には、『バカンス・スコレール』と呼ばれる丸2ヶ月間の長い
    休暇があり、親も子供の休みに合わせて、5週間もの有給休暇を取るのが普通。
    フランス人にとって『有休取得は国民の権利ではなく義務』となっており、
    1年間に5週間与えられた有給休暇の消費率は、男女共に、ほぼ100%と言われて
    いる。 働く時は全力で働き、休暇を思いっきり楽しむため、気持ちの切り
    替えが付けやすい。

    【フランスの子育てで取得出来る休暇】 
    ・育児休業・・子供が3歳に達するまで。
    無給だが要件を満たせば乳幼児保育手当の支給があり、勤務時間短縮度に応じて
    就業自由選択補足手当が支給される。

    ・看護休暇・・16歳未満の子供がいる場合は年3日。
    1 歳未満の子供、あるいは 16 歳未満の子供が 3 人以上いる場合には最長 5 日間
    取得可能。

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    ③働き方を自分で選ぶことができる

    フランスの出産休業期間は、出産から3ヵ月間となっているが、この3ヵ月間で
    職場復帰する人も居れば、3年間の育児休業を取って育児に専念する人も居る。
    フランスでは、そんな多様なライフスタイルが、当たり前のこととして認められる
    国となっている。

    日本で子育てを優先したい場合は、退職以外の道は残されてはおらず、ましてや、
    男性のイクメン休暇は、現実的にはあり得ないでしょう。 近年、日本でも
    『新しい働き方』が導入され、1日6時間程度の短い労働時間や週2~3日程度の
    勤務体型が導入されつつあるが、日本の場合は、男女ともに、それ以外に仕事が
    見つからないため、仕方なくそこで働くしかないのが実情だが、フランスの女性は、
    子供の育児の様子に合わせて働く時間を選び取り、無理をせずに育児と仕事を
    両立できる工夫がされている。

    フランスのパートタイム労働者と日本のパートとの根本的な違い 

    フランスでも、『子育てを優先したい』と考える人達が出産後に選ぶのは、やはり
    パートタイム労働。 但し、フランスのパートタイムは、日本のとは大幅に違なり、
    正規雇用の職員として、出産後3年間の身分が保証されている。

    日本では、パートタイム労働者に対するあからさまな賃金の差や、その扱いが
    取り沙汰されているが、フランスでは、復職後は以前の地位が法律で保障されて
    いるため、安心してこの制度の恩恵を受けることができる。 働いた時間に対して
    給料が支払われ、更に国からは助成金をもらうこともできるため、子育て中は、
    経済的にも保障されている。

    更に、3年間の育児休業が終了してからも、子供達の学校休暇に合わせた働き方が
    できるようにパートタイム労働を採用している企業が多いのがフランスの特徴と
    なっており、日本のように、子供の休みに合わせた休暇が全く取れないなどという
    理不尽な扱いは受けない。

    【フランスで保障される公的助成金の対象】
    ・フルタイムで働いていて育児休業を取得する場合
    ・通常勤務の50%の時間のみ働くパートタイムを選択した場合
    ・通常勤務の50%から80%のみ働くパートタイムを選択した場合

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    ④保育・教育システムが整っている

    フランスでは、6歳未満の子供を育てている母親の就業率は6割を超えており、
    日本では3割程度に留まっている。

    フランスでは、0歳児から受け入れている保育園が多く、政府から認可を受けた
    家庭保育事業サービス等が充実していているため、日本よりも子供の預け先の
    選択の幅が広いため、職場復帰がしやすい。 フランスでは、3歳から学校に入り、
    学童保育も充実している。

    フランスでは、3か月の出産休暇が終わると、すぐに仕事に復帰して行く母親が
    多く、子供が生まれ、体が回復したらすぐにでも仕事に戻り、キャリアが積める
    というのも、働く女性にとっては嬉しい環境となっている。

    【フランスの子供の預け先】
    ・保育園・・・0歳から3歳までの子供に対応。 ただし、競争率は激しい
    ・小規模保育園・・0才から6才までの子供に対応。
    ・保育ママ・・0歳から6歳までの子供に対応。 特別な資格を有する
    ・家政婦さんや子供世話係・・自宅で全年齢の子供に対応。 学生などが多い
    ・学校・・午前8時半から午後4時半まで授業。
    ・学童・・午前7時半から午後7時まで。 学校の長期休暇中も利用可能
    など

    フランスの補助金制度の割合

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    ⑤補助金制度が整っている 

    現在、先進国の中は、出生率が深刻な問題となっているが、その中でも、フランスと
    スウェーデンは、高い出生率を維持している。 この2つの国でも一時出生率が低下
    したが、その後、出生率を向上させるために、政府はあらゆる努力をして来た。

    女性が働きながら子育てができる社会の構築、並びに、子供を持つことに対する
    経済的負担の軽減措置は、この2カ国に共通しており、特に、フランスは、経済的な
    負担を可能な限り少なくして、子供を育てやすい環境を整えて来た。

    フランスの教育費用は安い

    日本では教育に余りにもお金が掛かり、親の経済的な状況や、貧困等によって進学を
    諦める子供が増えている。 経済的な余裕がないために、子供を持つことを断念
    したり、最近では、結婚すら諦めているケースも少なくない。

    しかし、フランスではこういった悪循環をなくすために、さまざまな公的補助金
    制度が用意されており、子供を預けてでも働くメリットを実感している母親が
    たくさん存在している。

    フランスでは、基本的に公立校であれば、授業料は高校まで無料となっており、
    大学も入学金等はなく、年間数万円程度の学費で十分な教育を受けることができる。

    【フランスでの子育てを支える補助金制度】

    ・一般的扶養手当
    所得制限はなく、20歳未満の子供が2人以上いる家庭に子供の人数に合わせて支給
    される家族手当や、成人手当、低所得家庭を救済する低所得家庭手当、シングル
    マザーにも支給される孤児手当

    ・.幼児養育手当
    育児のために休業やパートタイム労働を選択した場合の育児休暇補償や、出産
    一時金、基礎手当、保育料手当

    ・.特定目的手当
    障害児手当、学童手当、看護手当、住居手当、引越し手当
    など

    総じて、日本の女性の社会進出が全くと言って良いほど進んでいないのは、社会や
    企業に出産、子育てという概念が浸透していないのと、それらに対する社会保障や
    受け入れ先が全くと言っても良いぐらいに整備されていないことを挙げることが
    できるが、貧富の差がますます激しくなっている日本社会においては、政府が
    積極的に介入をしない限り、この先も特に何も変わらないであろう。

    イクメン休暇を取得しようとした議員が辞職に追い込まれたが、女性の育児休暇
    以前に、男性の育児休暇は、ドイツ、フランス、スウェーデン等では保障されて
    おり、女性だけではなく、男性の育児休暇、並びに、結婚すら諦めてしまうような
    不安定極まりない雇用情勢を日本政府には是非とも改善して欲しいところ。

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    現在、フランスでの失業率は、約9%となっているが、日本の4%台と比べると
    約倍の数値となっている。 しかし、国による失業保険制度は日本よりも遥かに
    手厚くなっており、もし、フランスで失業した場合には、以下の様な手厚い保護を
    受けることができる。

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    フランスで『失業保険制度』にあたるのは、雇用復帰支援手当(Allocation d'aide
    au retour a l'emploi)で、1日あたりの支給額の計算方法には、2通りある。

    一つは『前職の月額賃金を30日で割った額の40.4%に11.34ユーロを加えた額』。
    もう一方は『前職の月額賃金 を30日で割った57.4%の額』。 両者を計算して、
    高い金額が適用される。 給付の上限と下限も決められており、上限は『前職の
    月額賃金を30日で割った額の75%』を超えないこと。 下限は27.66ユーロと
    なっている。

    雇用復帰支援手当を貰うための条件は、民間企業で働く50歳未満の人の場合、離職
    以前の28カ月間、50歳以上の人の場合は、離職前の36カ月間、それぞれ制度に
    加入していた期間が122日以上、もしくは、すべての労働時間が610時間以上ある
    ことが必須となっている。

    自己都合による退職、職業に就く能力がある者、あるいは、年金受給者の場合は
    支払われないが、満額支給期間に達していない場合は、満期まで支払われる。
    手当を貰える期間は、加入していた期間と同じ長さとなっている。

    しかし、この期間には上限があり、50歳未満で730日、50歳以上で1095日以下と
    なっている。 これらの条件は、フルタイムの労働者だけでなく、派遣や
    パートタイムの人達も含まれている。

    雇用復帰支援手当を貰うためには、日本同様、公共職業安定所(Pole emploi)に
    登録しなければならない。 病気などの特別な理由がなく、すぐに働けると判断
    された人に関しては、職安との面談を通じて、職業訓練などを含む就職支援の
    ための就職計画が作られる。 この計画に基づいて、職安は再就職の提案をして
    行くが、登録者が職安からの求人を2回拒否したり、職安の利用を拒むと、手当の
    支払いは自動的に止められる。

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    この給付期間が終わった時点で、なお失業中の場合は、特別連帯手当(Allocation de
    solidarite specifique)という制度も存在する。

    この手当を受け取るためには、65歳未満、そのうち60歳以上の人は年金の満額受給
    期間に満たないことが必須となるが、これは、もちろん職安に登録して就職活動を
    怠らずに続けている人が対象となる。 加えて、失業以前の10年間に5年以上就業
    しており、失業中に雇用支援手当が支払われていた人が対象となる。

    ただし、育児が理由で仕事から離れた人の場合は、子供1人につき1年間、3年を
    上限に5年の期間を短くできる。 月収に関しても、申請をした時点で雇用復帰手当
    (1日あたり)の70倍(単身世帯の場合)、もしくは110倍(法的なパートナーが
    いる世帯の場合)以下でなければならない。 適用期間は、最長で6ヶ月間だが、
    上記の条件に引き続き当てはまっていれば、何度でも更新できる。 

    また本当に手当が必要な人がいる一方で、手厚い制度(50歳未満2年間、50歳以上
    3年間)に乗じて、急いで職を探そうとしない人も実は多いという。 1年目は休暇に
    当てて、2年目からようやく本格的な再就職を始めるという人も少なくないという。

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    日本でも一時期企業による『追い込み部屋』なるものが話題となったが、
    フランスでは企業側から仕事を与えられずに、病気になったとして、フランス人
    男性が訴訟を起こした。 日本では、このような訴えを起こしたとしても、
    裁判所からは相手にすらされないのだが、日本の常識は、世界の非常識とも
    言うべき、驚くべき内容を紹介する。

    030113

    香水関連会社で8万ユーロ(約1,000万円)を超える年俸を得ていたフランス人
    男性が、仕事が退屈になり『プロのゾンビ』にさせられたとして元上司を
    提訴した。
     
    フレデリック・デナール氏(44)は 2日、『退屈症候群』になったとして
    損害賠償36万ユーロ(約4400万円)の支払いを求める訴えを労働審判所に
    起こした。
     
    デナール氏は香水会社アンテルパルファムに勤めていたが、7か月間の病気
    休暇を取った後、2014年9月に解雇された。
     
    デナール氏の弁護士によると、同氏は『燃え尽き症候群』の反対である
    『退屈症候群』のため自動車の運転中にてんかんの発作が起き、交通事故を
    起こした。 この事故で同氏は数日間意識不明となり、その後病気になった。
     
    デナール氏は2006年12月にマネジャーとしてアンテルパルファムに入社した。
    最初は仕事一筋の模範的社員だった。 だが、デナール氏の仕事量は2009年から
    減り始め、2012年にアンテルパルファムが主要顧客を失い従業員を解雇し始めて
    から状況はさらに悪化。 何もすることがなくなった同氏は、同社社長の使い
    走りをするようになった。

    【日本企業による追い込み部屋の一例】 

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    仏紙ルモンドのインタビューでデナール氏は『1日の仕事は20分から40分』で
    終えてしまっていたと述べた。 『もう何に対してもエネルギーを失ってしまった。
    何もしないで給料をもらうのは罪であり恥だと感じた。 自分は会社で見えない
    存在になったという気がした』

    医師の診断書は出ているが、フランスの労働法の下でデナール氏が不当解雇されたと
    主張して裁判で勝つには、デナール氏側が病気と労働条件との関連を証明しなければ
    ならない。

    アンテルパルファムの弁護士はデナール氏の『戦略』に疑問を投げかけている。
    というのもデナール氏は以前、自分を働かせ過ぎたとして同社を労働審判所に
    提訴したことがあったからだ。

    労働審判所は7月27日に判決を出す予定。

    尚、フランスでは、社会保障が行き届いているため、企業を辞めてからの
    失業保険は、最長で3年間も失業保険(雇用復帰支援手当)が出続けることに
    なっている。

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    最初のうち『反抗同盟』は、オランダ政府内の改革を求めていた。 しかし、
    1830年頃には、ベルギー領内の完全な独立を求める運動が力を持ち始めた。
    この年、経済的な理由から、都市労働者は、職場の改革を求めてデモを行った。

    ウィレムは、軍隊をブリュッセルに派遣して、騒乱を鎮圧しようとした。
    激しい戦争が3日続いた後、オランダ軍は撤退し、2週間としないうちに、
    臨時政府がベルギーの独立を宣言した。

    当時ヨーロッパの大国であったイギリスは、再び戦乱を起きるのを防ぐため、
    ベルギーの行動を支持した。 イギリスは、各国に呼び掛けて、ロンドン会議を
    開き、この会議でヨーロッパ列強は、ベルギーの独立を承認した。 1831年6月、
    ベルギーの臨時国会は、国王としてドイツのザクセン・コーブルク家の公子を
    選んで、レオポルド1世と名乗らせた。これは、イギリスにもフランスにも
    受け入れられる人物だった。

    belgianrevolution

    レオポルド1世は、立憲君主としての地位に留まり、極めて限られた権力で
    満足した。 そして、その制約の中で、レオポルド1世は、懸命に国を治め、
    自分の影響力を使って、ベルギーの経済的利益を促進するのに努めた。 その結果、
    ベルギーは、自立した国家として繁栄した。

    ベルギーの貿易が拡大するにつれて、都市は成長した。 そして、
    アントウェルペンは、再び一流の港湾都市となった。 ワロン地域圏の鉄鋼と
    石炭の採掘が盛んに行われるようになり、重工業の発展を促した。 その中には、
    鉄道施設の建設や、鉄道用車両の製造等が含まれていた。 19世紀中頃までに、
    ベルギーの主要な輸出品は、農産物から工業製品に変わった。 これらの変革に
    よって、ベルギーは、ヨーロッパ大陸で重工業化された最初の国家になった。

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    【レオポルド2世】
    1865年、レオポルド1世の息子のレオポルド2世はがベルギーの国王となった。
    この王の時代に、ベルギーには強力な輸送網と金融機構が発達して、各種の
    産業が起こり、莫大な富を産んだ。 その一方で、レオポルド2世は、イギリスの
    探検家ヘンリー・スタンレーを派遣して、コンゴ川(現在のザイール川)流域の
    アフリカの首長たちとの間に有利な協定を締結させた。 この協定によって、
    コンゴ自由国が樹立された。

    23年間に渡り、レオポルドは、コンゴ自由国を個人的に支配し、現地労働者を
    搾取して産出されるゴムと銅から莫大な富を得た。 しかし、20世紀初頭、この
    事実かが世界的に暴かれ、問題となった。 国際的な委員会が作られて、コンゴ
    でのレオポルドの個人的な権限を停止するよう、ベルギー議会に圧力を掛けた。
    その結果、ベルギー政府は、1908年にコンゴを併合し、この地域での鉱山採掘権を
    政府の管理の元に置いた。 以後、コンゴは、レオポルド個人の手から離れ、
    ベルギー国家の植民地となった。

    ベルギーの経済的な成功にも関わらず、言語を巡る摩擦は続いた。 フランス語は、
    政府部内でも企業でも教育の面でも広く使われた。 フラマン地域圏の人々は、
    自分達の言語に平等な地位を与えられていないのに不満だった。 1898年、民衆の
    抗議の結果、ベルギーは、公式にバイリンガル国家、つまり、2つの言語を併用
    する国家となった。 しかし、政府の指導者達は、その後も長い間、フランス語を
    使用し続けた。

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

    072000

    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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